二つの月
乱立した木々の枝葉が、風に遊ばれるまま触れ合い擦れ合い、音を奏でる。光を遮るほど広々と腕を伸ばした樹木達の天蓋の中で、それは不気味に木霊していた。大地は焦土のように黒く、月の光も陽の光も知らぬまま、固く凍り付いていた。
フェルベスとセルゲナ山脈を繋ぐ街道の脇に広がる、闇色の森。
一年を通して、この場所は昼夜問わず暗い。人々は魔物が住むと噂し、決して立ち入ろうとしない。光を遮られたために草花は生えず、それを命の糧とする草食獣は影も形も見えない。水の腐ったような異臭が満ち、死者の呻きの如き風の音だけが聞こえた。
暗い森の中を、レイルは歩いていた。
明かりも灯さず、一つの気配を追い続ける。
腰に下げた剣に手を置き、いつでも抜刀できるように鞘を掴む。
冷ややかな金属の感触は、レイルの高ぶった感情を抑え、彼に冷静になれと告げていた。
暗闇の森に消えた、強い魔力をもつ存在。
それは、少し前からレイルの背後をついて回っていた。
初めてその気配を感じたのは、ラキアに到着してすぐだった。初めは気にしなかった。恐らく、人ならぬレイルの魔力を嗅ぎ付けた魔族か魔物が力を欲して追ってきたのだと解釈した。魔族ならば人気のない場所へ移動したと同時に襲い掛かってくる。野宿の晩には、嫌になるほどの魔物の群に囲まれるのが常だった。
魔族は殺気を隠さずに忍び寄ってくる。自信の現れか、または隠す知能すら持たないのかは知れないが。確実なのは、レイルが一人になったところを襲う事。
けれど、今回のそれは違った。
いつまでも背後をついてまわり、レイルが足を止めれば、気配も少し離れた場所で止まった。時にレイルを誘うように近づき、遠ざかり、気配を隠してはまた現れる。
つい先ほども、レイルの影を踏むほどに近寄ってきた。
いい加減煩わしく感じ、それを捕まえようと追いかけた。
気配はレイルを呼び込むように、暗い森へと逃げた。
レイルは連れ兼お荷物と称した女を森の外に置いて、単身地の底のように陰鬱な森へと足を踏み入れた。
(どこへ……)
森へ入るまでは確かに感じていた魔力と気配は、今は霧のように辺りに漂い、特定の所在を眩ます。
近くに居る事は確かだといえた。
四方八方に魔術を放ったならば、仕留める事もできるだろう。
けれど、レイルはそれをしなかった。
こそこそとついてまわった理由を問いたださねばならない。
魔族の場合、レイルを追い回す理由は単純だ。レイルを食らえば、己の力が高まると信じて疑わない。レイルは古代神の後継者として、強い魔力を継承している。故に、魔力を吸収すれば力が増加するという考えは、間違いではないだろう。しかし、簡単に食べられてやるほど、レイルは奉仕的でもなければ慈善家ない。
神の後継者として受け継いだ力で、数え切れないほどの魔族を屠ってきた。ほんの少し、指先を動かす程度の力で、大抵の外敵は儚い命を散らす。闇人と称され人間に恐れられる存在も、神の力には遠く及ばない。どの魔族も大した力はなかった。弱いからこそ、強大な力を求める。
だが、この気配の持ち主は、稀に見る高い魔力を持ち合わせていた。
暗い森の中、生い茂った葉や蔦の壁を掻き分け、レイルは森の最深部を目指した。
進むに連れて、霧のように漂うだけだった気配が、集結し、一つの存在を知らしめる。
(――近い)
声を出したなら、しっかりと言葉が届くほど近づいている。
「誰だ」
不気味な森の音を引き裂いて声を上げた。
返事は無い。かわりに、微かな人の気配がレイルに近づく。
レイルは剣を抜き放ち、近付く存在に向けて切っ先を向けた。
暗闇の先で、小さな人影が足を止めた。微かな光すら届かないこの森では、暗視能力を持つエルフでも、相手の姿をはっきりと捉える事はできない。小柄な輪郭だけが、ぼんやりと闇に浮かぶ。
「……驚かせるつもりはなかった。古代神の御子よ」
鈴の転がるように高く幼げな声が、レイルの耳に届く。朧に見える体格や声からして、年端もいかない子供だろうか。レイルは相手が子供だという事に驚くも、このような場所にただの子供がいるはずないと考え、剣を下げずに言葉を返した。
「何の用だ?」
「誰にも悟られずに、貴方にお会いしたかったのです。呼び込むような真似をして、大変申し訳なく思っております」
子供のように澄んだ声にそぐわない、感情の動きが無い淡々とした口調が違和感を増長させる。直感ともいえる何かが、目の前の存在に警鐘を鳴らす。
「前置きはいい。誰の差し金だ?」
このような子供に知り合いはいない。
けれど、相手は古代神の御子とレイルを呼んだ。レイルの知り合いならば、彼をそのように呼ばないだろう。レイルが古代神の後継者だと知っているのは、今は亡き故郷の者と、一人のお節介で胡散臭い人間の青年だけだ。それ以外にレイルの正体を知る者があるとすれば、母たる古代神に縁ある神族か。
レイルの知っている前者の可能性は無いだろう。三年前の忌まわしい記憶の中で、彼らは手の届かぬ人となったのだから。
知らず固めた拳の内側で、空を押しつぶした指先が己の掌の肉を抉った。
胸の奥で渦巻く怒りと怨嗟が、全ての元凶となった一族に対して暴れだす。神族に関わるものは今、復讐の対象でしかない。
「わたしは貴方に危害を加えに参ったのではありません。疑わしいかもしれませんが、私はかつて、古代神リア様の支持者の一人でした。今はゆえあって他の神族の下におりますが、心はリア様を思っております」
「何をしに来た?」
「……貴方に、危険を知らせに参りました」
剣先を突きつけられたまま、子供は微塵も怯えた様子を見せずに言った。
不自然なほど落ち着き払った態度、外見や声が幼い分、余計に怪しく油断のならない何かがある。レイルは警戒と牽制を込めて、声色を落とし、冷ややかに言い返した。
「危険とは?」
「はい。時空神が貴方に多くの刺客を差し向けました。そのうちの一人が、貴方を追っています。恐らく、この先のフェルベスで貴方に接触を試みるでしょう」
「知らせなど受けなくても、返り討ちにしてくれる」
神族自ら出陣して来たなら、多少の警戒は必要かもしれない。
しかし、そんな事は天地がひっくり返ってもないだろう。神族は自ら危険を冒すような真似はせず、高みから駒を操るだけ。そして、宝玉の力が失われたためか彼らは簡単に地上には降りられない。唯一、宝玉の封じられた場所にして、神話の終焉の地であったセレスティス大陸のみ、降りる事ができたのだと古代神より聞いた。母たる古代神がセレスティスに留まっていた理由は、他に逃げ場がなかったからだ。
神族はセレスティス大陸以外の地上に姿を現さない。
ならば、刺客は神の尖兵である天使か聖獣といったところだろうか。
その程度の刺客ならば、取るに足らない存在だ。
聞くだけ無駄だっただろうかと、内心溜息を吐くレイルに、子供は再び語りかけた。
「……いいえ、危険なのは、貴方の兄上の方です」
その言葉に、レイルは剣を強く握り、眉間に皺を寄せた。
どうして、その存在を知っている。生きているのか。どこにいるのか。様々な感情が胸を焦がす。揺れる感情を殺して、レイルは表情を氷らせ相手を冷たく見下ろした。
「貴方が探しておられる方は、フェルベスに向かってます。あの街で待っていれば、必ずや再会する事ができましょう。……しかし、兄君の傍には、時空神の差し向けた刺客が共に居ます。兄君はそれに気付いておられない」
「馬鹿な」
いくら昔からぼんやりとしている事の多かった兄でも、神族の刺客に気付かない訳がない。
いや、もしかしたら気付かない振りをしているのか。どちらにせよそれが本当ならば、危険なのは確かだ。同じ古代神の御子でありながら、兄は戦う力を持たない。レイルは古代神の強大な魔力を継承したけれど、兄は欠片の魔力も持たず生きてきた。身体も丈夫なほうではなく、レイルの知る兄は深窓の奥でただ眠り続ける弱々しい存在だった。そう、神族が相手でないにしても、危険すぎる。
「一刻も早く刺客を屠らねば、兄君の身が危険です」
子供はそう告げると、魔術を紡ぎだした。
呟かれた呪文が攻撃のための魔術でないと分かると、レイルは警戒しながらも黙って見守る。詠唱を終えると、子供は暗闇の中に半透明の鏡のような幻を浮き上がらせた。
「これが、兄君の傍に潜む刺客……」
鏡に浮かび上がったのは、若い男だった。
屈託のない笑顔を浮かべた、人の良さそうな男だ。刺客とは思えない、どこにでもいるような――。
レイルは淡水の瞳を細めて、鏡の中の人物を脳裏に焼き付ける。
「……わかった。これを殺せば、良いんだろう?」
「簡単にはいきません。彼は貴方と兄君を同時に始末するよう、命じられています。何か策を練っているやもしれません。くれぐれも、用心されますよう……」
感情のこもらない声は、その言葉が嘘なのか真実なのかを曇らせる。言っている事が親切にも、胡散臭いものにも感じられる。そういう時は、自分に都合よく考えない方が良い。最初から疑って掛かっていれば、馬鹿を見る事も無いだろう。
子供の言葉は、可能性の一つとして受け取るに過ぎない。
神族のもとに身を置いている者など、信用できないのだから。今の言葉が虚言で、実はこの子供こそが刺客と言う事も、十分ありえる。むしろ、そう考えておいた方が良い。
「最後に一つ聞く。お前は誰だ?」
剣先を一歩先へと伸ばし、相手の喉から指一本の隙間もないほど突きつける。それでも、子供は微動だにせず、落ち着いた様子で答えた。
「わたしはかつて刻人の神官であった者。我が一族は時空神の手により、滅びました……。今は、恥を忍び時空神の下に身を置いています。このようなところに呼び込んだのは、時空神に悟られる訳にはいかない故に、……どうぞご容赦を」
「一族の復讐のため、俺に力を貸すと?」
「……ええ。貴方のお力になる事は、我が一族の雪辱を晴らす事に繋がりましょう」
「そうか。……危険を冒してまで情報を伝えてくれた事、礼を言う」
剣を子供から逸らし、鞘へと収める。
「わたしには勿体無いお言葉です。一族すら守れなかったわたしには、なんの力もありません……。どうか、これ以上の悲劇が起こりませんよう、祈っております」
子供は深く腰を折り片手を大地に置き、頭を下げてレイルに敬意を表す。それをレイルは静かに見下ろした。微かな哀れみと、心の奥底に影を落とす暗い感情が混ざり合った、複雑な瞳で。
子供の言葉の一つが、心に深く突き刺さるようだった。
「では、失礼します」
僅かな沈黙を挟み、子供は立ち上がり、そのまま魔術を紡ぎ姿を消した。
◆◇◆◇◆
「もう、遅かったじゃない。私が賊か野獣に襲われちゃってもいいてわけ?」
森から出るなり、レイルの耳に怒声とも取れる声が突き刺さった。
レイルは眉を極限まで顰め、声の聞こえた方に視線を向ける。
森の外側の木に寄りかかり、偉そうに腕組をしている長身の女が、レイルを恨めしく睨みつけていた。
「安心しろ。男はおろか、餓死寸前の野獣も、あんただけは食わねぇよ」
「まぁ! 嫁入り前の乙女に向かってなんて事言うの!?」
どこか芝居がかった口調に、頬に手を当てる素振りまで付け足し、女は信じられないというようにレイルを責める。レイルは冷めた視線で、女ことディアを見たが、呆れてすぐに目を逸らした。
(嫁入り前じゃなくて、嫁行き遅れの間違いだろ)
心の中で毒づくが、口にしようものなら余計にうるさくなる。あえてレイルは溜息を吐くに留めた。
「あ、今人の事馬鹿にしたでしょ?」
「別に……」
「嘘言いなさい。顔に出てるわよ。ほんと、お姉さまをちっとも敬わないんだから」
じゃあ敬われるような言動をしろ。とは言えず、レイルははいはいと短く相槌を打った。
ディアはまだ何か言い足りなそうだったが、ひとまず口を閉じた。
レイルはディアが噛み付いてこないと分かると、そのまま火の傍へ向かう。
ディアもレイルの後についてくるのが、気配と足音で分かった。
丁度良く見つけた切り株に腰を下ろし、ぱちぱちと火の粉を散らす炎に、冷えた指先をあてた。温かな紅蓮の炎に、落ち着くのを感じながらレイルは瞳を細めた。
視界の端で、ディアが向かい側に座り込む。
黒曜石のような瞳が、レイルを訝しむように覗き込んでいた。
「……フェルベスについたら、どうする?」
「少し滞在する。一日も休まないできたから、疲れた」
レイル自身は、然程疲れなど感じていない。少しだけ、寝不足と身体が冷えたのとで、横になりたいくらいだ。消耗しているのは、レイルの無理な強行軍に付き合ってきたディアだ。そんな素振りを見せないよう振舞っているが、憔悴の色が全身から滲み出ている。女性にしては背が高く強気な言動が目立つため忘れてしまいがちだが、彼女もまた、弱く儚い人間の女に過ぎない。優れた身体能力を持つ半神のレイルについてくるだけで精一杯だっただろう。
けれど、疲れただろうと労わりの言葉をかける事はなかった。いつの間にか、人に感謝する気持ちを表したり、優しくする事ができなくなっていた。レイルはそんな自分を嫌悪する。迷惑を掛けたら謝るのが当然だと理解しているのに、この口はいう事を聞かない。
しかし、ディアは自分勝手なレイルの言葉にも嫌な顔をせず、「了解」と答えた。
「じゃあ、また路銀でも稼ごうかな」
旅の旅費は、魔物退治や、魔族の溜め込んだ宝飾品を売る事で稼いでいる。主にそれらはレイルの仕事だ。だが、ディアはたまに街に長期滞在する時、日雇いの仕事を見つけ働きだす。本人曰く、「私がお姉さんなんだから、養ってあげないとね」らしい。
甘える事が苦手な彼女らしい言葉だ。レイルも、お互い依存せず頼らない面では、気楽で良かった。だから、何も言わなかった。彼女が何をしようと、いちいち口出しはしない。
――今日までは。
「……別に、そんな事しなくてもいい」
ディアは僅かに目を見張る。レイルがディアのやる事に口出しをするのは、これが初めてだ。驚くのも無理はないだろう。
彼女は疑問をぶつけるべく口を開くが、声は紡がれないまま閉ざされた。黒い瞳を炎に向け、ほんの僅かな一瞬、表情が曇る。しかし、自分の中で答えを導き出したのか、口元に笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、ゆっくりするわ」
「ああ」
ディアの方を見ずに、レイルは短く答える。
「……ねぇ、夢見みた?」
「何の」
脈絡のないディアの言葉に、レイルは顔を上げた。頬に零れてきた白金の髪をかきあげつつ、ディアの言葉に耳を向ける。
「私達出会った時の。氷のお城で眠った時ね、私故郷の事を思い出したの。貴方は人買いの檻の中でぼーっとしてて、私が何度話しかけてもこっち見てくれなかったね」
「そうだったか?」
全然覚えがないのか、レイルは不思議そうにディアを見やる。
ディアは苦々しく微笑みながら頷いた。
「飲まず食わずだって聞いたから、ミルクとパンを持っていったのに、全然手をつけないし。このままじゃいやらしい金持ちに買われて、一生こき使われるのよって脅しても無反応。何してもこっち見てくれないから、私もムキになって毎日貴方の檻に話しかけた」
「……それは、何となく覚えてる」
「うん、忘れられちゃ私の苦労が台無しだからね。貴方さ、あの時魂の抜けた人形みたいだった。何を言っても怒らないし、笑わないし、さらわれたショックで廃人になっちゃったのかと思った」
当時の事を振り返り、レイルは微かに眉間に皺を寄せて俯く。
レイルにとってその頃の記憶はただ呪わしく、深い絶望と悲しみが今なお心を締め付ける。思い出す事すら苦痛で、けれど決して忘れてはならない記憶。仇を討つと心に誓った日から、忌まわしい記憶は復讐のための原動力となった。
複雑な感情を隠せないレイルの反応を見て、ディアは薄く微笑んだ。
「貴方がどういう経験をしてきたかなんて知らないけどさ、……良かった」
「は?」
今までの話から意味の繋がらない言葉に、レイルは問い返す。
何がだよ、と目で訴えると、ディアは嬉しそうな表情を浮かべた。
「さて、何でしょう? 分かったら、これ分けてあげる」
火の傍らの地面に突立てた、先端に肉汁を滴らせている串を指差す。
お世辞にも、美味しそうとは言えない、まだら模様の浮かぶ、ごつごつとした肉だった。長い間火に当てられていたのか、すっかり黒くなっている。太い腸詰を分厚く切ったような肉の回りは、鱗のように見えた。
「……これはどうした?」
ディアの言葉よりも、異様な肉に意識が向き、レイルは恐ろしいと思いながら尋ねる。レイルが森に入る前は、火を起こしただけで、こんなものを焼いていなかったはずだ。ついでに、このような肉を買った覚えもない。
答えを促すようにディアを見つめると、彼女は得意げに火の脇を指差した。
「か弱い乙女を襲おうとした野獣よ」
ディアの指差した方向には、レイルの背丈の倍はあるであろう、細長いものが落ちていた。蔦にしては太く、コントラストの鮮やかな毒々しい紋様が浮かんでいる。良く見れば、爬虫類に似た頭が、端についていた。
もっとも、彼女の剣に脳天を串刺しにされていたのだが。
(……か弱い乙女は、大蛇を串刺しになんてしねぇし、あまつさえ焼いて食ったりもしねぇよ)
心の底から叫びたい衝動を抑え、レイルは頭を抱えた。
そんな彼を、ディアは微笑ましくに見つめていた。彼女の言動にいちいち反応を示すレイルに、喜びを感じながら。
この一瞬を、惜しむように――。