二つの月


 リューサの見つけた青い屋根の家は、雪山の麓を少し登った場所に建てられた旅の宿だった。
 リューサ曰く、前に一度訪れた事があるという。彼の話では、この付近に独特の臭いをもったお熱い湧き水があり、人間達はそれを温泉と呼んでいるらしい。疲れを癒し、怪我や病気にも良いものだという。山を越える旅の者に限らず、フェルベスやラキアの人々も訪れる、ルーン大陸では有名な宿だそうだ。
 エフィー達はお互いの確認も取らず、真っ直ぐに宿へと向かった。皆、休める場所があればいいと、口には出さなくとも思っていたようだ。ラーフォスもアジェルも、文句一つ言わず、微妙に進む方角を変えたエフィー達の後に続く。
 夜も更ける時間に、不謹慎だとは思いながらも門を叩いた。こんな夜更けに、起きてはいないだろうか。エフィーが不安に思った束の間、旅館の主が門を開き、エフィー達を迎えてくれた。
 非常識な時間に訪問にした客であるにも関わらず、主人は疲れ顔のエフィー達に部屋を用意してくれた。疲労感を拭えなかったエフィーは、主人の厚意を喜んで受け取った。リューサやラーフォスはまだ余裕のある感じではあったが、エフィー達が休む事に異論はないようだ。
 部屋割りなどは一切考えずに大部屋を借り、宿帳に名前を書いた後、案内された部屋で落ち着いた。その後の事は、エフィーもほとんど覚えていない。それぞれ寝台を確保し、すぐに安らかな眠りへと落ちていったからだ。夢を見る間もなく、深い眠りへと――。
 再びエフィーが眼を覚ましたのは、陽が傾きかけた昼下がりだった。

「エフィー、そろそろ起きなって」

 ゆさゆさと無遠慮に身体を揺すられ、エフィーは瞳を開く。
 視界に映りこんだのは、身支度を整えたジュリアだった。いつも着ていた、血で汚れ、所々裂けてしまった服ではなく、予備に持っていた青くゆったりとした服に着替えている。完治していなかった怪我も自分で癒したのか、傷跡は完全に消えていた。昨日の青ざめていた顔色は、休んで元気を取り戻したのか、大分良くなっていた。
 ジュリアは冴え冴えとした翡翠色の瞳で、楽しそうにエフィーを見つめている。
 エフィーは寝ぼけ眼をこすって、ジュリアへと言葉を返した。

「今、朝?」

「もう朝なんかとっくに過ぎて、夕方になるくらいだよ」

 ジュリアの言葉に、エフィーは慌てて毛布を跳ね除けて飛び起きた。

「嘘!?」

「本当。ラーフォスが一番最初に起きたけど、みんなお疲れだから寝かしてやれって。アジェルも起きないし、リューサはどこかいっちゃったし。もう一日休もうかって話になってるよ」

 一日だけ休むつもりだったエフィーとしては、それはありがた迷惑な話だ。エフィー達がゆっくりとすればするだけ、追っているレイルは遠ざかってしまう。昨日は疲れていて言い忘れていたが、氷の城でレイルと思わしき人物を見つけたのだ。彼は翼を使って飛び去っていった。恐らく、フェルベスまで飛んでいくつもりなのだろう。フェルベスから出ている船に乗られてしまっては、捜索が振り出しに戻ってしまう。一刻も早く追いかけなければいけない。
 寝ぼけていた頭をフル回転させ、エフィーはそこまで考えを纏めた。飛び出るように寝台から降りて靴を履き、ジュリアに呼びかける。

「ダメだ。レイルを追いかけないと!」

 ぼさぼさの髪を手串でなでつけ、壁にかけていた上着を掴む。
 驚くほどの俊敏な動きを見せたエフィーに、ジュリアは一瞬呆気に取られた。しかし、エフィーが出発する気だと気付き、慌てて止めに入る。

「ちょっと待ってよ、エフィー。急がなくても大丈夫。フェルベスから次に出る船は、四日後なんだって。ここからフェルベスまでは、徒歩でも半日でつくらしいの」

「え?」

 一人暴走気味に走りかけたエフィーは、ジュリアの言葉に動きを止めた。

「もう一つ吉報ね。なんでも私達がここに来る前に、二人組みの旅人がこの宿で一休みしていったらしいの。一人はエフィーくらいの男の子で、もう一人は女の人だって。男の方は淡い金髪で、額には緑色のバンダナを巻いていたそうよ。ラーフォスが、もしかしたらレイルかもしれないって」

 ラーフォスはアジェルの知り合いであり、また、レイルの知り合いでもあるという。アジェルはレイルに関して、ほとんど覚えていないと言っていた。レイルの外見的特長は、アジェルよりもラーフォスの方が詳しい。ラーフォスはエフィー達に出会う前に、レイルに会っているそうだ。その彼が、レイルだと判断したのならば、間違いないだろう。
 エフィーは氷の城で見た、翼を持つ少年と妙齢の女性を思い出す。勝手な推測でしかないが、彼がレイルではないだろうかと思っていた。隣の女性については誰なのか分からないが、連れと言っていた事から考えて、仲間だろう。男の方の姿を見る事はできなかった。だが、二人組みで、雪山を越えていったという偶然を考えれば、エフィーが遭遇した二人に違いない。

「アジェルには言ったのか?」

「まだ。アジェル全然起きないから。でも、多分フェルベスで会えるよ。明日出発したとしても、探す時間は十分あるしね。フェルベスはデューベルと違って、そんなに大きな町じゃないみたいだし」

 嬉しそうに笑いながら、ジュリアは落ち着かせるようにエフィーの肩を叩く。

「一日くらい、ゆっくりしよ?」

 久々に落ち着いて休める事が嬉しいのだろうか。ジュリアはご機嫌な様子で、エフィーの手から上着を奪い、壁へ掛け直す。
 エフィーは急ぐ必要が無いと分かり、気が抜けたように寝台へ腰を下ろした。

「……うん。そうだね。アジェルも疲れてるみたいだし」

 壁側の寝台で、毛布を頭まで被り身体を丸めて寝ているアジェルをちらりと見やる。エフィーやジュリアが普通に会話をしていても、起きる様子を見せない。いつもなら、少しの騒音に反応し、眠そうな声でうるさいと呟くはずなのだが。山越えや氷の城で溺れた事など含め、余程疲れていたのだろう。

「そうそう。時には自重しないとね。そういえばこの宿、温かい湧き水があるって、リューサが言ってたじゃない? 夜ご飯までまだあるし、入ってみない?」

 嬉々としてジュリアは口早に言う。

「温泉って奴?」

「うん。疲れも取れるし、気持ち良いんだって。ラーフォスも入ろうかなって言ってたし」

 どうやら、エフィーは温泉に行くために起こされたらしい。
 だが、エフィーも温かいお湯の湧く「温泉」というものに興味が無いわけではない。セレスティスでは聞かなかった言葉であり、どんなものなのか想像もつかない。外に風呂がある事自体、エフィーにとっては不思議な話だ。
 ジュリアの誘いを断る理由もないので、エフィーは首を縦に振った。
 エフィーが立ち上がったところで、部屋の扉が開いた。
 ゆっくりとした動作で部屋に入ってきたのは、ラーフォスだった。ジュリアはラーフォスと目が合うと、丁度良いとばかりに声を掛けた。

「ラーフォス、これから温泉に行くんだけど、一緒に行かない?」

 ラーフォスは緑柱石色の瞳を細めてにこりと微笑み「いいですよ」と言った。

「リューサさんが先に入ってるみたいですよ。折角ですから、みんなで行きましょう?」

「でも、アジェルまだ寝てるよ」

 ラーフォスの提案は良いと思うが、最後の一人が現在進行形で昏睡中だ。
 無理に起こしてまで連れ出すのも、さすがに気が引ける。

「いいえ。アジェル、起きてますよね?」

 ラーフォスの一声が部屋に響く。エフィーは背後の寝台を振り返った。先ほどから、アジェルが丸くなって眠っている場所に視線を移す。すると、寝台の上で丸く盛り上がった毛布が、もぞもぞと蠢いていた。腕と思われる、毛布に包まれた二つの手が頭の辺りを押さえた。耳でも塞いでいるつもりなのだろうか。
 しばらく毛虫のように毛布の中で動いていたが、突然ぴたりと動きを止めた。

「寝てる」

 低く気だるげな声が、毛布の内側から呟かれた。

「起きてるじゃないですか。みんなで一緒に温泉行きませんか? 気持ち良さそうですよ」

 穏やかな声色とは裏腹に鋭い突込みをいれ、ラーフォスは毛布を剥ごうとアジェルに近づく。
 敏感に危機を感じ取ったのか、アジェルは剥がされる前に毛布から顔を出し、不機嫌そうにラーフォスを見上げた。

「いい」

「どうしてですか? 怪我にも効くそうですよ?」

「怪我してないから。俺はいいから、三人で行ってきなよ」

 どうしても連れ出したい様子のラーフォスに対し、アジェルは面倒と言わんばかりに答える。
 エフィーはアジェルも来てくれた方が楽しそうで良いのだが、無理をさせるのは可哀相だ。本人が断っているのだから、引きずっていく事もないだろう。にこやかに微笑みながらも、アジェルを引っ張りそうなラーフォスを止めるべく、エフィーは彼の肩を軽く叩く。まだ眠りたいと言いたげなアジェルに、助け舟を出してやる事にした。

「今じゃなくても入れるんだし。取り合えず先に行こう?」

「まぁ、そうですね」

 残念そうにアジェルを一瞥し、ラーフォスはしぶしぶ頷く。

「アジェルも、目が覚めたら来ればいいじゃない。ね、だから早く早く」

 エフィーに続いてジュリアもラーフォスの背を押す。彼女の場合、自分が行きたいと言うのが本音なのだろう。ラーフォスは諦めたのか、ジュリアに押されるまま扉へと歩き出した。
 それを確認したアジェルは、安心したように溜息を零す。横目にそれを見たエフィーは、思わず口元に笑みを浮かべた。エフィーやリューサには強気でいるアジェルだけれど、ラーフォスには頭が上がらないところあるように見えた。

「じゃあアジェル、先に行ってるよ。気が向いたらきてよ」

 エフィーは再び毛布を被ったアジェルに声を掛けて、部屋を後にした。ラーフォスとジュリアを追いかけ、古めかしい木造の廊下を軋ませる。次第に、三人の足跡が遠ざかっていった。
 残されたアジェルは、毛布を跳ね除け、寝台の上で身体を起こした。
 静かになった部屋で、己の胸元に手を当てる。微かに熱を放つ何かが、薄い布越しに感じられた。

「……一緒に、入れるわけないじゃないか」

 一人呟き、アジェルは窓の方に視線を投げた。
 空は赤く輝き、黄昏の太陽は西の彼方へ姿を隠そうとしている。
 燃えるように赤い空を、アジェルはただぼんやりと見つめた。






back home next