喪失
その日はフィーレでは珍しい良く晴渡った青空の、清々しい朝だった。
セレスティス大陸中心部に位置するフィーレの街は、夏の季節以外は酷い寒さと暗い空に覆われる事が多い。今の季節は春に近いのだろうが、未だに分厚い上着を手放せない寒さが続いている。けれど、今日は久しく暖かな日差しにより、若干温度も上がったようで、気持ちの良い一日の始まりだった。
ケイは硬いソファーの上での寝泊りに慣れてきたのか、身体が痛む事がなくなっていた。
勿論、柔らかな寝台は恋しい。けれど今は客に譲っている状態なので、必然的にソファーでの寝泊りが当たり前のようになっていた。
ケイは久しぶりのすっきりとした目覚めに身体をのびのびと伸ばした。
「あー、良く寝た。今日は仕事もオフにしたし、ゆっくりするか」
仕事柄、昼夜逆転する事の多いケイだったが、珍客のお陰で最近は比較的規則正しい生活を送っている。といっても、まだ数日程度なのだが。それでも、身体が調子良く感じられるのは、恐らく気のせいではない。
ケイはソファーから立ち上がると、顔を洗うために洗面所へと移動した。
整髪料や歯ブラシやタオルなどが乱雑に置かれている洗面台の明かりを点ける。そして思わず身震いするほど冷えた水で顔を洗い、手近にあったタオルで顔を拭った。そこでようやくぼんやりとしていた意識がはっきりとする。
視線の先には、洗面台の鏡に映った少年がいた。寝癖だらけの明るい鳶色の髪を軽く手串で直す。暗い灰色の瞳に、健康的に焼けた小麦色の肌。数え始めて十三になるケイは、年の割りに幼く見られる事が多い。それはまだ成長しきらない身長のせいではないだろう。ケイは自分の顔が童顔なのだと理解している。拾ったエルフは恐らく同じ年頃だろうが、無表情のせいか幾分大人びて見えた。神秘的な雰囲気がそうさせるのかもしれない。
早朝から珍客ことエルフを思い出し、ケイは気を引き締める。
「今日こそ成功させるぞ」
自分に言い聞かせるように呟き、ケイはタオルを放り投げて洗面所を後にした。
まず向かったのは部屋の壁際にある台所。そこには昨日から放置している買い込んだ食材が入った紙袋が置いてあった。
自分の朝食は後回しにし、先にやるべき事にあげたのはエルフに何か食べさせる事であった。
昨日の野菜スープは人間の料理だ。エルフ族から見れば、食事に見えなかったのかもしれない。彼らが普段何を食し、どんな料理をするのかを知らないケイに残された選択肢は一つだった。加工していないものをそのままの状態で渡す。
加工しないで手軽に食べられるものは、ケイにとって果物類だ。
森に住まうエルフ達のことだ、果物くらいは見覚えがあるだろう。
ケイは食材の袋から数個の林檎を取り出し、盆に載せる。ついでにろ過した薬缶の水をグラスに注ぎ、盆に加える。
朝食としては簡単すぎるかもしれないが、怪我人には丁度いいだろう。
ケイは盆を片手に、寝室へと挑むように向かった。
そっと寝室の扉を開く。寝台と小さな背の低い棚と衣装棚だけが置かれた狭い寝室はケイの予測に反し明るかった。
窓の帳を開き、暖かな光を取り入れたのは勿論ケイではない。昨晩の内に、ケイは窓の帳を閉めた。その時には、窓際の寝台の上では、エルフがうつ伏せに眠っていた。
帳を開け、緩やかな光を招き入れたのは寝台の上で半身を起こしているエルフだろう。
「よぅ、具合はどうだ?」
言葉が通じないと分かっていても、ケイは気軽に声をかけた。
すると、昨日は薄い反応だったエルフがケイの声に反応し、ゆっくりとした動作で振り返った。
鮮やかな紫銀の髪は寝癖でふわふわとしていたが、端正な容姿のためか、シャラのようにだらしない印象は受けなかった。薄い水色の瞳は、ケイを映し出し、次にケイの片手に乗せられている盆を見つめた。
「何も食わないと、良くなんねーぞ。ほら」
昨日と同じように林檎とグラスを載せた盆をベッドサイドの棚に置く。
「これなら食えるだろ?」
確信を持って、ケイはエルフに朝食を取るように促す。
しかし、エルフは棚の上に置かれた林檎をじっと見つめるだけで手を出そうとしない。
だが、昨日のように興味ないとばかりにすぐに視線を逸らす事はなかった。
ケイは警戒しているのだろうと思い、盆の上の林檎を一つ掴み取り、大きな口をあけて一口頬張った。
甘酸っぱく、瑞々しい果汁が口の中に広がる。蜜が沢山入っている事がわかるほど甘く、歯ごたえのある林檎だった。
エルフはいつの間にか視線を林檎からケイへと移し、その豪快な食べっぷりを見ていた。
「別に毒なんか盛ってねーから。今更毒殺するくらいなら、助けたりしてねぇよ」
それだけ言って、ケイは大きな口で再び林檎にかじりついた。
エルフの興味を引く事に成功したケイは、今度は盆に乗っている林檎を掴み、ぼんやりとしているエルフめがけて軽く放り投げた。突然の事に驚いたのか、条件反射かエルフはケイの投げた林檎を両手で掴み取った。
「お見事」
お前も食えよとばかりにケイは自分の持つ林檎を一振りしてから、再び食べ始めた。
エルフはケイと林檎に視線を何度か往復させる。数回それを繰り返した後、エルフの視線は真っ赤な林檎に定まった。
恐る恐るという言葉が良く似合う動作でエルフは林檎を口元まで運ぶと、小さく一かじりした。
(よっしゃ!)
声には出さないで歓喜を心に浮かべると、ケイはにやりと笑った。
エルフは口に入れた林檎を時間をかけて咀嚼している。その表情は、少しだけ和らいだものになっているように感じられた。強い眼差しでも、無表情でもない、このエルフ本来の表情なのだろう。
エルフはその後、林檎を優雅な手つきで食べ続け、芯だけを綺麗に残した。それを盆の上にそっと置くと、再びケイを見上げた。
ケイは言葉が通じないであろう相手に、どうするべきか迷う。そこでひとつ、言葉ではないけれど相手に伝わるものを思い出す。ケイはゆっくりと人差し指を自分の顔に向け、一言だけを呟いた。
「ケイ」
エルフはそんなケイをじっと淡水の瞳で見つる。
警戒心がまだ解けないのか、一瞬視線をケイから逸らす。しかしエルフは再びケイを見上げ、ケイと同じく人差し指を自分の顔に向け、小さな声で言葉を発した。
「ア……ジェル……アジェル・シフィーラ」
掠れて聞き取り難かったが、始めて聞くエルフの声は高くも無ければ低くも無く、落ち着いた響きを持っていた。
会話と呼べるのかも分からないが、ようやく意思疎通が出来た気がしてケイは喜びに幼さの残る顔を綻ばせた。
ケイは次に人差し指を己の口元へ持って行き、ゆっくりと聞き取り安いように言葉を発する。
「俺の言う事、分かるか?」
エルフはケイの仕草と言葉を見つめていたが、しばらくすると緩く頭を振った。
何を言っているのか、分からない。そういう事だろう。
まだ幼さを残すエルフだ。共通語を話せるまで教育されていなかったのだろう。人づてに聞いた話では、エルフは拙いながらに人と同じ言葉を話す事もできるらしい。実際、シャラのようにエルフの血を引く人間もいるのだ。人間と恋に落ちたエルフ族も少なからずいるのだろう。
だが、アジェルと名乗ったエルフは言葉が通じない。手振り身振りだけで意思疎通ができるのにも限界がある。
ケイがエルフの言葉を覚えるか、アジェルが人間の言葉を覚えるかしなくてはこの先会話は成立しないだろう。
頭の中でどうするべきか考えているうちに、アジェルは遠慮がちに二個目の林檎を食べていた。
それを横目で見やり、ケイは心の中でため息を吐く。警戒心がある程度解かれたのは喜ばしいが、この後はどうするべきか。真剣に考えるケイの背後から不意に物音が響いた。
寝室の扉を開いた音だと理解すると、ケイはアジェルを庇うように寝台を背に構えを取った。
考え込むあまり注意力が分散していたらしい。
己の不注意に舌打ちをするが、寝室の扉を開き我が物顔で入ってきた人物に、ケイは構えを解いた。同時に驚きで大きな目を皿のように開く。
「シャラ……!?」
「はよーケイちゃん。で、後ろの子が噂のエルフの子供ね」
「なっ!? どうしてそれを……噂って?」
先日見ただらしない格好のままのシャラは、驚いているケイを鼻で笑うと瞳にかかった黒髪を払った。
「今下町とスラム街じゃエルフ探しが盛んだぜ? 噂、聞いてないの? 何でもヤバイ連中を切り殺したエルフの子供が、この街で逃走中だって。報奨金出してまで血眼で捜してるらしいぜ?」
何でもない事のようにさらりと言い捨て、シャラは寝台の上で警戒心を再び露にしているアジェルに近寄った。
「ラ・サーナァ・シャラ。ケイ・ドゥラァートゥ」
ケイには聞いた事のない言葉の羅列を、まるで歌うように話したシャラは、アジェルの反応を待っているようだった。
アジェルは一度ケイに視線を向ける。透明な水色の瞳には、微かな動揺が見て取れた。
「シャラ、お前エルフ語喋れるのか?」
小さな声で問いかける。シャラは肩をすくめて、「少しだけな」と返した。
しばらく部屋の時間が止まったかのように、沈黙が流れる。
アジェルはシャラがエルフ語を話した事に疑問を持っているようだった。
見た目は人間と変わらないシャラだ。四分の一だけしかエルフ族の血を引いていない彼の耳は、ハーフエルフの耳と比べても、人間に限りなく近い。だからこそ、余計に怪しんでいるのだろう。
沈黙を破ったのは、アジェルではなくシャラの方であった。
「ラ・サーナァ・ヴェルスィーエルフ」
「おい、さっきから何言ってんだよ?」
シャラの言葉が理解できないケイは、通訳しろとばかりにシャラのわき腹を小突いた。
「俺はシャラ。ケイの友達。俺はエルフの血を引く者ってな。簡単に言えば」
シャラがケイに説明をしている内に、アジェルは意を決したようにシャラを見上げた。
「ラ・サーナァ・アジェル・シフィーラ……リヴィアレィトゥ……ワナ・ヴァラヴー・ジャスティーナァ……」
「マジかよ……」
アジェルの言葉に、シャラは頭を抱えるような素振りを見せた。
そんな悪友の様子に戸惑いを隠しきれないケイは、シャラをもう一度小突いた。
「何つったの?」
「聞いたら最悪だぜ?」
半ば哀れみの視線を送られて、ケイは先ほどよりも強くシャラのわき腹をひじで突いた。
「良いから言えっての」
丁度良く通訳が来ているのだ。この際、素性やどうしてここにいるかなどを説明してもらいたい。ついでに、ケイの言葉も伝えて欲しい。
「このお嬢さん、名前以外は何も分からないって」
「はあぁぁ!?」
シャラの爆弾発言に対して、ケイは悲痛な叫びを上げた。