二つの月
窓から差し込む光をぼんやりと見つめ、アジェルは物思いに沈んでいた。
壁に背を預け、前方にある部屋の入り口ではなく、左脇にある窓に視線を向けている。音を奏でるための銀色の笛を、吹くわけではなくただ手先で遊ばせていた。
三年前から、春を祝う曲や喜びの曲を奏でた事はない。
笛を吹く時は、悲しい運命を辿った仲間を悼む旋律を選んだ。何の罪も無く、突然命を奪われた者達へ、せめて安らかにあるよう祈りを込めて鎮魂歌を奏でる。悲しみを沈めるように、己の心を癒すように。
そっと、手の中の笛を覗く。
銀色に光る、魔力を込めた金属によって精製された飾り気のない笛。それは武器に姿を変える事のできる、世界で唯一つの楽器。古代神がアジェルに与えた、最初で最後の贈り物だった。
そっと笛の口を己の唇にあてがう。吹き込んだ空気が、澄んだ音を纏い部屋に響いた。
楽器を奏でるには、あまりにも穢れた指先で音を選び、悲しみを辿るように旋律を紡ぐ。吹き慣れてしまった鎮魂歌。初めてその曲を聴いた時は、悲哀に満ちた音色に嫌悪すら覚えた。決して、この曲だけは奏でないと、幼い自分は誓っていた。
けれど今は、他の曲を選べない。
違う曲の旋律は、もう忘れてしまった。覚えていたとしても、指先が辿る音は悲しみの音色だけ。
一つ一つの悲劇を追う様に、旋律を紡ぐ。
ふと、氷の城での出来事が脳裏を過ぎった。
氷の伯爵の言葉の一つ一つが、妙に重く心に残っている。
『覚えておくが良い。貴方の存在は、全てを死に引きずる』
確かに、伯爵は血反吐を吐くような声でそう言った。
振り返った過去で、アジェルの傍にいた者は皆、命を落とした。最初の犠牲者は、森に住まうエルフ達。エルフの族長にして父であるゲイル。その警護を請け負っていたディクア。自分が置き去りにした、幼い弟。多くの犠牲が出たのに、アジェルだけは生きていた。そして、生き延びた先で訪れた人間の街で、アジェルよりも一つ年下の少年をも巻き込んだ。
氷の伯爵の言葉に、偽りはない。
アジェルの存在は、近しい者を不幸にする。
これからも、傍にいるものを巻き込んでいくのかもしれない。
そう考えると、急に全身から血の気が引いた。
セレスティスより連れ出した二人の存在を思い出し、ようやく自分が何をしでかしたのか悟った。悪い方向へ進んでしまっているような気がしたのは、錯覚ではない。
過去も現実も、アジェルの進んだ先には必ず過ちが存在した。
◆◇◆◇◆
温泉から一人抜け出たエフィーは、被るように服を着て、髪を乾かさないまま脱衣所を出た。軋む木の廊下を早足に進み、階段を一段飛ばしに上る。
夢に出てきた古代神と銀髪のエルフについてを、アジェルに確かめたくて、気持ちばかりが先走る。
部屋へと急ぐエフィーの足が、階段を上りきったところで止まった。
不思議な音を聞いた気がしたのだ。
耳を澄ませると、少し離れた場所から、笛の音が聞こえた。聞き覚えのある物悲しい旋律。封印の森で聞いた曲だと思い出したエフィーは、足を滑らせるようにして再び歩き出した。なるべく音を立てないように、笛の音の聞こえる部屋を目指す。
扉の前まで来て、エフィーは動きを止めた。
透き通るような音が奏でる悲しい旋律に、胸に微かな痛みが生じる。綺麗な曲だと思うのに、どうしてだろうか。音が響けば響くほど、泣きたいような気分に襲われる。悲しい事など、何もないのに
扉の前で、エフィーは部屋へ入る事を忘れて、ただ流れる旋律を聴いた。
不意に、懐かしいような感情が湧き水のように込み上げてくる。
エフィーの村に、こんな悲しい曲は無い。収穫の時期に歌う豊穣の歌や、大地の精霊への感謝の歌、空を称える壮大な歌。どれも力強く、活気に溢れたものだった。唯一、葬儀の時に歌うものは、この笛の音のように寂しげであった。しかし、葬送の歌は、地上での生を終えた翼族が、迷わず天へ旅立てるように、祈りを込めて歌うものだ。他の歌に比べ寂しく聞こえるだけで、決して心を締め付けるような悲しい曲ではない。
だが、言いようのない郷愁の念に駆られるのは、どうしてだろう。
何かを忘れているような。そんな気がする。
突然、笛の音が途切れた。
神経を耳に集中させていたエフィーは、急に静かになった部屋に疑問をもつ。
奏者が笛を吹き続けたせいで、呼吸困難にでも陥ったのだろうか。
心配になり、扉へ近づいた瞬間、部屋の中から何かを叩きつけるような音が扉越しに沈黙を壊した。
同時に、完全に閉まりきっていなかった扉が、微かに開く。どうやら、何かを扉に投げつけたらしい。その反動で扉が開き、叩きつけられたものがエフィーの視界に入る。
開いた扉の下に転がっていたのは、銀色の笛だった。
まさか、エフィーが盗み聞きしている事に気付き、腹を立てたのだろうか。
扉へ向かって投げつけられた笛を見つめ、エフィーは青ざめる。続けて飛んでくる罵声を想像し、身を硬くする。しかし、エフィーの予想に反して、いつまでたっても部屋の中から怒声が飛ぶ事は無かった。
逃げるわけにも訳にもいかず、エフィーは恐る恐る開いた扉の下にある笛を拾い上げる。そして、笛を投げたであろうアジェルを探すために、半開きの扉をすり抜けた。
そう広くは無い部屋に、寝台が五つ、所狭しと並べてある。
エフィーは寝台の上を視界の端々で探したが、そこに人がいる気配は無い。
先ほどまで寝台の上で毛布に包まっていたはずのアジェルは、扉を入った正面の壁に背を預け、座り込んでいた。物音を立てずに入ってきたエフィーに驚いたのか、呆然とエフィーを見上げている。
視線が合ったのは一瞬で、エフィーの手にある笛に気づき、アジェルは気まずそうに顔を伏せた。立てた膝の上に頭を乗せる形で、動かなくなったアジェルに、エフィーは近づいた。
「気分でも悪いのか?」
思い出せば、昨日から様子がおかしい。
普段からあまり多くない口数も、めっきり減り、一行の中で一番足が速いはずにも関わらず、最後尾を遅れて歩いていた。氷の城で伯爵と対峙したらしいが、怪我はしていなかったはずだ。
アジェルは言葉で答える代わりに、小さく首を振る。
「ラーフォス、呼んでくる?」
アジェルは、エフィーよりもラーフォスに心を開いている節がある。何か悩みがあるなら、彼と話すべきではないだろうか。そう思い至って問うが、アジェルは首を振った。
どうして良いか分からず、エフィーは戸惑う。だが、ここで放っておくのも気が引けた。少し考えてから、エフィーは扉をそっと閉じる。そしてアジェルの隣に移動すると、壁に背を預けて座り込んだ。隣に習い、膝を立ててその上に頭を乗せる。視線は、扉の方へ向けたまま。
しばらく無言でそうしていると、アジェルの動く気配があった。
エフィーが横目に隣を見ると、アジェルはエフィーの手の中にある笛を見ていた。
エフィーが笛を差し出すと、アジェルは素直に受け取った。自分で投げたくせに、腫れ物にでも触るような手つきで、傷が無いかを確認している。恐らく普段は大事にしているのだろう。
笛を投げた理由は、突発的に感情が爆発したといったところだろうか。
傷が無い事に安心したのか、アジェルは一息つくと、ようやくエフィーを見た。
「ありがと」
聞き取るのも困難なくらいの微量な声で呟く。
エフィーはにこやかに「どういたしまして」と答えた。
アジェルは不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに視線を笛へ戻す。手先で笛を遊ばせて、視線もそこへ向けているが、視点の合わない瞳は、何も見ていないように思われた。
だが、怒っている気配は無いので、エフィーは肩の力を抜いて壁にもたれかかった。
「笛、上手だね」
「……そう? ラーフォスのが上手だよ」
「嘘だぁ。ラーフォスが歌ってたの聞いたけど、滅茶苦茶音外してたよ」
ラーフォスは複数の楽器を持ち歩いている。何故、旅には荷物でしかない楽器を持っているのかと聞くと、彼は仕事に使うと言った。世界を渡り歩き、物語を歌い伝えるのが、ラーフォスの仕事なのだという。
それを聞いた時、エフィーは好奇心のまま、歌をせがんだ。リュートと呼ばれる弦楽器を片手に、ラーフォスは快く歌ってくれたのだが、お世辞にも上手とは言えない。声量もあり、低いけれど伸びやかな声は誉められるべきだが、たまに外す音は不協和音以外の何ものでもない。
女性のような繊細な容姿を持ち、博識で、魔術も自在に操る彼の、意外な欠点だった。
思い出して、エフィーは渋い顔になる。
アジェルはエフィーの言いたい事を理解したのか、納得したように頷いた。
「歌はね……。でも、楽器を弾くだけならすごく上手だよ」
言われても、歌の方の印象が強く、伴奏であったリュートの音はほとんど覚えていない。
次は、歌ではなく楽器の演奏を頼んでみるべきだろうか。
「じゃあ、今度聞かせてもらおっと。そうしたら、アジェルも一緒に演奏すれば? 一人より二人の方が、曲のレパートリーも増えるんじゃないかな」
「……昔は、よく一緒に演奏したよ。朝から晩まで、練習に付き合ってもらった」
懐かしむように瞳を細め、アジェルは呟いた。
二人が知り合いだった事を思い出し、エフィーはなるほど、と心の中で頷く。
もしかしたら、アジェルに笛を教えたのは、ラーフォスなのかもしれない。
言葉がなくても、まるで家族のように親しげな二人を見ていると、そんな仮定が浮かぶ。一つ大きな疑問があるとすれば、ラーフォスの実年齢についてだ。アジェルを子供扱いしている節があるので、もしかしたらエフィーが思うよりもずっと年上なのかもしれない。やけに落ち着いている物腰も、若者らしさが欠如している。
頭の中で勝手な妄想を繰り広げていたエフィーは、しばらくしてアジェルが自分を見ている事に気付いた。
「聞かないのか? 色々、聞きたいことがあるんじゃない?」
冬の空のように曇りの無い淡水の瞳は、全てを見透かしているのだろうか。
心中を読まれたかのような言葉に戸惑うが、エフィーは平静を装って笑顔を浮かべた。
「アジェルが話してくれるなら、聞く。話したくないなら、今はいいや」
本心を言えば、聞きたい事は星の数ほどある。
だけど、無理をして答えてもらいたいわけではない。
本人が聞いて欲しいと望むのならば、エフィーはいくらでも付き合うつもりだ。
しかし、アジェルには時折、他人を遠ざけようとする所がある。皆で一緒にいて、自然に馴染んでいるように見えるが、それでも一線を引いている気がするのだ。人には自分の絶対領域と言うものがあるし、その壁の高さも人それぞれだ。エフィーは比較的心の壁が低い方だが、誰もがそうとは限らない。無理やり踏み込むような真似をするのは、心の壁を傷つけるも同じだ。
だから、本人が自ら壁を越えてくるまでは、聞かない方がいい。
エフィーの答えを聞いて、アジェルは視線を笛へ戻した。
「……話しても良いんだ。ただ、何から言えば良いのか、自分でも分からない」
エフィーの知るアジェルは、冷静に言葉を選び、必要最低限にしか語らない。常に考えを頭の中で整理して、迷いや悩みなどを持っていても、それを外には出さない。感情の見え難い表情も相まって、時々、感情が欠落しているのではないだろうかと思うほどに。しかし、そんな事はない。
しっかりしているように見えても、アジェルは、自分とそう年の変わらない少年なのだ。
成長しきらない心が、不安や悩みを抱えているのは当然だ。
「何か悩んでて、一人じゃどうしようもない時は、誰かに話を聞いてもらうだけでスッキリするって、ジュリアが言ってた。僕なんかじゃ何の解決策も出せないかもしれないけど、一緒に悩むくらいできるよ」
「……聞いたらきっと、呆れるよ」
「よっぽどの事がないと、僕は呆れないよ。じゃなきゃ、音痴の吟遊詩人とか、方向音痴のエルフと一緒に旅をするなんてできないって」
真剣な表情で人差し指を立てて言う。アジェルはそんなエフィーを見て僅かに口元を歪めた。
「じゃあ、呆れてもらおうか」
「うん」
どこか切実に、だけど普段よりもずっと穏やかな水色の目が、エフィーを見据える。
頑なな心が少しだけ、手を伸ばしてくれたような気がした。
どんな言葉でも、受け止めよう。そう思い、次の言葉を静かに待った。