きっかけ


 ケイがエルフの手当を終え、着替えさせて寝台に寝かしつけたのは夜も更ける頃だった。
 部屋の入り口付近はエルフの血で赤黒く汚れていたため、それを拭い取り、血まみれの雑巾と包帯をゴミ箱に投げ入れる。そこでようやく全てが終り、ケイはどっと噴出した疲れのあまり、部屋の真ん中にあるモスグリーンの簡素なソファーに身を横たえた。
 隣の小部屋で眠っているエルフは目覚める気配を見せない。
 あれだけの深手を負っているのにもかかわらず、よくフィーレまで辿り着いたものだ。出血も相当なもので、生きているのが不思議なくらいであった。だが、ケイの懸命な手当により、今は少しだけ安らかな表情に変化していた。苦しげな呻き声に、何度か言葉や名前らしきものをうわ言のように呟いていた。しかしエルフ語を知らないケイには何の事かまったく分からなかった。
 ケイにできるのは応急処置と、人間に見つからない場所を提供するだけだ。
 何故、人間と対立関係にあるエルフがフィーレに訪れたのか、いくら考えてもケイには分からなかった。
 本人に聞くにしても、言葉が通じるのか不明だ。
 ついでに、目覚めるのかさえ曖昧だ。

「なんでこんな事になったんだろ……」

 思い返してみても、厄介ごとを持ち込んだのはケイ自身だ。
 今日も仕事があるというのに、ろくな睡眠もとれず踏んだり蹴ったりだ。それでも、挑むように睨み付けてきたエルフの淡水の瞳が脳裏に焼きつく。強く、だけどぎりぎりの脆さを持っているような、そんな印象を受けた。
 ――もう一度、あの瞳を見たい。
 柄にもなくそんな事を考えている自分に気付き、ケイは自嘲した。
 夜明けまでまだ少し時間がある。
 一睡もせずに仕事に赴くのは危険だと熟知しているケイは、残された僅かな時間を睡眠に使うことにした。


◆◇◆◇◆


 エルフを拾ってから三日過ぎた頃、ケイは仕事に使っている小さな古本屋でため息をついた。
 怪我の手当をしてから、エルフの容態は徐々にではあるが良くなっているように感じられた。傷口は塞がり、包帯に赤い色が滲む事もなくなった。幸い細菌などの感染は無かったようで、傷口が膿んだりする事は無かった。日に日に顔色も良くなり、蝋のように青白かった肌も血の気を取り戻していた。
 けれど一向に目覚める気配を見せない。
 うわ言のようなものが、形の良い唇から零れたりはしていた。しかし、それに反応したケイがささやくように目覚めを促しても、その瞳が開く事はなかった。
 あのエルフを拾ってからというもの、ケイは家にいても落ち着かない日々が続いた。
 人間から見れば敵と言っても過言ではないエルフ族を匿っているのだ。
 当然、家の中に誰かを入れるわけにはいかず、また外から覗かれる事も懸念してエルフの眠る部屋の窓の帳は閉ざされたままだ。お陰さまで、ケイの友人達はケイの不振な様子に疑問を持ち、その言い訳を考えるのに必死だ。
 ケイの住んでいる部屋の隣には、ケイの幼い頃からの悪友もとい兄貴分の青年がいる。実はこれが一番厄介な存在で、毎日と言っても良いほどケイの家に勝手に上がり込んでは、夕飯をせがむのだ。本人は料理が壊滅的にできない人種らしく、出来合いのものを買う余裕が無い時はケイに頼る。いつの間にかそれが日常になっていた。
 だが、今彼を部屋に入れるわけにはいかない。
 苦し紛れの言い訳として、ケイは彼に「しばらく本屋に篭って仕事するから、家には帰らない」と告げておいた。
 家主がいない部屋には勿論食事もあるはずは無い。なので彼が勝手に家に入り込む事はないだろう。
 勿論、ケイは彼の目を盗んでは家に帰り、エルフの容態を確かめていた。
 しかし、目覚める様子の無いエルフの処置にほとほと困り果てていた。

「今日は仕事オフだってのに、ほんとついてねー……」

 椅子に座ったままカウンターに突っ伏す。
 この古本屋はケイが仕事を請ける窓口でもある。古本屋というのは仮の姿であり、本来は別の用途に使われている。勿論、古本を売買しに来る客も若干いるが、文字も読めない者が多いスラムの人はごく稀であった。場所は商人やある程度の生活が保障されている中流階級の人々の住む地区の丁度中間辺りに位置する。その為、買い物には困らないし、物騒な人もスラム街の中心に比べれば格段に少ない。
 古本屋の奥には簡素な部屋があり、寝泊りも出来るようになっている。
 隠し部屋のような地下室も存在するが、それを知るのはケイと彼の悪友のみだ。

「そろそろ、隠し通せないよな……シャラの奴感だけは良いからな」

 悪友もとい隣人を思い出し、ケイは二度目のため息をついた。

「俺が何だって?」

 突然聞こえた声にケイは素早く反応し、声のした背後を振り返った。

「シャラ! てめぇ何でここに?」

 ケイの背後には長身の青年が奥の扉から顔を覗かせていた。
 やや伸ばした漆黒の髪と同じ色の瞳を持つ、人間にしては色の白い青年だ。堀の深い目鼻立ちは美青年と言っても過言ではないが、だらしなさが目立つ服装やぼさぼさの髪が彼の品を下げていた。よれよれのデニム生地のズボンに、同じくしわが目立つ黒いシャツを着ている。それもボタンをとめるのが面倒なのか、わざとなのかは不明だが、大きく胸元を開き、悪趣味(だとケイは感じている)な金の首飾りをしている。
 まさにスラムにこそ相応しいなりをした青年だった。
 職業は、少し前まではケイと似たような事をしていたが、今は女を喜ばせるための喫茶店で働いていると言っていた。所謂、ホストというものだ。

「お前が家に帰らねーっつうから、俺腹ペコで。どーせここにいると思ったから待ち伏せしてたんだよ」

「ここまで飯たかりに来るんじゃねーよ! 彼女のところに邪魔すればいいだろ」

「あーメリーなら三日前に別れた。浮気がばれてさー」

「じゃあその浮気相手のところに行けよ!」

「あー駄目駄目。どっちも浮気が発覚して修羅場になって俺逃げたからさ。しばらく家にも帰れねーんだわ」

 どうやらケイの知らないうちに勝手に古本屋の奥の部屋に隠れ潜んでいたらしい。
 ほとほと救いようの無い奴だと思いながらも、ケイは三度目のため息をついた。

「お前さ、少しは付き合う相手大事にしろよ」

「大人の恋は複雑なんだよ。まだまだ子供のケイちゃんにはわかんねーだろうけど。で、俺が何だって?」

 最初の言葉をもう一度繰り返し、シャラは一歩ケイに近寄る。
 ケイは気まずそうに視線をそらし、言い訳を考える。しかし、良い案が浮かばず、「別に……お前がどーしようもないって思ってただけだよ」と返した。
 シャラは訝しむように座っているケイを見下ろしたが、すぐに興味を失ったらしくにっこりと微笑んだ。

「ま、別に何でもいいけど、飯作らねーの?」

 飽くまでも飯をたかりたいらしい。
 ケイは呆れたように兄貴分のシャラを見つめたが、何を言っても無駄だと思い、昼食用に買っておいたパンをカウンターの棚から取り出した。それを無造作にシャラに投げつける。
 シャラは待っていましたとばかりにパンを受け取る。

「ケイちゃん優しー」

 そう言って早速ケイから渡された少し硬い黒パンをかじった。
 その様子を見つめながら、ケイはシャラの耳元を見つめる。
 いくつものピアスをつけた、少しばかり尖った耳は、彼の特徴の一つでもあった。

「なぁ、シャラ。お前確かエルフのクォーターだったよな?」

 パンを立ったまま食していたシャラは、口に入れていた分を咀嚼し、嚥下するとケイを不思議そうに見つめながら軽く頷いた。

「ああ。俺の母親がハーフエルフだったからな。何? エルフに興味でもあんの?」

「いや、別に……。ちょっと仕事で関わっただけだ」

「へー。で、今日は家に帰るの?」

「ああ。仕事も片付けたし、店もしばらく閉めとく。ほとぼりが冷めるまで好きにしてて良いから」

 先ほどのシャラの馬鹿馬鹿しい現状を聞いたケイは、彼が家にしばらく帰らないと確信する。お陰で、ケイは忍び込むように自分の家に帰らずに済みそうだ。
 シャラには災難かもしれないが、ケイにとっては好都合だ。

「俺徹夜明けだったからさ。もう帰るわ。店の戸締り、よろしくな」

「おお、任せとけ。……で、今日の晩飯は?」

「それくらい自分で何とかしろ!」

 いい加減苛立ちを覚えてきたケイはそれだけ吐き捨て、革の鞄に少ない荷物を詰め込み店の扉を押した。
 店の硝子製の透き通った扉の内側に取り付けていた、開店の小さな看板をひっくり返し、閉店にする。そしてそのままケイは店を出て帰路に着く事にした。
 途中、食材をいくつか買っておかなければいけないことを思い出し、様々な出店で賑わっている街道に足を向けた。


◆◇◆◇◆


 ケイが我が家に戻ったのは丁度太陽が一番高く上った昼時だった。
 思ったよりも買い込んでしまった食材を台所の棚の上に置く。少しの肉と野菜と果物。一人で食事をするには十分な量だ。しかし、今は一人何を食べるのかも分からない人物が寝室にいる。うわさで聞いたエルフ族は肉や魚などの命を奪う食材を嫌悪しているらしい。それを考慮して、ケイは野菜や果物などを多めに買い込んだ。
 暖かな日差しや肥えた土の無いフィーレで、高価な果物や野菜はスラム街に住む者たちの口には滅多に入らない。しかし、ケイはスラム街の中でも比較的収入がある方なので、野菜や果物も中流階級の人々と変わらなく食べる。偏った食事は健康に良くないし、何よりケイ自身果物類が好物であった。
 ケイは薬缶で一度熱を加えて殺菌しておいた水を食器棚から取り出した硝子のグラスに注ぎ一気に飲み込んだ。
 渇きを訴えていた喉が潤いで満たされ、ほっと一息つく。
 丁度昼食時だったので、ケイは早速買い込んできた食材からいくつかを選び出し、調理を始めた。
 一人分にしては大目の量の野菜のスープを作るために、手際よく野菜をしっかりと洗い、ぶつ切りに切っていく。
 大き目の鍋にろ過した水を注ぎ、調味料を加え火にかける。
 慣れた手つきで調理を終え、出来上がった野菜スープを底の深い陶器の器によそり、ソファーの前のテーブルに置く。他にも出来合いのパンを切り分け、食卓に加える。余ったスープは夜ご飯にでもすればいいと考え、鍋に蓋をしてケイは簡単な昼食を取った。
 料理を平らげ、気分も腹もご機嫌になったところでケイはソファーに背を預けた。
 そしてちらりと部屋の奥にある閉ざされた寝室を見やる。
 恐らく、まだ目覚めてはいないだろうと思いつつも、ケイは身軽に立ち上がり、足音を立てないまま寝室の扉を押した。
 窓の帳を締め切っていたはずの寝室は、ケイの予想に反して明るかった。
 陽の光が硝子窓から入り込んだ寝台の白いシーツは眩しいほどだった。
 そこで眠っているはずのエルフは、半身だけ身を起こし、窓の方に頭を向けていた。
 淡い銀色だと思っていたエルフの髪は、陽の光に透けて紫がかっていた。まるで硝子のように輝く不思議な色彩。ケイは一瞬思考するのを忘れ、その鮮やかな髪色に見とれる。
 そうしている内に、ケイの存在に気付いたエルフがゆっくりと振り返った。
 雨の中で見つめたあの淡水の神秘的な瞳が、ケイの姿を映し出す。
 ケイを上から下まで見つめるエルフに、雨の日のような強い眼差しはなくなっていた。まるで状況が飲み込めていないのだろう。それはそうだ。このエルフは気を失ってから三日間眠り続け、その間ケイに匿われていた事など知りはしないのだから。
 ケイはなんと言葉をかけるか迷い、一瞬言葉を詰まらせる。だが、すぐにある事を思いつき、できるだけ穏やかな口調でエルフに話しかけた。

「腹、減ってないか? 喉も渇いてるだろ?」

 多めに作ったスープはまだ冷めてはいないだろう。
 エルフの反応を待つ前に、ケイは台所に戻り、食器棚から取り出した陶器の器に野菜スープをよそる。続いてろ過した水をグラスに注ぎ、二つを丸い盆に載せると寝室へと戻った。
 寝台の横にある背の低い棚に盆を載せ、エルフの反応を伺う。
 エルフはケイの持ってきたそれを無表情のまま見つめていたが、手を出す気配は無かった。

「安心しろ。毒なんて盛ってねーから」

 大丈夫だという事を告げるように、ケイはスプーンを取って一口スープを口に運ぶ。

「ほら、不味くはねーと思うから」

 自慢ではないが、ケイは料理が得意な方だ。
 幼い頃から料理をしてきたため、味には自信があった。シャラがケイの元に食事をたかりに来るのも、恐らくケイの料理が気に入っているからだろう。自意識過剰かもしれないが、ケイは不味いと言われたことは今まで一度も無い。
 エルフに食事を取るよう促してみるが、エルフは料理を見つめていた視線を再び窓へと向けた。
 何一つ言葉を発する事も無く、ケイの存在もいないかのように。

「おい、食わないと身体に悪いぞ。お前、三日も寝てたんだからな」

 もう一度エルフの気を引くために喋りかけるが、エルフは何も反応しなかった。
 まるで本物の人形のように微動だにせず、ただ窓から覗くスラム街を見下ろす。
 数回ケイはエルフに喋りかけたが、一度も反応してはくれず、ため息をついて寝室から出る事にした。
 恐らく言葉は通じていない。
 それに、警戒心もあるだろう。
 一人にしておいた方が、今はいいのかもしれない。
 そう思い、ケイは本日何度目になるか分からないため息をついてソファーに寝そべった。寝室をエルフが使っているため、柔らかくは無いソファーで眠っているが、そろそろ体が痛い。
 これからどうすれば良いか分からず、ケイは鳶色の針鼠のように逆立てた髪をぐしゃぐしゃとかいた。
 一度良くなった機嫌が一気に落ち込んで、ケイは苛立ちを忘れるために一度眠ることにした。
 寝心地は最悪ではあったが、徹夜明けの仕事のせいで眠気はすぐにケイを飲み込んだ。
 ケイが目を覚ましたのは、陽が没した夕刻の時間だった。
 疲れた身体に、硬いソファーは優しくはなかったが、長く眠りに着いた事で気分は大分良くなっていた。まだ霞む視界を拳でこすり、一度大きな欠伸をする。意識が鮮明になってきたところで、ソファーから身を起こし、部屋の明かりを点ける。「電気」の力で光るランプが薄暗い部屋を照らし出した。
 部屋の中は、ケイが眠りについた時と何一つ変わらない。
 恐らく、あのエルフは部屋から一歩も出てはいないだろう。
 普通に考えれば、あれほどの傷を負っていながら、三日で起き上がれるまでに至った事事態奇跡だ。
 エルフ族の治癒能力は、人間よりも優れているのだろうか。
 様々な憶測が脳裏を飛び交うが、考えても無駄だと思い、ケイは思考を止めた。
 隣の寝室は静かだった。
 様子を見るために、忍び寄るように足音一つ立てずに扉を開くと、暗い部屋の寝台の上にはうつ伏せに眠るエルフがいた。寝台横の棚に置いておいた食事を見ると、手をつけた様子は無く、グラスの水が少しだけ減っているだけだった。
 何か口に入れなければ体が持たないだろうに。
 そう思いながらも、ケイは冷たくなった料理を乗せた盆をそっと手に取り、寝室から出た。
 結局名前も素性も分からず仕舞いだ。
 分かっているのは、あの子供がエルフ族だという事。命に関わるような怪我をしていた事。それに、着替えさせたときに見えた、鎖骨と胸の中心辺りに、ひし形上の赤い石が埋まっていた事。ついでに、女ではなかった事。
 ほかの事は、本人の口から聞くしかない。
 けれど言葉は通じないであろうし、何よりエルフが易々と人間に身の上を語るとは思えない。
 かといって、助けてしまった以上、無情に外へ放り出す気にもなれなかった。モラルの低いスラム街にエルフを投げ出せば、どんな酷い目にあうか分かったものではない。最悪、次の日には死体で発見されかねない。
 面倒事は勘弁願いたいが、拾ってしまった責任は取るつもりであった。

「なんとかなんのかなー……」

 すっかり冷めてしまった野菜スープを見つめ、ケイは肩を落とした。
 まずは何か口に入れて、体力を取り戻してもらわなければならない。
 エルフの村まで送るにしても、今の状態では動かす事すら危ういのだ。
 野菜スープは駄目。ならば果物はどうだろうか。
 台所に放置していた食材の中に、真っ赤な林檎があった事を思い出し、ケイは次の手を決めた。






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