拒まれた腕


 風が強く吹きぬけ、土煙を洗い流すようにさらっていく。
 徐々に視界が鮮明になるのと比例して、肩にかかった重みは増した。
 エフィーは両の手で掴んだものが腕だと認識すると、放すまいと一層力をこめた。しかし、エフィー一人で二人分の体重を支えられるはずもなく、少しずつ滲んだ手の汗で掴んだものが滑り落ちていく。
 エフィーは救いを求めるように声を張り上げた。

「アジェル!」

 掴んでいるのは恐らく、アジェルの腕ではない。そんな気がした。けれど、大事な仲間の名を叫ばずにはいられなかった。
 視界を曇らせていた土煙が次第に引いていき、ようやくエフィーは現状を視覚に捉えた。
 エフィーのいる場所から先は地面が削れ、掴んだ腕の先に金色の輝きを見つけた。それがレイルの髪だと理解するまで、時間はかからなかった。レイルは掴まれている左腕を憎々しげに見つめていた。しかし、そんな事に気付ける余裕の無いエフィーは、必死にアジェルの姿を探した。
 掴んだレイルの右腕が一つの腕を掴んでいると気付いたエフィーはもう一声、アジェルの名を呼んだ。
 しかし応える声はなく、肩にのしかかる重みだけが増していく。
 アジェルを捕まえているレイルを必死に引っ張り上げようとするが、エフィーの上腕筋がきりきりと悲鳴をあげ、次第に痛みを訴え始める。
 それでもこの腕だけは放すまいとエフィーは躍起になって現状を維持させる。
 額から脂汗が滲み、一滴二滴とひび割れた大地に落ち、吸い込まれるように消えた。

「レイル、手を……」

 エフィーの両手はレイルの腕を握っている。けれど、レイルの腕はエフィーの手など必要としていないとでも言うように、だらりと垂れ下がっていた。

「放せ」

 酷く冷静に、レイルは抑揚のない声で言う。
 エフィーは首を左右に振った。

「嫌だ!」

 これがアジェルの意思だとしても、エフィーには従えない。
 セレスティスを出てから、ずっと行動を共にしてきた大事な仲間なのだ。その命をどうして手放せるのだろう。
 レイルとアジェルの下には、底の見えない暗い淵が続く。その先には、濁流の音。崩れた丘の岩を飲み込んで押し流す音が、エフィーの耳に届いていた。
 落ちてしまったならば、無事ではいられないだろう。
 アジェルの意識が戻っているのかどうかは、レイルに遮られて窺えない。しかし、名を呼んでも返る答えが無いところを見ると、恐らく未だに気を失っているのだろう。
 そんな状態のアジェルを、濁流の中に落としてなるものか。
 エフィーは歯を食いしばり、渾身の力を込めてレイルの腕を引き上げようとする。
 しかし、エフィーがどんなに尽力しても、掴んだ腕が崖の上に引き上げられる様子は無い。レイルもまた、エフィーの腕を拒むように、掴んでいる腕に爪を立てた。
 明らかな拒絶。
 それでもエフィーは腕を放せなかった。放したくはなかった。


◆◇◆◇◆


 己の名前を呼ぶエフィーの声に、アジェルは気付いていた。
 瞳を閉ざし、意識を手放しているかのように装っているが、アジェルは崖が崩れる前には意識を取り戻していた。空から注ぐ光が何であるのかも、それが誰の手によって起こったのかも知っていた。恐らく、レイル以上に状況判断できているだろう。
 けれど、アジェルは己の腕を掴むレイルの手も、エフィーの声にも応えなかった。
 崖の下には、流れの速い川がある。もしも落ちたならば、アジェルにとって自力では脱する事のできない、強い水の流れがそこにあるのだろう。
 窮地でありながら、どこか客観的に状況分析をしている自分を、心の中で笑った。
 落ちたならば、全てが終わる。
 希望も絶望も命も全て、混濁たる水が綺麗に流してくれる。
 レイルのアジェルを掴む腕の力が微かに増した。
 そうと知りながらも、アジェルはレイルの手を取らなかった。
 本来ならば、失われていたはずの命が、未だに永らえている事が不思議でたまらない。レイルに掴まれた腕が熱く感じるのとは対称的に、アジェルの心は酷く冷めていた。
 レイルはこのままアジェルの手を離し、いつでも空へと飛び立てる。エフィーも、レイルの腕を無理に捕まえておく必要は無いのだ。考えれば簡単な事を、二人は選択しない。
 白い翼を持つ二人は、自由に空を飛べば良いにも関わらずだ。
 彼らを大地に繋ぎとめているのは、アジェルだ。
 二人が何故翼を使わないのか、理由など分かっているのに、アジェルはその考えを否定する。
 それは自分を否定する事と同義だ。命にしがみつく罪悪感と、犠牲の上に立つ命を守らなくてはいけないという使命感がせめぎ合い、絡み合う。
 それでも、アジェルの選ぶ道は一つだった。
 アジェルには選択肢が無い。ただ、犯した罪を償い生きる事だけが全てだ。
 その為には、今ここで大事な手を拒まねばならない。
 彼を、これ以上巻き込まれない為にも。
 何故レイルがエフィーを襲ったのか、理由は分かっていた。
 エフィーにはきっと分からないだろうけれど、このまま何も知らずにいてくれる事をアジェルは望んだ。
 彼の優しさに漬け込む事も可能だった。いつでも殺す事が出来た。けれど、それをしなかったのは、アジェルの人としての心がそれを拒んだからだ。古代神の御子でありながら、アジェルは人の心を知り過ぎた。優しさや慈しみの心を理解してしまった今、レイルのように割り切って命を奪う事は出来なかった。
 出来る事ならば、これ以上の犠牲が出る前に――。
 アジェルは意を決して、レイルの腕を拒むように放した。同時に、心の中で空色の瞳の優しい少年に別れを告げる。
 自分勝手だと理解していながら、アジェルはエフィーの手もレイルの手も拒んだ。
 取り残されたエフィーがどうなるか、おおよその未来は予想できた。
 きっとラーフォスが頃合を見計らって、エフィーをセレスティスに帰還させてくれるだろう。ラーフォスはセレスティスを自由に行き来する方法を持っている。それを知っているからこそ、アジェルはエフィーをこれ以上巻き込まないために切り捨てるのだ。
 彼の心を傷つけるのだと思うと、胸が痛む。けれど、エフィーをこれ以上巻き込みたくは無かった。

「さよなら」

 小さな呟きは、伝える相手に届かないだろう。
 アジェルは口元に微かな笑みを浮かべた。
 濁流の音が耳に煩く聞こえる。それに混じって、エフィーの声がアジェルの名を呼び続けていた。
 このまま崖に落ちてしまえば、確実な死が待ち受けているのだろう。今更、抗おうとは思わなかった。
 レイルの手が伸びて、アジェルを捕まえようとする。しかし、アジェルはその手を取らずに、瞳を閉じたまま宙に身を投げ出した。長い紫銀の髪が、未練を引くように宙を舞う。
 レイルはアジェルの名を呼びながら、エフィーの手を振り払った。
 大地に繋ぎとめられていた手を放した二人は、崖の淵へと向かって落ちていく。
 取り残されたエフィーは二人の名を叫び続けた。
 赤い黄昏の空の下、悲痛な叫びだけが木霊した。


◆◇◆◇◆


 西から吹いてきた強い風が、少女の三つ編みの髪を攫う。
 己の身長を優に越す鈍い銀色に光る十字の杖を持った、幼い少女だった。彼女はエフィーたちを見下ろせる、高い空に重力を無視して浮かんでいる。事の起こりを全て見ていた彼女は、首を覆う藍色の襟巻きを口元に手繰り寄せた。感情の篭らない硝子玉の瞳で、光の雨によって削られた大地と、二人の少年が落ちていった崖を見下ろす。
 次に、感情的に叫び続ける、翼族の少年に視線を向けた。

「古代神の御子の始末完了……」

 ぽつりと呟いた言葉は、風の泣く声によってかき消された。
 光の雨を降らせた本人である刻人の少女は、時空魔術によって己の声を遠く離れた神界の主に伝える。
 少女はセルゲナ山脈の麓の森の中で、レイルに接触した子供でもあった。
 レイルに偽りを吹き込み油断を誘い、アジェルとレイルを同時に葬る機会を窺っていた。例えレイルが少女の思惑通りに動かなかったとしても、結果は変わらないほど呆気なく命令を遂行できた。達成感の無さに、どこか肩透かしを食らった気分ではあったが、少女は時空神より与えられた命令を一つ全うできた。
 古代神の御子の抹殺。
 それは少女が地上に降ろされた時に与えられた主神の命。
 残る命令は二つ。
 古代神の神石を探し出す事。
 行方の知れない最高神を探し出す事。
 少女は空の上から、エフィーの姿を無感情に見つめた。
 二つ目の目的の為に、彼を殺すわけにはいかない。
 光の光線を降らせた時に、エフィーがレイルとアジェルを救い出すべく行動したのは計算外であった。その為、攻撃の手を緩める事となったが、結果的に崖が崩れ、古代神の御子は濁流に飲まれた。予定とは違う結末になったが、崖から落ちた二人が生きている可能性は低いだろう。少なくとも、一人は必ず死んだはず。
 レイルは生きている可能性もあるが、その時は別の方法で彼を始末すれば良い。
 少女は頭の中で次の計画を描いた。

「古代神の神石を回収後、一度神界へ帰還します」

 もう一声、主神へと言葉を送る。
 少女は時空魔術による報告を終えると、巨大な十字の杖を軽く振った。十字の中心にはめ込まれた淡い青玉石から光の粒子が零れ、少女の身体を包み込む。
 次の瞬間、紅色の空に少女の姿は無かった。






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