二つの月
宿は山の斜面の際に建てられていた。
真ん中をくりぬいた長方形の、エフィー達には馴染みのない造りをしていて、細長い通路が特徴的であった。温泉は、宿の敷地内のくり貫かれた部分に設置され、白い煙を沸かせている。一つの部屋ほどの大きさの池が、丸い石に囲われていた。温泉からは、山の麓を一望でき、はるか彼方に、街と思わしきものも見ることができた。恐らく、フェルベスだろう。
見渡せる景色を眺めていたエフィーは、足元から痺れるように全身を包む寒気にぶるりと震えた。
目の前には、温かくて気持ち良いと言う池が一つ。独特の臭いのある湧き水に、エフィーは一瞬入るのを躊躇った。水は白く濁り、凍える雪山には不自然な湯気を撒き散らしている。微かに香る卵の腐ったような臭いも相まって、とても良いものには思えない。
腰に布を一枚巻いただけの寒々しい格好で出てきたため、身体は急激に冷えていく。それでも、一歩を踏み出す事ができずに、エフィーは立ち往生していた。
ジュリアとラーフォスは長い髪を結い上げて入るよう指示されていたので、今頃髪を纏めている最中だろう。
どうしようかと迷うエフィーに、湯気の中から声が投げられた。
「何してるん?」
軽快な声を耳にして、顔を上げた。エフィーはリューサが先に温泉に行っていたという事を思い出す。視線を向けた先で、温泉の白いもやの中に、褐色の肌のエルフが湯に身体を沈めていた。
「んなとこいたら風邪引くぜ? 早く入れよ」
手招きをしつつ、リューサはエフィーを湯へ誘う。
爽快とは言い難い臭いの白く濁ったお湯に、リューサは平然と浸かっていた。いつも通り、頭の天辺付近で結い上げた髪の更に上に、白いタオルを載せて悠々とくつろいでいる。
「これ、入っても平気?」
「平気だって。見た目と臭いに抵抗があるかもしれねぇけど、慣れれば気になんねーよ」
ほら、とリューサは濁った水をすくい、エフィーに向けて撒き散らす。
冷えた身体に飛んだ飛沫は、エフィーも驚くほど温かかった。火を使っていないのに、何故この湧き水は温かいのだろうか。不思議に思いながらも、寒さには勝てず、エフィーは恐る恐る温泉の湯へ足を入れる。
「別に毒じゃねぇし、そんな恐がんなって」
やや緊張気味な動作で湯に入る。湯気を立ち昇らせる湯は、想像以上に熱く、けれど熱すぎる事無く冷えていた身体を徐々に温めた。骨の髄まで温まっていくような感覚に、エフィーは緊張を解いて、リューサの横に移動して石に寄りかかる。
「温かいね」
「温泉だからな。初めてか?」
「うん。セレスティスで温泉なんて、聞いたことないや」
エフィーの住まう翼族の村での風呂は、川から汲んだ水を巨大な桶に溜め、薪を使い火で沸かす、古めかしいものだ。湯を沸かすのには手間がいるため、夏場は水風呂という事も少なくない。たまに手間を面倒くさがったジュリアが、魔術で水を沸かした事もあった。しかし、温かなお湯が自然に湧き出るという事は無かった。
「ま、あんまどこにでもあるもんじゃねぇしな。知らないのも無理ないか。つーか、あんちゃんと嬢ちゃんはどうした?」
「アジェルは寝てる。ジュリアとラーフォスなら、もうすぐ来るよ」
リューサの問いにエフィーが答えた途端、タイミングを計ったかのように宿に繋がる扉が開いた。
扉から姿を現したのは、長い髪を結い上げ、お団子にまとめたラーフォスだった。彼はエフィーと同じく、腰に布を巻いただけの格好だった。普段ラーフォスは、長く伸ばした金の髪と中性的な顔立ちに、ひらひらと揺れる淡い色の長衣を纏っているため、女性的な印象を受ける。だが、薄くだが筋肉のついている丸みの無い身体は、間違いなくエフィーと同じ性別だ。割れた腹筋に違和感を拭えず、エフィーは何かの間違いではないだろうかと目を擦る。しかし、ラーフォスが男性なのは間違いないようだ。
「嬢ちゃんは?」
躊躇い無く温泉に足を入れたラーフォスに、リューサが問いかける。
ラーフォスは表情を緩め、温泉の脇の柵を指差した。
「女性はあちらだそうですよ。残念ですが、混浴じゃないみたいですね」
「いや、残念って……」
「ちぇー、つまんねーの」
ラーフォスの発言に慌てるエフィーの隣で、リューサは笑いながら舌打ちする。
「やっぱなぁ、死闘を繰り広げた後は、戦士を温かく介抱してくれる美人のねえちゃんがいるべきだと思わねぇ?」
何を想像しているのかエフィーには分からないが、リューサは顔をだらしなくにやけさせて腕を組み、一人で納得するように頷く。
「仰ってる事は分かりませんけど、こんな山奥に美人のおねえちゃんはいないでしょうね」
夢を壊すように、ラーフォスは低く呟く。一人妄想の世界に旅立っていたリューサは瞳を開いて、ラーフォスを軽く睨む。リューサの視線に気付いたラーフォスは、にこりと花が咲くように微笑んだ。
(絶対わざとだ……)
ラーフォスの言葉と表情の矛盾に、エフィーは軽い恐怖を覚えた。
時折、ラーフォスは無邪気な笑顔を仮面のように顔に貼り付けて、鋭い一言を呟く事がある。大方、犠牲者はアジェルなのだが、最近はリューサも標的となったらしい。エフィーやジュリアには兄のように優しく接してくれるが、生意気な事を言う者には容赦が無い。
敵には回したくないと思いつつ、エフィーは二人のやり取りを見守っていた。
「ちぇー、夢も理想もねぇのな。そういやエフィー、あんさんあの城で夢とか見なかったか?」
「え、夢?」
突然話題を振られ、エフィーは己を指差して問い返す。
「っそ、夢。あの城で見た夢って、深い思い入れのあるものなんだろ? あんさんはどんな夢見た?」
好奇心に黒い瞳を輝かせて、リューサはエフィーの答えを待つ。
エフィーは少し考えてから、口を開いた。
「あんまり、覚えてないなぁ。……だけど、思い入れが深い夢じゃ無かったと思う」
初めに見ていた夢は、幸せと呼べる、楽しい記憶のものだった。今よりもずっと幼い頃、ジュリアを連れまわし、時に連れまわされ、時間を忘れて遊びほうけた、楽しい記憶。悪い事もしたし、痛い思いもした。けれど、眠るのも惜しいくらいに野を駆け、空を飛んだ。今でも戻りたいと思うくらい、毎日が輝いていた。しかし、その夢はすぐに終わってしまった。記憶に無い、誰かが夢に入り込んだ。古代神と呼ばれた人と、銀髪のどこかで見たようなエルフ。それに、空と海とを閉じ込めたかのように蒼い、美しい宝石。それらの全てを知らないはずであるのに、懐かしいような、そんな気がした。
一体、あれは誰の記憶なのだろうか。
自分のものでは絶対にない事だけは、確かだった。
「夢ってさ、幻覚症状の一つだって聞いたんだ。だから、僕が眠っていた時に見たものは、自分が作り出した幻だったんじゃないかな」
「伯爵は旅人の夢を覗き見て楽しむって話だぜ? 夢に干渉して記憶を歪ませる事はあるかもしんねぇけど、あんさんが即席で作った幻なんて、伯爵は見ねぇんじゃねーの」
「でも僕、記憶に無い人の夢を見たんだ。そんな事って、あると思う?」
伯爵に、眠る人の記憶を直接呼び出す能力があるのだとしたら、エフィーの夢はどこから拾ってきたというのだろうか。伯爵がエフィーの夢に干渉していたとしても、エフィーはあの二人を知らない。思い入れも何もない。
不思議そうに濁り湯を見つめるエフィーに、ラーフォスが声を掛けた。
「記憶は、人の魂に刻み込まれる場合があります。昔、そう言っていた人がいました。もしもエフィーさんが知らない記憶を夢で見たのなら、それは、エフィーさんが生まれる前に、魂の宿っていた人の記憶かもしれません」
「前世って奴?」
突然、少し離れたところから高く澄んだ少女の声が響いた。
エフィーが驚いて辺りを見回すと、高い柵のうえから顔だけ出しているジュリアが、興味津々の表情でエフィー達を見下ろしていた。
「ジュリア?」
「うわぁ、妖怪だ妖怪。柵の上に生首が刺さってるぜ?」
エフィーが名を呼ぶ傍で、ジュリアを見つけたリューサが、からかい半分に言う。
「誰が! 変な事言うと温泉を冷水に変えるわよ」
目尻をきつく吊り上げて反論するジュリアに、リューサは満足そうに笑った。
「元気だなー。でもんなとこにいると、風邪引くぜ」
「平気よ。これくらいの寒さ、伯爵の吹雪に比べたらなんでもないしね。それよりもエフィーが見た夢って、前世の夢なの?」
「そうとは言い切れないです。可能性の一つとして、あるかもしれないだけですよ」
リューサに向けた笑みとは明らかに違う、優しい笑みを浮かべながらラーフォスが答える。
ジュリアは少しばかりつまらなそうに、唇を尖らせた。
「えー、前世の夢って言った方が素敵じゃない? エフィー」
「え、そう?」
どちらかといえば、ジュリアは現実的だ。占いや迷信も良いものしか信じない。そんな彼女が、前世の記憶と言う、いかにも少女趣味の言葉に反応したのは、少々以外だった。
のりの悪い反応を見せたエフィーに、ジュリアは不満の声を上げる。
「夢がないのね。で、どんな夢だったの?」
「どんなって言われても……、あんまり覚えてないな。綺麗な宝石と、それを持ってた僕と、銀髪のエルフを見た。何か話してたけど、全然意味わかんなかった」
夢の中で、エフィーは二人の会話を理解していた気がした。けれど、夢から覚めると、それらは全て曖昧なものとなった。ただ、視覚的に得た情報だけが、薄っすらと記憶に留まっている。
「宝石ですか?」
ラーフォスが興味深げに問い返す。エフィーは小さく頷いて答えた。
「エフィーってば、夢の中でも宝玉が出てくるのね。神話が大好きなのは分かるけど、もうちょっと楽しい夢見なさいよ」
エフィーは、あえて宝玉と言う言葉を使わなかった。神族や蒼き宝玉に関しては、興味があるものの、夢で見るほど熱狂的だとは思われたくなかった。だが、ジュリアは宝石という単語から連想して、宝玉だと決め付ける。間違ってはいないのだが、エフィーはジュリアの中の自分像に少しだけ呆れた。いや、これほどに自分を理解してくれている存在がいるのは、喜ぶべきだろうか。
「それに、銀髪のエルフって、アジェルじゃないの?」
更に言葉を続けて、ジュリアは言う。
エフィーは、息を呑んでジュリアを見上げた。
夢の中で、銀髪のエルフが誰かに酷似していると感じた。淡い色をした瞳に、人形のように感情の篭らない表情。一度だけ、エフィーはエルフの名を呼んだ。その名前は、何だっただろうか。
無意識のうちに、エフィーは立ち上がっていた。
「ちょっ、エフィー何!?」
突然白い湯から立ち上がったエフィーから視線を逸らすように、ジュリアは柵の後ろへと顔を沈め喚いた。
エフィーはジュリアの言葉に答えず、ざぶざぶと湯を掻き分けて扉の方へと歩き出す。
目が覚めたら、彼に会ったら、尋ねようと思っていた。
どうして大切な事を忘れているのだろう。
「ごめん、ちょっとのぼせたから先に上がってる」
それだけ言い残して、エフィーは屋外の温泉から宿の方へ戻っていった。
とてものぼせたようには見えないエフィーのしっかりとした足取りに、リューサやラーフォスは疑問を持ちながらお互いの顔を見た。柵の向こうでジュリアがエフィーの名を呼んでいたが、それに答える声はない。
「何だったんだ?」
「さぁ。夢に、アジェルが出てきたって事ですかね」
まさか本人に『自分の夢に出てきたんだけど、どうして?』という事でも聞くつもりなのだろうか。
時々抜けているところのあるエフィーなら、やりかねない。
「まぁ、殴られなければいいですけどね」
エフィーの行動を勝手に想定し、それに対するアジェルの分かりやすい反応を思い描き、ラーフォスはおかしそうに笑った。優男のような顔をしながら、中々えげつない事を考えているラーフォスを横目に、リューサは空気を吐き出すような声で、
「あんさん、性格悪いよな……」
と呟いた。
いつの間にか隣の柵の影は沈黙していた。小走りの足音が響いたかと思うと、水に重石でも投げつけたような音が沈黙を破る。同時に、柵を越えるほど高い水飛沫が飛んだ。
どうやら寒さに耐えかねたジュリアが湯へ飛び込んだらしい。
騒がしいと思いつつも、元気な子供二人にリューサは口元を綻ばせた。