過去との決別


 耳を突き刺すような雑音がする。
 何かが崩れていく音。長い時をかけて形成されたものが、瞬く間に壊れていく。
 浮遊感と共に、意識を手放しかけていたエフィーは、はっと瞳を開いた。
 自分の意思に反して勝手に動いていた身体は、エフィーの思い通り動く。当た り前の事なのに、新鮮に感じるのは、先ほどまでの不思議な体験のせいか。一体、何だったというのだろう。思い出そうとしても、鈍い鈍痛が思考を苛み、それを阻んだ。
 視界は暗い。だが、吸い込む空気は澄んでいて、清々しくすらある。喉を開く のも億劫になるほどの冷気は無かった。知らないうちに移動したのだろうか。それよりも、何故意識を手放したのか。
 落ち着きを取り戻した途端、浮かび上がる数々の疑問。
 確かエフィーはジュリアとアジェルを追っていたはずだ。
 ラキアの地下迷宮を連想させる、果てしない回廊を早足に進んでいた。途中幾 重かに分かれた道に戸惑いつつ、水の流れる音を頼りに二人を追った。そこ までははっきりとした記憶がある。だが、その後は?
 目を覚ましたという事は、今まで眠っていたという証だ。
 意識を失ったのはいつの事だろう。穏やかな夢を見ていたのも束の間、夢の世界に雑念が混じった。どこかで聞いた声が、エフィーの意識に干渉をしてきた。それは夢の続きか、それとも、何かしらの力が働いたのだろうか。
 もしかしたら今もまだ、夢の中なのかもしれない。
 暗闇に包まれ、視覚情報の乏しい現況では何とも言えないが、ここは氷の 城の地下とは違う気がする。

「おはようございます」

 すぐ近くで、子供のような高い声が聞こえた。
 エフィーはゆっくりと身体を起こすと、声の聞こえた方へ顔を向ける。
 暗闇ばかりで何も映らないそこに、不自然な存在が浮かび上がっていた。
 闇だと感じたこの空間に、子供が立っている。暗くて見えないという先入観を打ち壊し、それはエフィーの瞳にしっかりと映る。光に照らされたわけではなかった。なのに、子供の浮かべる微笑も、淡い色を基調とした服も、はっきりと捉える事ができた。
 そこでエフィーは己の手を見た。暗闇に飲まれて塗り潰されているはずの手は、確かに形を、色を持っていた。闇の中で、光なくして何かが見えるはずない。
 ああ、まだ夢の中だ。
 本能的に察して、エフィーは再び子供へ向き合う。

「君は誰?」

 十歳前後だろうか。薄っすらと微笑を浮かべた、育ちの良さそうな優しい顔をしている。人間の貴族や聖職者が着るような、高そうな――もとい整った服の上に法衣を纏い、頭の上には巨大としか形容しがたい帽子をのせている。無邪気にエフィーを見据える瞳は、海の色とも空の色ともつかない、美しい青だった。全てを見透かすような、優しくも冷厳な輝きを放つ宝玉に似た瞳。子供には不自然な神秘性を持つ存在が、そこにいた。

「はじめまして。僕はナノと申します」

 巨大な帽子を手に取り、大きく腕を広げて頭を下げ、優雅なお辞儀を一つ。
 口元に緩やかな弧を描き、子供はエフィーに微笑みかけた。
 声の高さや、まだ成長しきっていない小柄な体躯を見ても、少年なのか少女なのか判別しかねる。肩より上で切りそろえられた翡翠色の髪も相まって、中性的な印象を受けた。誰かに似ている、ぼんやりと意識の片隅で思うが、それが誰なのかまで思い至らない。

「僕はエフィー。あの、これも夢なのか?」

 礼儀正しく名乗った相手に合わせ、自らも軽く礼をして名乗る。
 夢の中ならそんな事をする必要はないだろう。しかし、今が現実なのか夢なのか、曖昧だ。頼れる者もなく、ナノと名乗った子供に尋ねる。

「はい、肉体が眠りについている際、精神体が体験する幻覚を夢と呼ぶなら、ここは夢の中です。しかしここは貴方の中で生まれた幻覚世界ではなく、肉体と精神体の狭間に作り出された精神世界」

「え? 精神……?」

 滑舌の良い説明を聞いても、何を言っているのか分からない。
 エフィーはぽかんと口を開いたまま、子供をまじまじと見つめた。
 英才教育と言うもの受けたのだろうか、それとも生まれながらにできた頭脳を持つのだろうか。自分よりも幼げな子供が、自分の理解の範囲を超える発言をした事に、エフィーは驚いていた。子供の言葉の内容は、まったくもって理解できないのだが。

「ええ。簡単に言うと、貴方の肉体は眠っていますが、貴方の意識は物理的ではない場所にあるという事です」

「そうなんだ」

 簡単に要約されても、正直分からない。理解した風を装いつつ、エフィーは曖昧に答えておいた。

「あの、僕目を覚ましたいんだ。仲間を探しに行かないと」

「はい、勿論、責任を持って現実世界に帰して差し上げます。でも、その前に少しだけお時間をいただけないでしょうか? 貴方のお仲間なら全員無事ですから」

「ジュリアもアジェルも、助かったのか?」

 本当に、凍えるほど冷たい水路から、抜け出せたのだろうか。
 不安ばかりが積もり、確かめるように問いかける。子供は気分を害した様子もなく、優しく答えた。

「はい。お二人とも、命に別状はありません」

 子供はエフィーを安心させるように微笑んだ。耳に心地よい声でもう一度、大丈夫だと告げる。
 エフィーは塞き止めていた息をほっと吐いて、瞳を閉じた。
 もしかしたら、エフィーよりも先にリューサやラーフォスが助けに入ってくれたのかもしれない。むしろ自分も流され、完全な二次災害と化していたエフィーよりも、彼らの方が助けられる確率は高い。後はエフィーが合流すればいいだけだ。
 そう思うと、少しだけ心が緩んだ。
 瞳を開き、再び子供と向き合う。

「君は、さっきの夢と関係あるのかい?」

「はい。貴方が聞いたもの、見たもの、触れたもの、覚えておいででしょうか?」

 エフィーは先ほどの何とも言えない奇妙な体験を思い出そうとした。しかし、すべては曖昧にしか思い出せない。蒼い色をした宝玉と、女の声と、銀髪のエルフ。視覚で得た情報は薄っすらとだが思い出せる。だが、それらが何を意味するのかが全く思い出せない。普段日常的に見る夢も、ほとんど覚えていない。時にはっきりと覚えている事もあるが、それは酷く稀だ。
 エフィーは悩んだ末、首を横に振った。

「あんまり覚えてない」

「そうですか……。残念ですが、仕方ありませんね。ではそれは置いておいて、質問させて下さい。貴方は何のためにセレスティスを出てきたのですか?」

「僕が出た理由?」

 何故そんな事を聞くのだろう。
 一瞬、目の前の子供に警戒心を抱く。だが、ここは自分の見ている夢なのだと思い直し、エフィーは当初の目的を思い出す。

「僕は、父さんを探してるんだ」

「フェイダ・ガートレン?」

「うん。父さんは封印の森に行って帰ってこなかった。だから、森に行けば会えると思った。でも、アジェルは森にはいないって言ったんだ。アジェルが言うには、父さんは神界にいる、でも神界に行くためにはレイルの協力が必要だって。だから、僕はレイルを探すためにセレスティスを出たんだ」

「全ての始まりは、あの子ですか。もしも、アジェルが貴方に嘘を言っているとしたら、どうしますか?」

「嘘を?」

 考えた事もない。
 アジェルがエフィーを欺いて、得する事などないだろう。むしろ、新世界に来てから、迷惑のかけっぱなしだ。アジェルに何の利があって、エフィーを連れてきてくれたのかは分からない。しかし、出会って間もないが、彼が嘘を吐くような人物だとは思えなかった。それだけは断言できる。

「それはないよ。アジェルって、考えてそうで考えてない事のが多いし」

 本人の前ではとても言えないが、ここはエフィーの精神世界と言うものらしい。だから、少しくらいの本音は許されるだろう。恐らくアジェルがここにいたなら、間違いなく締め上げられるところなのだが。

「そうですか……。では質問を変えましょう。もしも貴方の大切な人と、この世界が天秤にかけられたなら、どうします?」

 優美な微笑みは消さないまま、子供は深い深い蒼の瞳をエフィ−に向ける。二択の、答えを促す。
 質問の意図が分からず、エフィーは首を捻る。
 大切な人と、世界が天秤にかけられる。そんな事が、あるのだろうか。
 大切な人と聞いて一番に思い浮かんだのは、ほとんどの時を共に過ごしてきたジュリアと、義理の父たるじいちゃんで、二の次に、アジェルが思い浮かんだ。ジュリアとアジェル。二人は大事な仲間で、友達であり、家族だ。だが、世界と天秤にかけられたら、果たしてエフィーは選ぶ事ができるだろうか。
 考えた事も無い。世界は平和で、神話のように滅びの兆しなどない。明日は巡り、未来は当然のように存在すると信じて疑わない。争いの種となり、滅びへの導き手となった宝玉も、今や失われた。世界を脅かす存在は、魔族くらいしか思い当たらない。だが、たとえ魔族でも、世界を滅ぼすほどの力はないだろう。
 けれど、もしも世界と大切な者が天秤にかけられる状況があるのだとしたら。
 エフィーには、答えを出せない。そんな日は来ないと、確信にも似た希望があった。

「選べない。世界がなくなったら、僕も含めてたくさんの人が困る。でも、大切な人がいなくなるのは、きっと耐えられない」

 優柔不断かもしれない。でも、一つを選ぶ事はできなかった。
 世界を失うのは恐くて、けれど大事な人を失うのは想像もできないほど心が痛む。
 俯くエフィーを静かに見つめ、子供は再び唇を開いた。

「神話の結末を知っていますか?」

「蒼き宝玉が、世界を滅ぼしたっていう?」

 蒼き宝玉を巡る、人と魔と神の争い。全ての種族を巻き込んで、気の遠くなるほどの長い年月、争い続けた悲しい時代の物語。その終焉は、あまりに悲惨なものだ。争いの元凶となった宝玉の力によって、大地は滅び、人は絶望の淵へ落とされ、魔族は闇に封じられた。同時に、多大な犠牲を払った神族も、地上界から姿を消したという。

「ええ。あの時、一人の人が決断を迫られた。大切な者を守るか、それとも世界を守るか。戦争を終わらせたその人は、答えを出しました」

 神話の終焉は、世界の崩壊。
 ああ、その人は大切な人を選んだのだ。
 エフィーには出せない答えを、その人は出している。世界か、己の大切なものか。どちらを失っても、悲しみは残る。罪悪感や絶望があるだろう。選べるならば、別の選択肢が欲しい。誰も犠牲にせず、何も失われない選択肢を。

「僕は、どっちも選ばない。どっちも救われる道を、絶対に見つける」

 もしもそんな状況に対面しなければいけない時は、最良の答えが出せるように。
 誰も犠牲となってはいけない。犠牲の上に成り立つ生など、悲しすぎる。
 願わくば、悲しみを終わらせる道を――。

「じゃあ、見つけて下さい。何もかもがうまくいく道を」

 子供は右手をゆっくりと、大きく広げるようにして胸の前へと持っていく。同時に腰を屈め、方膝をついて頭を垂れた。座り込むエフィーと同じ高さで視線を結ぶと、零れんばかりの笑みを浮かべた。

「僕は貴方を信じます。貴方の語る正義を叶えるために、微力ながら力をお貸しします。だから、早く僕の世界へ来て下さい。貴方の為にも、貴方のお父上の為にも」

「僕の父さんの為?」

 引っかかる言葉に、エフィーは不安を覚えた。
 大切な人とは、ジュリア達の事を示していたのではないのだろうか。

「はい。貴方のお父上は神界にいます。それについて、あの子の言葉に嘘はありません。だから、一日でも早く来てくださいね。お待ちしております」

「君の世界は、神界なのか? ナノ、どうすれば神界に行ける!?」

「古代神の御子と紅き神の使者、その二人が、貴方を神界へ導く力を持っているでしょう。どちらを選ぶも貴方次第です。……では、御機嫌よう。次は現実でお会いできる事を楽しみにしてます」

 ナノは微笑を消さないまま、深い蒼の瞳で真っ直ぐにエフィーを見つめる。
 何かを告げようと開かれた唇は、弧を描いたまま閉じられた。
 エフィーは意識を取り戻した時と同じ浮遊感を感じ、慌ててナノに手を伸ばした。

「待って!」

 しかし、エフィーの手は子供の身体を透けて、何も掴めずに空気をかく。
 このような経験を前にもしたような気がした。聞きたい事がたくさんあるのに、答えを得られぬまま現実へと送り返される。どこかで聞いた子供の声。父の存在と神話を語るその声を、エフィーは夢の世界で聞いた。もどかしい既視感を抱えたまま、エフィーの意識は再び別の場所へと移り行く。
 闇を引き裂くように全身でもがくが、意識は少しずつ薄れ、視界にあったナノの姿は遠くなる。
 どうかもう一言、聞かせて欲しい。
 ――父は、無事なのですか?
 答えのない問いは、意識と共に混沌の闇へ消えた。






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