過去との決別
浮遊していた意識が、押し戻されるように肉体へ戻った。
物質的な感覚が全身を巡り、現実に帰ったのだと理解する。
エフィーは瞳を開いた。仄かに光を放つ半透明の壁が視界に入る。同時に、全身が震えた。ぞくりと身体の内側から沸き起こる痺れるような感覚。それが寒さのせいだと気付くのに、時間はかからなかった。
飛び起きるように身体を起こし、辺りを見回す。首を極限まで曲げる前に、エフィーの視界に人影が映りこんだ。動きを止めて見れば、それはエフィーの良く知る人物だった。
「アジェル、それにラーフォスも」
再会できた事に安堵しつつ、エフィーは二人に近寄るべく立ち上がった。
硬い氷に横たわっていたためか、背の骨がぎりぎりと軋み悲鳴を上げる。それでも身体を無理矢理立たせ、二人の傍へ駆け寄った。動かない二人の安否が、酷く気掛かりだった。
触れるほど近くまで来ると、エフィーは床に膝をつき、二人の様子を窺う。ラーフォスは胸の前で手を組み、静かに眠っていた。瞳を閉じ、棺に収められた死人のように横たわっている。冷気に当てられたためか、顔色も優れないようだ。しかし、よく観察すれば彼の胸は規則正しく上下している。薄暗いこの場所では何ともいえないが、外傷もないようで、ただ眠っているだけのようだ。
大事無い事に安心し、緊張に強張っていた肩の力を抜く。
エフィーはもう一人の仲間を見つめた。そこで、エフィーの空色の瞳は大きく見開かれた。同時に、驚きに声を発する事も忘れ、ごくりと唾を飲む。
アジェルはラーフォスと同じく、瞳を閉じていた。だが、彼は安らかに眠っているとは言いがたい状態であった。暗い青の服に、どす黒い色が染みている。服だけではなかった。露出している手、顔や髪に至るまで、濃い色の汚れが付着している。
一瞬、エフィーは目の錯覚かと思った。
思わず、一番汚れているであろう手に触れると、ぬるりとした感触がエフィーの指先に伝わる。封印の森で翼を裂かれ、己の背から止め処なく溢れた、あの、赤い液体に良く似た――。
血だと理解して、エフィーは背に冷たいものが流れるのを感じた。
全身を染める、おびただしい出血。
エフィーの眠っている間に、何があったというのか。慌てるエフィーの横で、小さな声が零れた。
そちらを見やると、ラーフォスが微かに瞳を開き、ぼんやりと天井を見ていた。
「ラーフォス」
名を呼ぶと、ラーフォスはすぐに反応を示し、エフィーを見上げた。
「エフィーさん? どうして」
ラーフォスは何故眠ってしまっていたのか分からないらしく、戸惑いの表情を浮かべている。ゆっくりと身体を起こし、エフィーと同じように辺りを窺う。眠気の抜け切らない緑柱石の瞳は、アジェルを映したところで止まった。普段は穏やかな表情を浮かべているラーフォスが、珍しく驚きに瞳を見開いた。
「これは……、何があったのです?」
「わからない。怪我してるみたいなんだ、手当てをしないと」
アジェルの青いはずの服は、赤の混入により暗い紫へと変色している。どこからの出血なのか、視界の明るくないこの場所では判別しかねた。しかし、全身に血が飛んだという事は、生易しい傷ではないだろう。どうすれば良いか分からず、おろおろとするエフィーに、ラーフォスは微笑みかけた。
「大丈夫。この子は怪我をしてませんよ」
「え?」
今なんと言っただろう。エフィーは訝しげに金髪の青年を見つめた。
一目見ただけで、身体の状態がわかるものなのだろうか。それとも、寝起きではっきりしない視界では、アジェルの身体に散った血が見えないのか。
非難の色のあるエフィーの反応に、ラーフォスはまた、くすりと笑う。そして、緩やかな動作でアジェルの服を指差した。
「服は裂けてませんし、身体の内側だけ怪我をする事もないでしょう? 恐らく返り血ですよ」
言われて、エフィーは再び横たわるアジェルに視線を移す。
確かに、服が裂けた様子はない。派手にどす黒く汚れているだけで、怪我と思わしきものは見当たらない。だが、一箇所だけ、右の肩口に小さな穴が開いている。恐る恐るその場所に触れたが、傷はなかった。
「じゃあこれは、誰の血だろう……?」
アジェルのものではないのだとしたら、アジェルが剣を向けた誰かという事になる。
血の量は決して少なくはない。切られた方は相当深い傷を負っているだろう。一体、誰を?
微かに不安が生じた。
アジェルは水路に流され、それをジュリアが追った。でも、この場所にジュリアはいない。
一瞬思い浮かべた最悪の展開を、エフィーはすぐさま打ち消した。ありえるはずがない。それに、ナノと名乗った少年は、皆無事だと言ったではないか。夢か現実かも分からないあの声を妄信するわけではないが、ジュリアはきっと無事だ。何となく、それだけは根拠のない自信があった。
「血に、怨念のようなものが染み付いてます。……恐らく、この城に住む魔物のものではないでしょうか」
そっと頬の血を拭ってやりながら、ラーフォスは冷静に言う。
「魔物?」
「はい。私は眠っていたので、はっきりとは言えませんが……。ルーン大陸から流れた噂で、ある魔族の話を聞いたのです」
魔族と聞いて、エフィーはラキアで対峙した銀髪の少年を思い出す。
幼くあどけない姿に無邪気な笑みを浮かべた、冷酷無比な悪魔の子供。絶対的な魔術の恐ろしさは、今でも忘れられない。
困惑するエフィーに、ラーフォスは続けて語る。
「噂はこうです。雪山の奥深く、凍れる眠りの城に悪魔が住まう。氷の伯爵と呼ばれる悪魔は旅人を城へ誘い、永遠に目覚めぬ眠りへ導くだろう、と。不思議だとは思いませんか? 私達は自然の守人たるエルフの案内を受けながら道に迷い、この城に辿り着いた。そして、いつの間にか眠っていた。何かの呪術にかけられたとしか思えません」
「じゃあ、僕達が眠ってる間に、アジェルがその魔族を倒したのか? だとしたら、どうしてアジェルは眠ってるんだろう」
呪いの元凶が倒れたならば、眠りの呪縛から解き放たれるはずだ。実際、エフィーもラーフォスもほぼ同刻に目を覚ました。同じ場所に三人転がっていた理由は謎だが、それも魔物の仕業だと思えば納得できる。だが、ラーフォスの言うように、アジェルが魔族を倒したのなら、どうして彼だけ目覚めないのか。
不思議そうに眉を潜めるエフィーに、ラーフォスは「疲れただけでしょう」と言った。
「さすがに、このまま目覚めさせるのも可哀相ですし、せめて汚れは落としましょうか」
ラーフォスはそっと、横になっているアジェルに手を翳す。
精霊語を歌うように奏でたかと思うと、両手の指先を絡めて印を描いた。人の指とは思えぬ絡み方をした指の合間から、青白い光が零れる。光はしなやかな風のように宙を彷徨い、アジェルの全身を通り過ぎる。光の触れた肌や衣服の汚れは、淡い光の粒子となって消えた。
「これは?」
始めてみる魔術に興味を示し、エフィーはラーフォスの印を結んだ手をまじまじと見つめた。
ラーフォスはアジェルの汚れが取り除けたのを確認した後、改めてエフィーに向き合い微笑んだ。
「清めの魔術です。旅の途中では、とても重宝するんですよ」
「へぇ、魔術で服の汚れも落とせるんだ。便利だね」
わざわざ川でざぶざぶと押し洗いする必要の無い術に、エフィーは感心した。同時に、ジュリアに教えてやれば喜ぶだろうとも思った。彼女は汚れる事が好きではないし、野宿の日には風呂を恋しがっている。幸い、何日も野宿して進むサバイバルな旅はまだ未経験だが、便利な術は知っていて損はないはずだ。
「良かったら今度教えてあげますよ」
エフィーが何を考えているのか感じ取ったのか、ラーフォスは穏やかに言う。エフィーは嬉しそうに頷いて「ジュリアにもよろしく」と返した。
「はい。では、まずはここから出ましょうか。ジュリアさんやリューサさんと合流しないといけませんからね。ほら、アジェル、起きなさい」
寝苦しそうに眉を寄せている少年の額を軽く叩き、ラーフォスは目覚めを促す。
しばらく優しい起こし方を試していたラーフォスだが、効果がないと分かると一変した。アジェルの両頬を抓ると、遠慮なく左右それぞれ外側に引っ張る。肌が柔らかいのか、アジェルの頬はパン生地のように伸びた。寄せられていた眉の間に、皺が増えるのと同時に。
まさかアジェルの変顔が見れるとは思っていなかったので、エフィーは小さく噴出す。普段の仏頂面からは想像もできない、間抜けな顔だ。ここにジュリアがいたなら、間違いなくお腹を抱えて笑うだろう。被害者にしてみれば、迷惑この上ない話だが。
「……痛いよ」
真面目な顔をして奮闘しているラーフォスの手先から、掠れた声が零れた。アジェルの固く閉じていたはずの目が、薄っすらと開いている。ラーフォスは頬を引っ張る手を止めて、アジェルの顔を覗き込む。淡い水の色をした瞳が、ラーフォスを恨むように見上げていた。
「おはようございます。睡眠を取るのは結構ですけど、時と場合と場所を考えましょうね」
自分の事を棚に上げて、ラーフォスは子供を叱る親のように説教をかました。アジェルは言い返せないのか、黙ったまま目を逸らす。さり気なく頬を引っ張るラーフォスの手を外し、身体を起こした。
しばらく辺りを窺い、ここがどこなのかを探る。少しの間を置いて、エフィーと目を合わせると、口を開いた。
「ガキはどこ?」
「は?」
脈絡のない唐突な質問に、エフィーは素っ頓狂な返事を返す。
「子供がいなかった?」
「僕は見てないけど……」
このような場所に、子供がいるわけないだろう。
アジェルが何故そんな事を聞くのか分からず、エフィーは首を傾げる。
彼も何か夢を見ていたのだろうか。目覚めたばかりで、夢と現実の境がはっきりしないのかもしれない。いや、もしかしたら、夢の中でエフィーに語りかけてきた子供の事を言っているのだろうか。思考を巡らすが、自分でまさかと否定した。いくらなんでも、アジェルがエフィーの見た夢を知るはずない。
だが、子供とは一体何のことなのだろう。
不思議そうな視線を向けるエフィーに気付き、アジェルは軽く頭を振った。
「いないならいいんだ。気にしないで。……ここは、地下?」
「多分そうじゃなかな。アジェルはジュリアと一緒じゃなかったのか?」
「一緒だったよ。氷の伯爵と戦ってるうちに、リューサがジュリアを連れてったから、今は外にいると思う」
アジェルの言葉に、エフィーはほっと息を吐く。ジュリアもリューサも無事らしい。離れ離れになって間もないが、傍にいないのは酷く不安だ。今すぐにでも迎えに行きたいところであるが、アジェルにも聞きたい事がいくつかある。
エフィーは、己の手を不思議そうに見つめているアジェルに話しかけた。
「氷の伯爵って言うのは?」
「ここの城主。あいつの呪術で、みんな眠らされたみたいだ」
ラーフォスの言っていた噂の悪魔は、どうやら本当にいたらしい。
戦っていたという事は、服に付着していた血は、氷の伯爵の返り血だったのだろう。
しかし、あれほどまでに血を浴びるものだろうか。
アジェルの武器は刃の短い一対の片刃の剣だ。刃渡りが短い為、接近戦を強いられるのは当然だ。切り裂いたところより溢れる血が、全身を汚すのも仕方がない。けれど、アジェル自身に怪我はない。恐らく、それほど苦戦しなかったのだろう。それはつまり、相手を難なく仕留めたと予想できる。恐らく、剣の一突きで終わるくらいに。なのに、まるで何十もの命を奪ったかのような、おぞましいほどの血痕。一体、何があったのだろうか――。
「呪術が解けたって事は、アジェルが伯爵を?」
何気なく、聞いただけだった。
だが、アジェルは一瞬だけ、動きを止めた。
己の手を、ぼんやりと見つめるその意味も分からず、エフィーはアジェルの返事を待つ。
「そういう事じゃないでしょうかね。まあ、呪いも解けて一件落着ですし、そろそろここから出ませんか?」
アジェルが言葉を発する前に、ラーフォスが横から言葉を挟んだ。
「ああ、そうだね」
何気なく横槍を入れたラーフォスに同意し、エフィーはアジェルから視線を外した。
素早く立ち上がったラーフォスに続き、エフィーも冷たい氷の床から腰を上げる。
立ち上がる際に、足の感覚が消えている事に気付いた。冷たさのせいで、神経が麻痺してしまったのかもしれない。改めて、ここで永眠しないですんだ事に、心から感謝する。
「ジュリア達も心配してるかもしれないし。アジェルも、行こう」
疲れているのか、立ち上がろうとしないアジェルに手を差し出す。アジェルはエフィーを見上げてから、何も言わずに自力で立ち上がった。エフィーは折角の厚意を無視された形になったが、それを責める言葉を出せなかった。
彼が素っ気無いのはいつもの事だ。それについて意見したとしても、流されるだけ。エフィーもそれは今までの経験上熟知しているので、いちいち突っかかる真似はしない。ただ、小言の一つ二つぼやくだけだ。今も、ふざけてちょっと何かを言おうと思った。だが、開いた口は、言葉を忘れた。
アジェルが、いつもと違う様子のように感じた。
感情の起伏の薄いアジェルだけれど、最近は少しだけ分かってきていたつもりだ。不機嫌そうな表情をしていても、意外とそうでない時の方が多い。気分が悪ければ俯き加減で、機嫌の良い時は比較的涼しい顔をしている。疲れていると思われる時も、弱音を吐きたくないのか、それを態度に出さないよう努めているのがエフィーには分かった。
なのに、今の彼が浮かべる表情は、そのどれにも当てはまらなかった。
呆然としているような、心ここにあらず、といった感じだ。
普段からぼんやりしている事の多いアジェルだが、今の状態には違和感を拭えない。
理由が全く分からずに、エフィーは歩き出したエルフの後姿を目で追った。
「エフィーさん、あまり気にしないで下さい。時々、ぼんやりしちゃうところがあるだけですから」
厚意を跳ね除けられた事に傷ついていると取られたのか。ラーフォスはエフィーの肩を軽く叩いて、そう呟いた。励まそうとしてくれているのだろう。
エフィーはラーフォスの気遣いに笑顔で返し、一歩を踏み出した。
「うん。出口、探すのも大変そうだけど、早くジュリアたちに合流しよう」
「そうですね。散々な目に遭いましたし、ここからおさらばしちゃいましょうか」
隣に並んで歩き始めたラーフォスと共に、エフィーはアジェルの後を追った。
一瞬、酷く凍てついた風が頬を撫でる。風に刃があったならば、皮膚を切り裂いてしまいそうな、鋭い風だった。エフィーは風の通り過ぎた背後を振り返った。薄暗い氷の回廊には何もない。しかし、不穏な空気が流れたような、そんな気がした。
先ほどラーフォスの言った、血に染み付いた怨念という言葉が脳裏を過ぎった。
「どうかしましたか?」
歩みの遅れたエフィーに、ラーフォスは足を止めて声を掛けた。
「いや、なんでもない」
もやもやとする何かを振り払うように、エフィーはかぶりを振って再び歩き出した。
早く、この場所から出なければいけない。何故だろうか。言いようの無い不安が、止め処なく沸き起こった。