過去との決別


 腕が抜ける。
 不謹慎にもそう思ってしまうほど、ジュリアは力強く手を引っ張られ続けた。リューサは一度も振り返らない。城に残されたアジェルの存在など、忘れてしまっているのだろうか。
 それは無いだろう。
 彼は「嬢ちゃんはこっち」と言ってジュリアを連れ出した。もしも彼がもう一人の存在に気づいていないなら、わざわざジュリアを特定する言葉を使わない。
 ジュリアは何度も背後にある氷の門を振り返り、アジェルのが追ってこないか確かめる。しかし、背後からアジェルが出てくる気配はなかった。気付けば、門をはるかに抜けた城の外に辿り着いていた。
 寒さに凍えていたのが嘘のように、ジュリアの身体は温まっていた。背が高く、自分よりも足のリーチが長いリューサは、当然走るのも速い。普段は飄々として、日常の動作などもアジェルに比べると亀並みの彼の意外な一面を見た気がした。
 何度も雪に足をとられながら、それでも転ぶ事だけは免れた。息苦しさに悲鳴を上げる肺を、大きく吸い込んだ空気で宥める。ジュリアはもう一度、背後の城からアジェルが出てこないか、不安げに見やった。氷の城は凛然とそこにあり、アジェルの姿は何処にもない。ジュリアは、アジェルが逃げないと分かっていた。
 逃げたところで現状は変わらない。
 エフィー達を人質にとられている今、手ぶらで逃げて良いはずない。
 なのに、一人危険な場所に置いてきてしまった罪悪感が、ジュリアの胸に黒い染みを作る。アジェルが優勢であったものの、相手は上級魔族だ。決して侮れるものではない。魔術を自在に操るネージュに、魔術を扱えないアジェルでは、あまりにも分が悪い。加勢したいのは山々だが、ジュリアが戻ったところで足手まといになるのは明らかだ。
 待つ以外に何もできない自分に苛立ちを感じ、ジュリアは口の中で悪態をついた。

「落ち着けって」

 背後から、息を整えたリューサが声をかける。

「ここで騒いでも、何にもなんねぇよ」

 彼にしては珍しく、冷静な言葉だった。
 リューサの言う通りだ。ここでジュリアが叫ぼうと祈ろうと、エフィーが解放されるわけじゃない。アジェルが危険を回避できるわけでもない。ただ冷え冷えとした山に喧騒を響かせるだけだ。
 今のジュリアは役に立たない。頭の中で、比較的冷静な部分がそう彼女に教えている。
 だが、リューサは?
 見たところ目立った怪我も無い彼は、加勢しに行けるのではないか。無意識のうちに城からリューサへ、目を移す。
 考えている事が顔に出ていたのだろうか。リューサはジュリアから視線を外し、俯いた。

「リューサ、城にまだアジェル達がいるの」

「知ってる。多分、エフィーもラーフォスも地下だ」

 多分。その言葉を聞き逃さなかったジュリアは、探るようにリューサを見つめる。

「一緒にいたんじゃないの?」

 アジェルと共に水路に流されたジュリアはともかく、リューサやエフィー達は共に行動していたのではないのか。あの状況下、手分けしてばらばらに、というのはありえないだろう。だが、彼は今ひとりだ。リューサが目を覚ましたなら、もしかしたらエフィーやラーフォスもどこかにいるのではないだろうか。期待を込めてリューサの顔を見つめる。しかし、リューサの表情はどこか沈んでいた。

「嬢ちゃん達が流された後、エフィーがすぐに後を追って水路に落ちた」

 リューサの言葉にジュリアは驚きを隠せず、再び凍れる城に視線を向ける。
 ジュリアは己の持つ能力を用いて、水流に逆らいながら通路に乗り上げる事ができた。人を抱えての苦しい状況であったものの、害成すものが水という事が幸した。水はジュリアの力の糧となる。だから、こうしてジュリアは無事でいる。しかし、何の力も無い人間だった場合、どうなるのだろうか。
 嫌な予想がどろどろと沸き、思考を蝕む。
 普通の人間が、魔族の操る水の罠に打ち勝てるはずが無い。
 心臓を凍らせるほどの冷たさと、絡み付き動きを奪う水の流れ。その恐ろしさは、実害に遭ったジュリアがよく知っている。
 何故後を追ったのだろうか。
 本人がいたならわき目も振らず怒鳴り散らすところだ。だが、説教は彼が無事でなければできない。
 動揺を隠す事もできないジュリアに、リューサは申し訳無さそうに頭を垂れた。

「オレらも追いかけようと思ったんだけど、全員水路にドブンじゃまずいだろ? 通路を歩けば合流できるって思ったんだが……」

 言葉を濁すリューサに、ジュリアは一歩近寄る。
 人の事を問い詰められる立場ではない。しかし、エフィーが無事なのかどうか、確かめずにはいられなかった。
 リューサは気まずそうに漆黒の髪に巻きついた布をいじり、無言のまま迫るジュリアから視線を逸らす。

「エフィーは?」

「……見つからんかった。記憶が曖昧でなんとも言えんけど、オレ眠ってたみたいなんだ」

 リューサは静まり返った城を見やる。
 リューサ自身、己の身に何が起きたのか、よく分かっていないのだろう。
 ジュリアの知らないうちに、残りの三人もばらばらになってしまったらしい。落胆を隠し切れず、少女は肩を落とす。リューサを責めているわけではない。最初の過失は、ジュリアだ。この城に入った時に、危険を察知するべきだった。他の誰が無理でも、ジュリアにはそれができたはずなのに。微かだが確かにあった魔界の瘴気、それを知っているのはジュリアだけなのだから。

「ラーフォスは……一緒だったんでしょう?」

 ここにいないもう一人は、どうなのだろうか。ラーフォスはエフィーと違い魔術を嗜んでいる。状況に応じて冷静な判断のできる自称吟遊詩人ならば、多少は抵抗できたのではないだろうか。僅かな希望を持つが、それを無情に打ち砕くように、リューサは首を振った。

「目、覚ました時、誰もいなかったんだ。地下の部屋みたいな空洞で、一人だったかんな。多分ラーフォスもどっかにいると思ったけど、先にあんさんらをどうにかしないとって思ったんよ」

 だから彼はジュリアを助ける事ができた。
 ジュリアも、助けてくれた事はとても感謝している。礼を言い忘れていたが、言葉では表現できないくらい恩を感じている。
 だが、幼馴染の頼りない少年の事は、自分とは別だ。
 ジュリア一人が助かっても仕方が無い。助かるなら、二人一緒でなければいけない。
 無意識だろうが、ジュリアの拳は力を入れすぎて白くなっていた。
 今にも城へ走り出しそうなジュリアを、リューサは肩に手を置いて留めるしかできなかった。リューサが手を放せば、ジュリアはそのまま城へ戻ってしまうだろう。もしくは、リューサが城へ行ったとしても、彼女はただ待つを良しとはしない。少しの時差を挟んで、彼女は間違いなく戻ってきてしまう。
 リューサにも、ジュリアが衰弱しているのは一目で分かった。恐らく魔力の使い過ぎだろう。酷く青ざめた顔色に、全身に走る裂傷、血の滲んだ衣服。剥き出しの素足は雪の冷たさに血の気を失い、大きく裂けた傷口から覗く赤が目を背けたくなるほど痛々しい。とてもではないが、戦える状態ではない。ジュリアの身を案じ、リューサは壁となるように彼女の肩を抑えた。

「アジェル……」

 ジュリアは唯一城に留まり、今も危険と隣り合わせであろう少年の名を呟いた。お世辞にも肉体的に強靭とは言えないアジェルが、氷の伯爵の猛攻を防ぐ事ができるのだろうか。底知れぬ不安とは裏腹に、微かな期待も存在した。もしかしたら、アジェルならば、魔族を撃退できるかもしれない。彼の力量がどれほどのものなのか、ジュリアは知らない。だが、ネージュの攻撃を軽々といなし、脅迫じみた要求を持ちかけたところを見ると、自信があったのかもしれない。彼なら大丈夫。祈りに似た願いを込めて、氷の城を見つめる。
 その時だった。
 硝子が砕ける高い音が、静寂を打ち壊した。
 息を呑むと同時に、二人は顔を上げる。
 音の響いた、城の高い位置に飾られた豪奢な薔薇窓が、粉々にひび割れていた。
 城の中で激しい攻防が繰り広げられているのだろうか。一番にそうだと思い込んだ二人だったが、次の瞬間、考えが甘いという事を知った。
 亀裂は意志をもった生き物のように氷を引き裂き、枝分かれしながら城に無残な傷跡を残す。装飾細やかな、それだけで芸術作品となりそうな柱にも、不自然な皹が腕を伸ばす。完璧に美しく存在していた氷城は、瞬く間に輝きを失っていく。澄んだ水晶を連想させた硝子の天井は、灰色の煙に覆われたかのようだ。もうこれ以上裂ける事は出来ないというところで、時を切り抜いたように、静寂が舞い戻った。
 気が気でないまま見守るジュリアの瞳に、最悪の事態が映った。
 嵐の前の静けさを越えた城は、水風船が破裂するように、潔く砕けた。
 亀裂が走り、脆くなった壁は轟音を上げて崩壊の序曲を奏でる。
 きらきらとした氷の欠片が宙を舞う。真っ先に崩れ落ちたのは、城の中へ入る唯一の入り口だった。

「何で!? 城が……」

 何の前触れも無く、幾重にも亀裂の入った氷城。耳障りな破壊音、氷と硝子の砕ける悲鳴じみたハーモニー。
 ジュリアは訳が分からず、リューサの手を払い除けて、城へと駆け出していた。

「嬢ちゃん、危ねぇって!」

 反応だけはやたらと素早い少女の後を追う。すぐに追いつき、ジュリアの足を止めようと腕を引っ張るが、リューサの手は力いっぱい振り払われた。
 切羽詰ったジュリアの様子に、リューサの伸ばした手は行き所無く彷徨う。ここまで気性の激しい少女だっただろうか。確かに気は強い方だが、自ら危険に飛び込んで行くほど無謀ではない。危険を感じ取れば無茶はせず、どちらかと言えば止める役を買う方だ。過激な一面の裏に、物事を冷静に考えている部分がある。リューサの抱くジュリアの印象とはそんな感じであった。
 しかし、それは翼持つ少年が傍らにいた時の話だ。
 落ち着きを無くし、現状を考えない危うさ。仲間を想うのは良い事だが、自重する事も大切だ。
 ジュリアを止めなければいけない。崩壊を始めた城の近くは、鋭利な硝子と氷の欠片に覆われている。素足で雪を踏むのはまだしも、硝子を踏んでしまっては大変だ。
 仕方が無く、リューサは手に持っていた弓を肩にかける。両の腕が自由になったところで、リューサの片腕からすり抜けたジュリアに走り寄る。全力疾走を続けるジュリアの胴に腕を回し、小脇に抱えるように持ち上げた。

「っちょ、何するのよ!」

「落ち着けっての。今行ったら巻き込まれるぜ?」

 じたばたと抵抗を始めたジュリアを、リューサは軽くあしらいながら動きを封じる。

「アジェルが中にいるのよ!? 閉じ込められちゃうかもしれない!」

「今オレらが行っても、みんなで仲良くぺちゃんこだ」

「じゃあただ見てるって言うの?」

 感情を抑えきれなくなったジュリアが、一際高い声で叫んだ。
 リューサが視線をジュリアに向けると、そこには今にも泣き出しそうな少女がいた。心身ともに疲れ果てているはずの彼女は、強い光を瞳に宿している。それは悲しみではなく、怒りだ。リューサに向けられた怒りではないだろう。恐らくそれは、今この状況に矛先の定められたもの。手出しできない事が、我慢ならない。身体を突き動かす衝動を抑えられないほどに。
 大事な人を失うかもしれない恐怖。己の手の届かない不安。
 ジュリアの気持ちが、リューサにはよく分かる。
 だが、それでもリューサはジュリアを解放しない。彼女まで危険に晒してはいけないと、使命感に似た思いが、ジュリアを押し留める壁となる。

「アジェルなら、きっと大丈夫だ」

「何でそんな事わかるのよ。アジェルは魔術使えないって言ってたのよ。逃げ場の無いところで、どうやって身を守るのよ」

 込み上げる不安を吐き出すように、ジュリアは早口にまくしたてた。
 ジュリアの言葉に、リューサは首を捻る。
 前に、ラキアの地下でも同じ事を聞いた。アジェルは魔術を扱えないと。
 精霊の眷族であるエルフ族が、魔術を使えないなどと聞いた事が無い。多少の違いはあるけれど、エルフもダークエルフも、同じ種族だ。リューサの集落に、魔術を扱えないものなどいない。エルフは物理的な肉体を得た精霊と言っても過言ではない。魔力の結晶のような存在に、人の姿を併せ持つ。精霊の力を、全く受け継がないはずは無いのだ。ハーフエルフのように、人間の血が混ざりあった故に、ほとんどの魔力を失う場合はある。しかし、彼は間違いなく純血種のエルフだ。少なくとも、リューサはそうだと信じて疑わない。同族のみが持つ判別能力とでもいうのだろうか。直感で、彼が混じり気の無いエルフだと分かった。それが、魔力を持たない?
 不思議で済まされる事ではない。異質だ。リューサのように、精霊直々にエルフの力を封じられたならともかく。
 ジュリアは考え込んでいるリューサを余所に、より激しく暴れだした。
 勢い余って振り上げられた腕がリューサの顎に直撃する。危うく舌を噛む所だった。
 彼女が仲間を思う気持ちには感服する。だが、少し落ち着いてくれなければ、話もできない。
 リューサとて、城が崩れたとなれば、中に置き去りの三人の安否が気になる。しかし、ジュリアほど混乱に陥る事はない。それは、彼らがまだ無事だと確信しているからだ。
 城が崩壊した事には驚いたが、それはリューサ達にとって悪い状況ではない。根城を破壊せねばならないほど、氷の伯爵は追い詰められたのだろう。もしかしたら、アジェルが伯爵を討ち取ったのかもしれない。中で瓦礫の下敷きになってしまっては大変だが、まだ死んでいない。
 大地から、人の気配が三つ、確かに感じられる。
 薄い呼吸を繰り返す者が二人、呼吸荒く、どこか頼りない足取りで歩くものが一人。氷の伯爵からは感じられなかった命の鼓動が、大地を通してリューサに伝わる。
 リューサは精霊の力を借りる事ができない。許されざる禁忌を犯した罰として、彼は精霊の加護を失った。故に、リューサは魔術を使えない。ラキアの地下では、つい見栄を張ってエフィーに嘘を言ってしまったのだが。
 だが、かつては大地の精霊王の恩寵を頂いていた身。精霊の加護は失われても、深く通じ合った大地との縁は消えなかった。今も、魔物の瘴気に当てられた大地の悲鳴が聞こえる。そして、その大地に包まれた命を、リューサは感じ取る事ができた。
 大丈夫。
 ジュリアに告げた言葉は気休めではない。
 崩壊が止んだ時を見計らって、救出に向かえば良い。
 それまでジュリアを押し留められるかが、リューサの最大の難問だった。






back home next