二つの月
「――帰りたいんだ」
言って、アジェルはエフィーをすり抜けた先にある窓へ、視線を投げた。
遠いものを見つめるように、何かを懐かしむように。
「気付いたら、セレスティスを出て随分遠くまできてた。レイルを探すつもりできたのに、今は……会いたくないって思ってる」
「どうして……?」
心臓が一際大きく鼓動を打った。
体の中心が、急に冷えていくような感覚を覚え、エフィーは狼狽える。
「どうしてだろう。本当は帰りたくないけど、帰りたい。自分が何処に行きたいのかも、分からないのに。呆れるだろ? 当てもないのに、エフィー達を未開の大地に連れ出して、危険な目にもあわせて、最終的にはノスタルジア」
投げやりな口調で言いきり、アジェルは乾いた笑いを零した。
そこでエフィーは、アジェルが感傷に浸っているのだと気付く。もしかしたら、氷の城で、酷い悪夢でも見てしまったのかもしれない。深い思い入れのある記憶を夢で見るのだと、リューサは言っていた。エフィーが初めに見ていた故郷の夢のように、アジェルも懐かしい情景を見たのではないか。それ故に強い望郷の念に駆られたのではないだろうか。
寂しげな横顔を見つめ、エフィーは言葉を選んでから、口を開いた。
「……故郷が懐かしいと思うのは、普通じゃないかな。僕も、たまに谷に帰りたくなる。じいちゃんの雑な料理とか、村のおばさんの笑顔とか、ちび達の笑い声とか。時々無性に恋しくなる」
「うん」
「ジュリアも、三日に一回は帰りたいって言う」
「うん」
静かに相槌を打つアジェルに、エフィーはもう一言、告げるべきか迷う。
帰りたいと今ここで望んでも、それは叶わない。アジェルは言った。ゲートを使ってセレスティスを出た場合、二度と故郷には帰れないと。帰りを待つ人がいるなら、行かない方が良いと忠告もくれた。
だけどエフィーは出て来てしまった。
引きずるような形で、ジュリアを巻き込んだ。彼女は同意してくれたが、内心、行きたくはなかっただろう。気性の激しさとは裏腹に、ジュリアは平穏を望んでいる。危機に遭遇する度に、どこか苦しげな表情を浮かべるジュリアを見て、何度も心が痛んだ。後悔して眠れない日も、少なからずあった。
だけど、もう戻れない。
やり直しのきかない現実。エフィーはただ、気休めに一緒に帰りたいと言ってやるしかできない。それで、アジェルの心が少しでも軽くなれば良いのに。己の無力を噛み締めて、エフィーは視線を落とした。
「……帰ろうか」
何気なく、アジェルの口から言葉が零れた。
寝ようかとでも言うような、不自然なくらい自然な口調。
エフィーは突然の言葉に思考が一瞬停止し、聞き間違いかと己の耳を疑う。しかし、エフィーを覗き込んでいるアジェルの顔は至って真面目だ。
「え?」
素っ頓狂な声を上げ、呆然とエルフの少年を見つめ返す。
帰る事はできないと、目の前のエルフは言ったはずだ。空間を移動する能力は、神と呼ばれる一族と、その眷属たる刻人だけが持つ。エフィーやジュリアは勿論そんな能力を持っていないし、アジェルは魔術自体使えない。
不可能な事を自ら口にする矛盾に、エフィーは困惑の眼差しを向けるしかなかった。
しばらく見詰め合うような状態で、時間が流れた。
アジェルが嘘を言っているようには見えない。やり場のない思いをぶつけるように投げたであろう笛も。寂しげな眼も。自嘲気味ではあったが浮かべた笑みも。全てが、抑え切れなかったアジェルの心ではないだろうか。帰りたいと望み、その是非をエフィーに問いかけている。
もしかしたら、アジェルが言っていないだけで、セレスティスに帰る方法があるのかもしれない。
だが、後少しで、レイルに追いつける。この先のフェルベスで、レイルに会う事ができるかもしれないのだ。帰っている暇など、ない。
けれど、レイルに会いたくないと言ったアジェルの気持ちも、ないがしろにはできない。
友人として、エフィーはアジェルの望みを叶えてやりたいと思う。
しかし、少し手を伸ばせばつかめるものを、諦める事もできない。
二つの答えの狭間で、エフィーは答えを出せずに開いた口を閉じた。
どうして良いのか分からず、真っ直ぐに覗き込んでくる淡水の瞳から視線を外す。
一言「帰れるなら、一度戻ろう」と言ってやれない自分の心の狭さに、胸が痛んだ。
「――冗談だよ。帰りたくても、帰れない」
「……え?」
沈黙を破って紡がれた言葉に、エフィーは驚いて視線を戻す。
アジェルは眉を潜めてはいるが、口元には笑みを浮かべていた。
「帰れると思った?」
「あ、うん。びっくりした。まさか、帰れるなんて思わなかったから」
「だろうね。前にも言ったとおり、空間移動ができるのは、神族と刻人だけ。……それに、ここまで来て、帰れないよね」
本当に、アジェルはエフィーの心を透視しているのではないだろうか。
思わず息を飲み込んだエフィーに向けて、アジェルは表情を緩めた。
普段は怒っていると勘違いされるほど仏頂面である彼が、エフィーに笑いかけていた。大人びて見える人形のような顔が、今はエフィーよりも幼く見える。眠るためにほどかれていた銀糸の髪は、滝のように肩へすべり、微かに笑った表情も相まって、どこか少女めいているように思えた。繊細な顔立ちをしているとは思っていたが、女性的な雰囲気を感じた事はない。けれど、今目の前に居るアジェルは、本当に少年なんだろうか。
ラーフォスのように、初対面の人間が十中八九女性と間違える訳ではないのに。
思わずぼんやりとしてしまったエフィーを気にするわけでもなく、アジェルは少しだけ軽い声で再び話し始めた。
「フェルベスでレイルに会えたとしても、説得するのは大変だと思うよ。すごく性格悪いから」
「え、そうなの?」
「あいつ、人間嫌いなんだ」
封印の森のエルフが人間嫌いなのは、事情があるだけに仕方がないだろう。
思い当たる節があるので、エフィーは苦笑する。
「じゃあ、僕ら置いてきぼりくらっちゃうかもしれないか。そうならないように、アジェルが説得してくれるんだよな?」
「レイルが俺の言葉を素直に聞き入れるかは分からないけどね」
「うわ、不安だな。じゃあいざとなったらアジェルを人質にとって脅迫する」
得意げに提案したエフィーに、アジェルは「人質ね……」とやや上からの目線で呟く。エフィーが自分を人質に取れる事は、万が一にでもないと言いたいのだろう。アジェルの言いたい事に気付いたエフィーは、「酷いな」と口を尖らせた。
「そんな事しないでいいよ。俺が叩き伏せて否応無しに言う事聞かせる。あいつとの喧嘩で、負けた事ないから」
よほど腕に自信があるのだろうか。
半分とはいえ、神族相手に叩き伏せると啖呵を切るアジェルに、エフィーは笑ってしまった。
「うん、期待してる。僕じゃ秒殺されかねないし。後ろで応援してるよ」
どこまで本気かは分からないが、アジェルが普段よりも楽しげに話してくれているので、エフィーはいつも以上に笑顔を浮かべた。先ほどまで、何か思いつめていたようだった表情も、大分緩んでいるような気がする。少しは、気を晴らせてあげられただろうか。
話の逸れた会話を交わしながら、エフィーはアジェルの横顔を盗み見る。
珍しく饒舌なのも相まって、少なからず元気は出たように思われた。
その事に安心して、エフィーは微笑んだ。
一つ、先ほどの会話の中に気掛かりなものがあった。だが、今の空気を壊しかねないので、それは今度にしよう。疑問を胸に仕舞いこんで、エフィーはちらりと窓を見やった。
いつの間にか、空は紺碧に染まっていた。
二人だけの声が響く宿の二階に、複数の足音が加わる。温泉から出てきたジュリア達であろう。そろそろ時間的にも夕食の時間なので、エフィー達を呼びに来たのかもしれない。
切の良いところで一度会話が途切れ、二人は扉が開くのを静かに待つ。
廊下を歩く音が次第に近づき、アジェルは腰を上げた。手の中に納まっていた笛を、指輪の形に戻す。左の中指に飾り気のない指輪が戻ったのを確認して、アジェルは首だけ振り返った。
「……エフィー、ありがとう」
アジェルに続き立ち上がろうとしたところで声を掛けられたエフィーは、一瞬動きを止めた。
見上げた先で、アジェルは視線をエフィーから逸らしていた。
心なしか、照れているように見える。
エフィーはにんまりと微笑んで、「どういたしまして」と返しておいた。