二つの月


 純白の雪原に、四つの足跡が続く。
 空は暗く、夜の凍てつき具合は昼のそれを遥かに凌ぎ、骨の髄から身を氷らせた。
 だが、しんしんと降り注いでいた雪は、今は空の上で休憩中なのだろうか。幸い、夜の空から白い欠片が降る気配はない。
 厳しい冷え込みによって氷った雪の絨毯に足が沈むたび、ぎゅっぎゅっと音が鳴った。果てしない雪原を、登っているのか下っているのか。それすらも分からない。しかし、雪道を進む足取りは、草原を歩くようにどこか軽やかであった。

「エフィーってば、私達の後追って流されたなんて、本当に馬鹿ね」

 少々疲れ気味の、けれど良く透る声がエフィーの耳元に届いた。
 エフィーは首を少しだけ横に捻り、上を見上げる。
 中腰で歩くエフィーの背に、ジュリアが背負われていた。

「だって、二人とも浮かんでこないし」

 己の上から聞こえた言葉に、エフィーは中腰のまま答える。
 再会した時に、ジュリアは満身創痍の状態で、エフィーは悲鳴を上げかけた。アジェルの血も尋常ではないが、彼女は己の血で衣服を汚していた。ラーフォスが魔術を使い手当てを施したので、傷はほとんど癒えた。今は返してもらった外套に身を包んでいる。しかし、水路で流してしまった靴は、結局見つからなかったようだ。裸足のままはあんまりなので、ラーフォスが貸してくれた予備のサンダルをとりあえず履いている。だが、サンダルで雪道を歩けるわけもなく、エフィーが背負っての下山となった。

「浮かんでこなかったのは悪かったけど……。でも、エフィーが来たって、状況は変わらないでしょ?」

 ジュリアの言葉に、エフィーは僅かに傷ついたような顔をした。
 あの時は突然の事に慌てていた。ジュリアとアジェルの正常な判断が出来なかったとしても、仕方がない。エフィーにも言い分はあったが、ジュリアに対して何も言えなかった。ジュリアは別れた後の事を、大まかに話してくれた。けれど、彼女が傷だらけの事に関しては、何も言わなかった。エフィーは、自分のいないところで仲間が傷ついてしまった事に、罪悪感を覚えた。
 いつもなら少なからず強気で切り返しているところだが、あえてエフィーは棘の立たない言葉を選んだ。

「……ジュリアまで流されるとは思わなかったから」

「私だってアジェルがカナヅチだなんて思わなかったよ」

「何、あいつやっぱり泳げなかったん?」

 エフィーとジュリアの会話を横で聞いていたリューサは、ジュリアの一言に反応を示す。
 心なしか、リューサは楽しそうに口元を歪めている。アジェルをからかう口実が増え、喜んでいるのだろう。エフィーには、冗談でもアジェルをからかう勇気はない。返り討ち覚悟で誰彼構わず人をおちょくるリューサは、ある意味尊敬に値する。

「そうみたい。まぁ、アジェルのお陰で無事ネージュも退治できたわけだし、皆無事で良かったんじゃない。誰かさんは最期まで眠ってたみたいだけどー」

 背後から伸ばしてきたジュリアの手が、エフィーの両頬を引っ張る。
 エフィーは必死に痛いと訴えたが、うまく発音できずに、何の言葉かわからない言語を口走る。

「ほれあわるひゃったっておぼってる」

「へぇ」

 伸びの悪いエフィーの頬を離し、ジュリアは意地悪く笑った。

「でも、今回に限り許してあげる。悪い事ばっかりじゃなかったしね」

「何か楽しい事でもあったのか?」

 随分と機嫌の良いジュリアに、エフィーは疑問を持つ。
 怒っていたかと思えば、ころりと楽しそうな笑みを浮かべている。

「まあね」

 ジュリアが何故ご機嫌なのかは謎だが、怒っていないに越した事はない。
 エフィーは深く追求せず、とりあえず微笑み返しておいた。
 そして、背後をちらりと振り返る。
 エフィーとジュリアとリューサは並んで歩いていたが、ラーフォスはエフィー達のすぐ後ろを歩いていた。もう一人の姿が見えないので、一度立ち止まる。

「ラーフォス、アジェルは?」

 先ほどまでラーフォスの横に居たはずのアジェルは、どこへ行ってしまったのだろう。
 普段はエフィー達の前を歩いているので、すぐにその姿を見つける事ができたというのに。
 ラーフォスはエフィーの質問に、困ったような表情を浮かべた。
 さり気なく緑柱石色の視線を背後へと走らせる。エフィーがラーフォスの更に後ろに眼を向けると、少し離れた所にアジェルがいた。

「どこか悪いのか?」

 エフィーが気付かなかっただけで、アジェルも怪我を負っているのではないだろうか。いつもならきびきびと歩くアジェルが、遅れを取るとはとは考え難い。

「いいえ。多分、疲れてるんだと思います。私が見てますから、大丈夫ですよ」

 立ち止まったエフィー達を安心させるように微笑んで、ラーフォスは進むように促した。
 心配ではあったが、ラーフォスがついていれば大丈夫だろう。
 少しばかり遅れがちに、それでもしっかりと着いてくるアジェルを見やってから、エフィーは再び歩き出した。
 それから一刻半ほど歩いただろうか。
 空は薄っすらとだが闇を払い、東の果てには緩い光が覗いている。
 リューサは片手に方位磁石を持ち、もう片手に掴んだ地図を睨め付けた。
 セルゲナ山脈に入ったばかりの時に見ていた隣の大陸の地図ではなく、ラーフォスより借り受けたルーン大陸のものだ。名誉挽回も兼ねて、リューサは精霊の声と磁石を頼りにおおよその現在地を特定し、フェルベスへ続く道を探り当てた。道と言っても、深い雪に覆われているため、どこが道なのかエフィーには全く分からない。リューサは大丈夫だと白い歯を見せて笑っていたので、不安はあったが案内を頼んだ。
 いつの間にか、登っていたはずの雪道が下り坂になっていた。
 氷の城へ迷い込んだために大分予定は狂ってしまったが、山の半分は越えたようだ。リューサが言うには、丸一日歩けばフェルベスへ辿り着くらしい。だが、夜通しで歩き続け、口にこそ出してはいないもののエフィーは大分疲労を感じていた。ジュリアを背負っているため、足取りは重い。加えて、歩き辛い雪道だ。何度かリューサと交代しながら進んではいたけれど、休まず一日歩き続けるのは難しかった。

「夜が明けるね」

 しばらく静かにしていたジュリアが、ぽつりと呟いた。

「起きてたの? 寝てても良いのに」

「うん、でも眠くないんだよね。エフィーも疲れてない? どこか休めるところ、あればいいのに」

 本来ならば、氷の城で一晩休ませてもらうはずだった。しかし、休むどころか体力も精神も削られて、城は崩壊してしまった。城が崩れていなかったとしても、魔族の城で休むなど、満場一致の大反対になるだろう。かといって、強行軍で進めるほどの余力があるかと言えば、そんな事もない。
 ジュリアは辺りを見回すが、白い大地だけが何処までも続く景色に、肩を落とした。

「そうだなぁ、確か麓の近くに宿があった気がすんだけどな」

 大まかな地形のみしか記していない地図を、穴が開くほど見つめ、リューサは溜息を吐いた。

「宿?」

「ああ。ルーン大陸来たんも久しぶりだからな、あんま覚えてないんけど、あったような気がせんでも……、いやあれは別の山だったか……」

 思い出せないのか、リューサは曖昧に言葉を濁す。
 宿があればこれ以上に嬉しい事はない。だが、現実はそんなに都合良くできてはいないだろう。
 頭を悩ませて唸るリューサを見てから、エフィーは視線を東の方へ向けた。
 薄っすらとだが、陽の光がはるか遠くの地平線より覗いている。もうじき夜が明けるようだ。できるだけ早く、休める場所を見つけられる事を祈り、エフィーは一歩一歩雪山を下り続ける。
 白い雪原は終焉を知らぬかのように、消え入りそうなほど淡く、果てしなく続いていた。
 ふと、先ほどからやたらと静かな後ろの二人が気に掛かり、振り向く。
 エフィーが眼を向けた先に、少しの距離を挟んで歩くアジェルとラーフォスがいた。ラーフォスはエフィーに気付くと口元に笑みを浮かべた。隣のアジェルは無愛想ながら、エフィーと視線を結んでも眼を逸らしはしなかった。城を出てからしばらく、ぼんやりとして俯いていたアジェルだが、今は普段と同じように感じられた。ラーフォスの言ったように、先ほどは疲れていただけなのかもしれない。
 しっかりと後ろをついてくる二人に安心し、冷気によって強張っていた頬を緩めた。

「エフィー! 大変だっ」

 突然、リューサの声が前方より響いた。
 エフィーが再び前に向き直ると、リューサは少し先の盛り上がった雪の上に立ち、手を振っていた。相当慌てているらしく、エフィーに早く来いと手で招く。
 何か良くない事でもあったのだろうか。
 エフィーはリューサへと早足で駆け寄る。
 やや急になった下り坂を進む途中、異質なものが視界に入り込んだ。薄暗い空に立ち込める何かが見えて、心臓がどきりと脈打つ。凍てついた空気に晒されているにも関わらず、手に嫌な汗が滲み出た気がした。
 空に向けて、細い煙が昇っている。まさか、このような雪山では考えがたいが、山火事でも起こっているのだろうか。
 焦りが足を速め、リューサの傍まで辿り着く。
 緊張に表情を固くしているエフィーに、リューサはにやりと笑いかけた。

「あれ、何に見える?」

 リューサの指差した先には、煙を吐き出す細長い円筒形のものがあった。筒状のそれは、家としか形容できない建物から伸びている。遠目にも、かなり大きな建物だという事が分かった。青く染められた屋根と、木の色そのままに使われた壁の、家だった。
 また、夢でも見ているのだろうか。それとも蜃気楼か。いや、それは砂漠で見るものだと聞いた。なら、これは一体何だろう。悪い方向に考えていたエフィーは、ただ瞳を何度か瞬く。

「天の恵みって、こういうのを言うんかな」

 得意げに笑って、リューサは空を仰いだ。






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