二つの月


 冷たい夜風が、緩やかに流れていく。
 二つの月を頂いた空には星が冴え冴えと輝き、紺碧の夜を彩っていた。
 エフィーは一人、宿を抜け出し雪下ろしのために掛けてあった梯子から屋根に上り、座り込んでいた。
 冷え込む夜のため、風邪を引かないよう、しっかりと防寒具を着用している。ラキアで購入した分厚い獣の毛皮の外套や厚手の手袋を装備し、完全防備で寒々しい月見を楽しんでいた。
 宿の主人に入れてもらった温かなお茶を啜り、一息つく。
 星の瞬きを数えつつ、エフィーは大小二つの月を見つめた。
 一つは天候やその日の気分によって色を変える、巨大な月。今は、淡い金色の輝きを身に纏い、静々と大地に光を降り注ぐ。月独特の陰影の深い模様がくっきりと浮かぶ、鮮やかで見事な月だった。
 その背後には、月の周りを公転する一つの星。空で煌々と輝く小さな星達よりもずっと巨大だが、夜空の王たる月よりは、一回り以上小さい。恐らく、月の半分ほどしかない星だ。その星は常に清浄なる蒼い光を放ち、月のまわりを子供のように巡り続けている。月が紅く染まった日も、白く色が抜けてしまった日も、この星は変わらず清らかな蒼い輝きを失わない。
 人はこれを、蒼月と呼んだ。
 セレスティスから見上げた空も、未知の大地であるセルゲナ山脈から見た空も、変わらない。
 不思議な気分だった。
 今こうしている間も、翼族の村の空に、同じ月が輝いているのだろうか。
 空は広く果てしない。誰のものにもならず、誰の支配も受け付けない。しかし、世界中の人々の上空には、等しく同じ空が存在する。
 この空に祈ったならば、想いは遥かなる遠い故郷に届くだろうか。
(じいちゃん……)
 懐かしい面々の顔を思い出しながら、エフィーは思う。
 いつかどこかで、再び会う事が出来るだろうか。
 二度と会えないとアジェルは言った。けれど、まだ実感できない。どこかで再会できるのではないだろうかと、淡い希望を持つ自分がいる。
(必ず帰る……)
 自分には翼がある。空を道として歩む事のできる、翼が。
 全ての目的を果たしたなら、必ず帰ろう。ジュリアとアジェルを連れて、セレスティスへ。

「こんなところにいたんだ」

 唐突に、背後から声を掛けられた。
 エフィーはゆっくりと振り返り、屋根の端から顔を出した人物を見つける。夜の闇のように深い藍色の髪と、涼しげな翡翠の瞳を持つ少女が、屋根の先から顔を出していた。

「ジュリア、危ないよ」

「断崖絶壁の谷の翼族の村に比べたら、全然危なくないわ。落ちても雪があるんだし」

 翼族の村で育ったジュリアに高所恐怖症という言葉はない。
 ジュリアは分厚い外套を纏っているとは思えない軽やかな動きで、屋根によじ登る。エフィーの傍まで来ると、屋根の雪を払い落とし、エフィーと同じく座り込んだ。

「部屋にも食堂にもいないから、探しちゃった。明日出発なんだから、ちゃんと体休めないと駄目よ」

「うん。でも僕、申し訳ない事に怪我もしてないし、睡眠だったら人一倍とってたから、意外と元気なんだよね」

 本日目覚めたのだって、日没前だ。
 元気を持て余しているらしいエフィーに、ジュリアは呆れたような視線を向けた。軽い溜息を吐きながら「心配した私が馬鹿だった」と愚痴る。エフィーはその言葉に、小さく笑った。

「それで、こんな所でのん気に月見?」

 エフィーが見上げていた二つの月を、ジュリアも視線を上げて見つめる。
 雲のない夜空の真ん中で、優しい光を放つ月。鮮やかで眩い金色の月と、朧で幻想的な蒼い月。今宵はどちらも満月に近い。双月が同時に満ちる事は極めて珍しく、一年に数度、お目にかかれるかどうかだ。

「うん、綺麗だろ?」

「綺麗ね。明日は満月かな……。ねぇ、双月が満ちる夜は、不吉だって知ってる?」

 うっとりと目を細めたジュリアが、微かに眉を潜めて呟く。
 彼女の言葉に、エフィーは首を傾げた。

「どうして? 双月の満ちる日は、精霊が集まって踊り明かすんじゃないのか」

「うん、そういう素敵な話もあるね。でも、精霊がお祭りをしている間、世界の均衡を保つ力が弱まる。そうすると、ゲートが少しだけ開くの。魔界に封印された魔族が、たまに地上に姿を現すのはね、双月の満ちる夜に逃げ出してくるからだって」

 ジュリアは立てた足の上に肘を置き、頬杖をつきながら月を見つめた。横から覗き込んだ彼女の横顔は、どこか複雑そうな表情を浮かべていた。

「それは物騒だね。でも、綺麗だから良いんじゃないかな。魔族もきっと、あんまり月が綺麗だから、月見しようと地上まできちゃうんだよ。今の僕と何も違わない」

 月が綺麗だから、月見を楽しむために屋根に上った。寒いし、手はかじかむし、良い事なんてない。だけど、惹き込まれずにはいられない。そんな不思議な魅力を、月は持っている。
 きっと、精霊も魔族も同じだ。月の魔力に引き込まれて、月の光が注ぐ地上に集う。
 美しいものに惹かれるのは、感性が優れている証ではないだろうか。
 エフィーの言葉に、ジュリアは小さく笑い声を零した。

「……そっか。そんな捉え方もあるんだ。エフィーの発想は無駄にロマンチックで前向きだよね」

「ジュリアが悪く考えすぎなんだよ」

 もっと気楽に行かないと、と付け足して、エフィーはジュリアの頭を乱暴に撫でた。

「ちょっと、やめてよ馬鹿エフィー」

 ジュリアは鬱陶しそうにエフィーの手を見たが、払う事はなかった。
 エフィーが手を離すと、ジュリアは乱れた髪を手串で整える。その間に、エフィーの視線は再び天へと向けられていた。

「なぁジュリア、どうして月が二つあると思う?」

 天空に浮かぶ月。闇を照らす光。それは二つも必要ないはずだ。

「月が二つある理由? ……んー」

 考え込むジュリアに向けて、エフィーは記憶を辿って言葉を紡ぐ。

「父さんの神族に関する本の挿絵にはさ、月は一つだけだった」

 最初は、あまり気に留めなかった。挿絵を描いた人が、二つ描く事を怠って描かなかったのだと、幼いエフィーは思っていた。
 けれど、成長するにつれて、ある事に気付いた。
 神話や神族に関する書物のほとんどに、月は一つとして描かれている。どの挿絵にも、もう一つの月の姿はない。ならば、人々に蒼月と呼ばれるあの星は一体――。

「蒼月は――」

「蒼月は終焉の証。神話の時代、天と地は一つの塔を架け橋として繋がっていた。私達の青き大地と、神族の蒼き大地の狭間にある塔の中心に宝玉を頂き、人と神が共存していた時代、夜空は栄光に輝く金色の月だけが浮かんでいた」

 エフィーの言葉を継ぐように、二人の背後から低い声の言葉が流れた。
 座っていた二人は驚いて、首の骨が軋むほど素早く振り向く。今まで、物音一つしなかったはずだ。屋根を登ってきた気配など、微塵も感じていない。
 跳ね上がった心臓に静まるよう命じながら、エフィーは背後に立つ人物を確認する。
 二つの双眸の先には、雪の積もった屋根にすらりと立つラーフォスがいた。エフィー達のようにのように山越え用の外套は纏っておらず、薄い布の服の上にふわふわとしたショールを肩にかけただけの薄着で、寒さをものともせずに微笑んでいた。

「びっくりしたぁ。心臓止める気?」

 胸を押さえ、ジュリアはラーフォスに抗議の声を上げた。
 ラーフォスは二人の驚き顔に満足したのか、実に嬉しそうに笑う。脅かすつもりだったに違いないのに「二人が仲良しさんなんで、出るタイミングが分からなくて……」などと白々しい言葉を返した。
 呆れたジュリアは溜息をつき、半目でラーフォスの姿を見る。

「いつからいたのよ……」

「月が二つある理由について、くらいからですよ。気付いてもらえなかったんで、ちょっと機会窺ってました」

「そんな格好じゃ寒いんじゃない? 風邪引いてからじゃ遅いわよ」

「いいえ、大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」

 何も知らない男性なら、思わず胸の高鳴りを覚えてしまいそうな優しい微笑を浮かべ、ラーフォスはジュリアに言葉を返す。全く悪気のない答えに、ジュリアは肩を落とした。
 この男が確信犯なのか、ただの天然なのか判別しかねる。

「時々貴方がが分からないわ」

「そうですかー?」

 くすくすと微笑みながら、ラーフォスはジュリアの横に移動する。雪を払い落とし、屋根に腰掛けた。二人が今までそうしていたように、手を伸ばせば届きそうなほど鮮やかな月を見上げた。

「見事な月ですねぇ」

 のんびりとした口調で褒め、ラーフォスは月を眩しそうに見つめる。
 突然の訪問者に気分を害したわけでもなく、エフィーとジュリアはもう一度、月に視線を戻した。

「ラーフォス、さっきのって、伝説の一説?」

 先ほどの言葉に興味を持ったエフィーが、ラーフォスに尋ねる。
 問われたラーフォスは月からエフィーに視線を戻し、ゆっくりと頷いた。

「ええ。あまり知られてはいませんが、月にまつわる歌があるんです。今はもう忘れられてしまった物語ですけれど……。かつて、夜の空を支配していたのは、金色の月だけだった。太陽と月の下には、私達の世界である青き大地があり、天へと伸びる塔が、神界と繋がっていたといわれています。全ての始まりの日、人間の手によって塔から宝玉が盗まれ、人と神の争いが始まった。長く続いた悲しい戦争は、地上界が滅びるという最悪の形で戦争に終止符が打たれました。その時に、神と人とを繋ぐ絆であった架け橋は真っ二つに折れ、神々の蒼き大地は天へ昇っていった。……あの蒼月は、神々の世界であったと言われています」

 深い色合いの蒼い星を指差して、ラーフォスは言う。
 金色の月に寄り添うように、遥かなる空から地上を見下ろしている蒼月。神話の時代には一つだった月が二つになった理由は、宝玉を巡る戦争だというのだろうか。地上を見限り、人々の手の届かない場所へ行ってしまった神の世界。蒼月は遠い時代に人が犯した罪の証として、今も空に輝いているのか。

「……地上の人にとって都合の悪い歴史だから、忘れられたのかな?」

 ジュリアが疑問を小さく呟く。
 ラーフォスは首を振って否定した。

「いいえ。都合が悪い事を隠すのならば、蒼き神話そのものが今、語り継がれてませんよ。忘れられてしまった理由は、とても長い時が流れたから。もしくは、人々にとって神々の存在は、もう必要ないのからかもしれません」

 かつて、神の下に繁栄した青き地上界。
 神のつくりだした秩序によって、豊かに成長した人間達。
 だが、移り変わる時代の中で、人々は自分達の力で生きていく事を覚えた。与えられなくとも、自ら作り出す事を学んだ。隣から奪う事で、足りないものを補う術も覚えた。故に、戦争は起こったのかもしれない。

「蒼月と神話の繋がりなんて、人々にとってはもう、どうでもいい事なのかもしれないですね」

「……そうなのかな」

 人はもう、神を必要としていない。
 神話の時代は物語として語り継がれ、いつしか罪も過ちも消えていく。宝玉が失われ、神々も姿を消してしまった世界は、さしたる問題もなく、続いていくのだろう。人はもう、自らの力で歩んでいける。
 どうしてだろうか。エフィーの心の中に、言いようのない悲しみが浮かぶ。忘却と言う名の冷たい水が、心に浸透していくように、身体の内側が急激に冷えていく。
 忘れたくない。
 忘れないでほしい。
 再び見上げた月は、大地を見守るように、優しく闇を照らしていた。
 月は何も語らない。
 全ての真実を見ていながら、沈黙に身を沈め、ただ天に存在するだけ。






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