豪雨


 バケツをひっくり返したような雨が、冷えた石畳に叩きつけられては一滴、また一滴と飛び散った。
 冷たい雨だった。冷えた空気は、息をするだけで肺を凍らせる。そこに加えられた、みぞれのような大粒の雨は、傷ついた少年に容赦なく降りかかった。
(冷たい……痛い……苦しい)
 そんな感情だけが少年の意識に濁りながら流れる。
 着ているものは既に湖に飛び込んだかのようにびしょ濡れで、服は勿論、髪の先や細い顎先からは絶え間なく雫が伝い落ちた。少年は苦しげに息を吐きながら、それでも一歩一歩石畳の道を進んだ。
(早く……行かなければ)
 混濁している意識の中、それだけを念じ、少年は人一人通らない街の道を進み続けた。


◆◇◆◇◆


 その日、ケイは上機嫌だった。
 大きな仕事を一人でこなし、いつもの数倍近くの報酬を得た。
 見返りに傷を負ったものの、浅い切り傷のみで、簡単な手当をしただけで痛みは消えた。
 一山終えた後には必ず寄る酒屋で、ケイは仲間と一緒に安い酒を一杯一気に飲み干した。
 その豪快な飲みっぷりに仲間達は楽しそうに笑い、エールを送る。仲間達との大騒ぎに更に気分を良くしたケイは、酒場の看板娘を呼び、仲間の数だけ追加の酒を注文した。

「さーて、俺は明日も忙しいからそろそろ帰るわ。お前らは気にしないで飲んでけよ。今日は俺のおごりだから」

 普段は財布の紐がきついケイも、仕事で得た報酬の多さに財布の紐を解く気になったようだ。

「まじで? ケイがおごりなんてめっずらしー!」

「ま、ありがたく戴いておくよ」

 まだ年端も行かないような少年達はケイの意外な言葉に驚きながらも、ほろ酔い気分で快くそれを受けた。
 ケイも仲間に喜ばれて気を良くしたのか、嬉しそうに幼さの残る顔を綻ばせて笑った。

「お前ら飲み過ぎて倒れんじゃねぇぞ。じゃあな!」

 軽く手を振って、酒場の親父に銀貨を数枚渡すと、ケイは店を出た。
 店の中のむっとした酒臭さや熱気は嘘のように消え、冷えた空気がケイの酔いを醒まさせる。
 上機嫌だったケイは、外のあまりの冷たさと土砂降りの雨に一気に気分が落ちた。店に入った頃はにわか雨で、それほど激しい雨になるとは思えなかったのだ。帰路までの道のりは遠くないが、この雨では家に着く頃には濡れ鼠になっているだろう。

「よりによってこんな日に雨かよ……ついてねーな」

 残念な目の前の状況に落胆しつつも、ケイは一歩を踏み出した。
 走って帰れば少しはマシだろう。そんな甘い考えを浮かべながら、汚れた石畳の道を駆けていく。石畳の割れ目には水溜りが多数あり、全てを避けて帰るのは困難に思われた。仕方なく、ケイは靴や下の服が汚れるのも構わず、近道である細い路地に入り込んだ。
 そこで、耳をつんざくような悲鳴が上がった。
 女の声ではない。
 物騒なフィーレのスラム街では、女は陽が落ちると共に家に隠れるように戻る。
 ケイの耳に飛び込んできたのは、野太い男の声だった。
 雨音だけがざぁざぁと耳を突く中、悲鳴を機に大人と思われる男達の喧騒が混じった。
 ケイは喧嘩でも始まったのだろうと思い、帰路への道のりをより早く駆けて行こうとした。しかし、喧騒の中に不穏な言葉が混じっているのに気付き、足を止める。
 耳を澄ませば、豪雨の音に混じり男達の声がいくつも聞こえた。

「探せ! ぶっ殺してやる」

「こっちにはいねぇ、くっそーなんて素早い奴だ」

「手負いのガキだ。すぐに見つけて八つ裂きにしてやる!!」

 最後に聞き取った「手負いのガキ」という言葉にケイは反応した。
 嫌な予感がし、声の聞こえた方へと身を潜ませながら近づく。
 足音も立てずに、正確に男達の居場所を耳で感じ取りながら声の主を探す。
 呆気ないほど簡単に男達を見つけた。中年の、柄の悪い男達だった。フィーレのスラム街では特別珍しいものではないが、彼らの剣幕にケイは息を呑んだ。
 男達は皆、手にナイフを持ち険しい表情で辺りを捜索している。
 男達の足元には二人の男が倒れていた。どちらもうつ伏せでいるので、どんな状態なのかは判断つきかねた。しかし、家々の壊れかけの外灯が微かに照らした石畳は不自然に汚れていた。このスラム街の道が汚れているのはいつもの事だが、倒れた男達の周りは酷くどす黒い。
 雨の中に微かな血の匂いを鋭く嗅ぎ取ったケイは、現状を理解した。
 恐らく「ガキ」が男達に絡まれ、抵抗して斬りつけたというところか。
 そう判断して、ケイは己の不安が杞憂であったと気付く。
 ケイの仲間は今、酒場で飲んでいる。それにケイの大事な義理の弟達は人を傷つける事などできはしない。
 自分には関係のない事だ。
 そう判断してケイは男達に忍び寄った時と同じように足音を立てずにその場を離れた。
 再び帰路に着くために、裏路地に入る。
 そこで、動きが止まった。
 微かだが人の気配がする。月の光も星の光も無い暗い闇の道の奥に、誰かがいる。
 まさか先ほどの男達の一員だろうか。面倒は嫌だが、この闇の中勘違いされて襲われては分が悪い。咄嗟に上着の隠しから小型の「銃」を取り出し、引き金に一指し指を当てる。いつでも発砲できる態勢で、ケイは暗闇の先を睨みつけた。

「誰だ?」

 緊迫した空間の中、闇へ向かって声を投げる。
 返事の変わりに、闇の先の人影はゆっくりと動いた。
 視界が暗い中、微かに覗く指先。その手には、赤黒く染まった小ぶりのナイフが見えた。
 男達の捜している「手負いのガキ」だろうか。ケイは警戒心を解かないまま、人影が徐々に移動するのを待った。まるで這うようにずるずると音を立てて、力ない指先が汚れた石畳に赤黒い後を残しながら進む。
 外灯の光が届くところまでたどり着いた人影は、ケイとそう年の変わらない子供だった。
 右手を路地の壁に当てて、なんとか態勢を保ち、左手にはあの汚れたナイフ。
 ケイは僅かな光に照らし出された存在に息を呑んだ。
 それは人間ではなかった。
 否、人には見えなかった。
 微かな光に照らし出されたのは、見るも鮮やかな銀色の髪と、酷く薄い青い光を持つ瞳の人形のように美しい何かだった。
 人のような姿形をしているが、それはあまりにも人間離れしていた。
 荒い息使いをしながらも、その存在はケイを威嚇するように薄い淡水の瞳で睨みつけた。
 ケイの鼠色の瞳と、暗闇の中で猫のように光を持つ淡水の瞳が互いを見据える。
 時間が止まったかのように、雨音も男達の雑言も聞こえなかった。
 けれど、それは一瞬の事で、人形めいた存在は身体を支えていた右腕を滑らせ、勢い良く水溜りの中に倒れこむ。

「お……、おいっ」

 突然の事に戸惑うケイは、倒れた存在がピクリとも動かないのを見ると銃を上着の隠しにしまいこんだ。
 そして、倒れた存在に近づく。そこで、再び雨音以外の喧騒が耳を突いた。

「こっちに血の跡があるぞ!」

 この存在を探していた男達の一人だろう。ケイはこのまま逃げれば良いと思った。そうすれば、自分は何事も無く無事に帰路に着くだろう。けれど、これは?
 見下ろした銀髪の子供は瞳を閉じたまま苦しげに眉を潜めていた。
 見捨てる?
(俺には関係ない)
 関わらない方が良い。恐らく、この存在は人間ではない。フィーレの北東にある谷の翼族でもないだろう。翼族は天使めいた翼ある民だが、その見た目は人間と変わらない。このような不思議な色彩を持つ存在ではないはずだ。
 答えは分かっていた。
 だからこそ、関わるべきじゃない。そう頭では理解していた。だが、ケイの思考とは正反対に体が動いた。
 倒れた子供に近づき、左手のナイフを手に取る。持ち上げたナイフは軽く、掴んだ瞬間、みるみる姿を変えた。それは飾り気の無い銀色の指輪の形になった。ケイは魔法のようなそれに疑問を持つも、男達の足音が迫っている事に気付き、指輪を上着の隠しにしまう。そして、倒れたまま動かなくなった存在を担ぎ上げた。
 ケイとそう変わらない年頃に思えるのに、その身体は酷く軽かった。
 ケイは男達の足音とは逆の方向へと、なるべく足音を立てないよう己の家へ少し遠回りの道を選び歩き出した。
 肩を貸して引きずるようにして進む。子供の血痕は激しい豪雨が全て洗い流していた。
 暗闇の路地に姿を消したケイは、男達の声が遠ざかるのに安心すると、滑ってずり落ちそうになる子供を担ぎなおし、今度こそ帰路へと着いた。


◆◇◆◇◆


 スラムの中でも小高い丘の上に作られた小規模な集団住宅の庭までたどり着くと、ケイは一息ついた。
 髪や服は予想通り、濡れ鼠の状態で、このままでは風邪を引く事は間違いないだろう。
 早々に風呂へと入り、乾いた服に着替えたいところだ。しかし、その前にケイは担いできた存在の様子を確かめた。
 硬く閉ざされた瞳は開く気配が無い。けれど息は荒く苦しげなうめき声が時折零れる。
 力ない指先がいつの間にかケイの服を弱々しく掴んでいた。
 血の気の無い白い肌、染めない限り人間には見られない銀色の髪は肩の辺りで切りそろえられている。まだ幼いながらに目鼻立ちの整った、端麗な容姿を持つ存在だった。ケイはそっと雨に濡れて頬や耳元に張り付いた髪をかきあげる。
 予想違わず子供の耳は長く尖っていた。
(エルフ……?)
 始めて目にするエルフ族に微かに驚くも、ケイはこのままでは誰かに見つかると思い、集団住宅の二階の最奥の角部屋である己の家まで再びエルフを担いで歩き出した。
 金属で作られた階段を、なるべく足音を立てないように上り、己の部屋の前までたどり着く。
 ズボンのポケットから家の鍵を取り出し鍵を開ける。扉の握りをエルフを担いだまま廻し、扉を足でこじあけ家の中に倒れこむように入ると、ケイはすぐさま扉の鍵を閉じた。

「……何してんだろ、俺」

 連れ帰ったエルフを見下ろし、ケイは深くため息をついた。
 ケイだけが暮らしている小さな部屋の明かりをつけ、エルフの両脇に腕を廻し部屋の中へと運び込む。
 かなり動かしてはいるが、エルフは目覚める様子を見せない。ただ、先ほどより少しだけ息遣いが小さくなっていた。それでも苦しげな表情は変わらず、やはり時折呻き声が血の気を失っている唇から零れた。
 ケイは部屋へエルフを招き入れるとようやく一息つく。まずはびしょ濡れの髪と服を何とかしたい。そう思い、部屋の入り口付近にある風呂場の脱衣所のタオルを手に取る。真っ白く洗濯されたそれを手に取り、ケイの明るい鳶色の髪を無造作に拭く。次に顔の水気を拭い去り、同じ事をエルフにもしてやろうとしたところで、手が止まった。
 真っ白いはずのタオルが、赤く汚れていた。それはケイの触れていた部分で、ケイは驚きのあまり絶句する。

「っな……!?」

 慌ててエルフをうつ伏せにひっくり返す。
 エルフの纏う薄い生地の本来は白い色をしていた服は、どす黒く汚れていた。泥ではない。あの豪雨の中、汚れはほとんど洗い流されたはずだ。けれど、服に滲む赤黒い色彩は一体何か。考えずとも答えはすぐに分かった。
 柄の悪い男達は「手負いのガキ」を探していた。
 それはこのエルフと見て間違いない。
 滲み続ける赤い色彩は傷が深い事を物語っている。
 恐る恐る雨と血で張り付いた服を捲り上げる。左肩から右腰まで赤く滲む包帯が巻かれていた。傷に触らないようゆっくりと役割を果たさなくなっている包帯をはがすと、そこには鋭く切り裂かれた傷が存在していた。
 ナイフの傷ではないだろう。
 こんなにも深く長く切りつけるためには、巨大な剣が必要だ。
 傷口は一度手当はされていたが、ふさがる前に再び傷口が開いてしまったのだろう。ケイは部屋の中の棚のから救急箱を取り出してくると、慌ててエルフの手当を始めた。






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