過去との決別


 卑怯だ、なんて二対一で戦いを挑んだジュリアが言えるはずも無い。
 しかし、心の中で毒づかずにははいられなかった。今度こど逃げ場が無い。裸足で滑るように絨毯を駆け抜けるが、空を切り裂いて追尾してくるつららは止まる事を知らない。アジェルのようにかわせる事が出来れば良いが、残念な事にジュリアはあまり機敏ではない。

「ジュリア!」

 アジェルが一際声を上げて叫ぶ。
 心配してくれているのだろうか。こんな時に悠長だと思いながらもジュリアは内心喜んだ。だが、心の余裕とは裏腹に、現状はより窮地に陥る。もう逃げられない。確信して諦め掛けた時、ジュリアの前方から目にも止まらぬ速さで何かが飛び去った。

「伏せろっ!」

 聞き覚えのある声が氷の壁に反響して響いた。
 ジュリアは状況が飲み込めず、言葉に従い飛び込むように絨毯へと倒れ込む。真紅の絨毯はひんやりとしていたが、以外にも柔らかく、緩くジュリアを受け止めた。
 刹那、ジュリアの背後で何かが爆発した。

「っきゃ!」

 豪快な爆発音が轟きわたる。耳を閉ざしたくなる音と共に、冷え冷えとした空気に強い色彩が広がった。眩いほどの紅の閃光が空間に熱を放つ。爆風により視界が煙で覆われ、瞳以外で今の状況を把握するための情報を探る。聞こえたのは爆音。それに、火薬と思わしき独特の臭いを嗅ぎ取る。ジュリアはつららに向けて飛んでいったものが、爆弾の類のものだと判断した。
 風に混じって透明な硝子に似た氷の欠片が、倒れたジュリアや絨毯にばらばらと降り注いだ。視界が回復しないうちに、氷のつぶては全身を打ち付ける。いつ降るかわからない鋭いつららを恐れ、ジュリアは身を固くした。何が起こっているのか、理解できない。今の爆発はなんだろう? アジェルではない。彼はジュリアの後ろにいたし、何かが飛んできたのは前方――つまり城門がある場所だ。背後より迫る氷の刃に意識を集中させていたために、前に注意を払ってはいなかった。脳内分析をはじめるが、少ない情報で答えを導き出せるはずも無く、余計に頭が混乱する。
 そんなジュリアの腕を、力強い手が引いた。

「嬢ちゃんはこっち」

「えっ!? リューサ……?」

 煙に隠れて相手の姿を瞳に映す事ができない。しかし、どこか訛りのある言葉遣いは、ジュリアの知る中で一人だけだ。
 ジュリアは驚きに瞳を開く。彼とは地下ではぐれた。ジュリアの知らぬ場所で恐らく、伯爵の呪いを受けたはずだ。自らの意思で目覚めない限り、永遠に眠る呪いに掛かったのではなかったのか。まさか突然助けに現れるなどと、予想も期待もしていなかった。

「ちょいきついかもしれんけど、ほれ、立って立って。逃げるぜ!」

 有無を言わさぬまま、ジュリアを強制的に引っ張り上げたリューサは、ジュリアの目指していた城門の方へと走り出す。
 第三者の介入に気付いたネージュは、眉間に皺を寄せ、再び氷の刃を操る。
 しかし、アジェルがそれを見逃すはずも無く、ネージュへと三本のナイフを神業のような素早さで放った。白銀に輝く刃は狙い違わず、ネージュの腕を貫く。白い賢者の姿をした魔物は痛みに小さく呻き、攻撃の手を緩めた。
 逃げる二人からアジェルへと視線を戻す。
 無表情を顔に貼り付けたエルフは、氷と見紛う冷ややかな瞳でネージュを見ていた。

「あんたの夢も、案外もろいもんだね」

 ジュリアを引き連れて走るリューサを一瞥し、アジェルは呟いた。
 皮肉の込められた言葉に苛立ちを覚えながらも、ネージュは冷静に言葉を返す。

「何故、貴方達は夢から目覚める……」

 己の培ってきた眠りの呪術が否定され、ネージュは悔しさに拳を握る。
 自ら極上の夢を捨てるというのか。悲しい過去を断ち切る事が出来るというのか。心弱き人が、魔族の呪いを打ち破る事など出来ないはずだ。今まで水魔の王ただ一人しか跳ね除ける事の出来なかった術が、人の意思に負けるはずない。
 人はどんな時も夢を見る。空想の夢、過去の夢、未来の夢、それらを追い求めるのが人の性。
 夢を望む限り目覚めは訪れない。それがネージュの呪い。人の心の隙間に漬け込み、死へと導くもの。どんなに屈強な肉体を持った戦士も、眠りの呪術の前に脆く崩れ去った。強い魔力を持つ魔術師も、精霊の眷属のエルフも、神に仕える尼僧すら、皆目覚めなかった。ある者は己の信じる夢に安らぎを覚え、またある者は己の心の闇に飲み込まれ、目覚める事無く夢に囚われた。抵抗すらしないまま、命を散らせた。
 なのに何故――。

「どんな夢も、終わる時が来る。それが遅いか早いか、その違いだよ」

「それだけで私の術は破られたとでも言うのか?」

「さあ。理由なんて知らない」

 目覚めなければいけないと、そう思っただけだ。
 眠るのは、全てを終えてから。でなければ、今生きている意味が無い。
 少なくともアジェルは、眠っている暇など無いのだ。ここで死ぬ定めだというのなら、何故三年前、一度死んだ自分が生きているのか。失った生、新たに与えられた命。己が生きる上で犠牲とした人々のためにも、死ぬわけにはいかない。

「どうする? まだ戦う?」

 警戒を解かず、一対の刃の切っ先をネージュに向けたまま、アジェルは最後の問いを投げる。
 戦いを長引かせたところで、ネージュが不利な事は変わらない。
 氷の伯爵の刃が突き刺さったままの腕からは、真紅の血が溢れていた。白蛇の姿の時に受けた傷も、ナイフこそ抜けたものの、赤く滲む液体が白い肌を伝って氷の城に一滴二滴と小さな水溜りを作り出していた。
 ただでさえ青白かったネージュは、今や死人のような顔色だ。老人の姿へと変化したのも相まって、衰弱しているのが目に見えて分かる。

「貴方の仲間を解放するなら、私を見逃すとでも?」

「今後人を惑わさないなら、見逃してもいい」

 これをジュリアが聞いたなら、激怒するに違いない。
 けれど、アジェルはいたずらに人を殺めるつもりは無い。自分でも、手が出るのが早く血の気が多い方だとは思うが、命まで奪おうとは思わない。どんな命にも等しく重みがあり、それを軽んじるなど愚かな事。争いは新たな争いを呼ぶ。恨みは連鎖し、死は巡る。争いに終止符を打つのは、滅ぼす事でも死を与える事でもない。本当に終わらせたいのならば、どちらかが引かねばならない。勝敗を決する前に。

「甘い事を……。貴方には魔族を憎む理由があるはずだ。貴方の一族は魔族によって虐殺されたのではないのか」

「人の夢を覗くなんて、悪趣味だね。……あんたの言うとおり、魔族は好かないよ。でも、仲間を殺したのはあんたじゃない」

 だから、ネージュを憎む理由などない。

「終わらせよう」

 凍えるこの地よりも冷たく、アジェルは言い放つ。
 ジュリアを傷つけた事は許しがたいが、その制裁はもう十分だろう。老いた魔族にこれ以上鞭打つような真似をしても、目覚めが悪いだけだ。
 しかし、ネージュは突然肩を震わせて笑い声を零した。背を丸め、腹を押さえるように俯いているため表情までは分からない。だが、地の底から沸き起こるような、低く不気味な声が城に反響して氷りついた空気を震わせた。
 アジェルは表情を険しくし、ネージュの奇行に構える。
 不気味な笑い声は、ネージュが顔を上げると同時に止まった。

「ありがたいお言葉だ。しかし、人間の言葉ではこう言うのかな、『反吐が出る』」

 嘲りの笑みで口元を歪ませたネージュは、震える腕を高々と掲げた。
 多量の出血により衰弱しているにも関わらず、再び攻撃を仕掛けようと魔力を放つ。

「情けをかけられるいわれはない! 終わらせたくば、死を――」

 ネージュの声に反応して、氷の城に亀裂が走る。
 初めは些細なひびが、次第に意志を持った蛇のように不規則に氷を裂く。
 ネージュが何をしようとしているのか気付いたアジェルは、咄嗟にネージュの元へ駆け出す。

「共に果てようぞ」

 渾身の力を込めて、ネージュは掲げた腕を振り下ろした。
 途端、氷の城が崩壊を始めた。
 亀裂が走り、脆くなった天井の氷が次々と重力に従い、床へ絨毯へ落下する。続いて巨大な氷塊が雨あられと降り注ぎ、ネージュへの進路を塞いだ。
 アジェルは背後を振り返った。
 リューサとジュリアが抜けていった城門はすでに半壊しており、退路は無い。アジェルが逃げないようにと、先に壊したのだろう。用意周到な事だ。そんな事をしなくても、こうなった以上逃げたりなどしない。

「エフィー達も巻き込むつもりか」

 地下で眠らされているであろう二人の事が気掛かりだ。
 崩壊を止めさせなければいけない。
 でなければ、エフィーやラーフォスを含め、氷の伯爵と心中する羽目になる。そんなのは御免だ。
 ネージュに辿り着くための道を見つけたアジェルは、手の中の短剣を強く握り締めた。
 ネージュは動かなかった。
 もう動くほどの力も残っていないのだろうか。
 だらりと下げられた腕。生気の無い肌、暗い瞳。なのに、口元の歪みだけは変わらず、嘲笑を浮かべる。
 アジェルは覚悟を決めて、刃を突き出した。
 白き氷の伯爵の胸を、白銀の刃は無慈悲に貫く。鋭利な刃物は肉に沈み、肋骨の隙間を抜けて心臓を目指す。ずぶりと生々しい音が、エルフの尖った耳に届いた。不愉快な音と濃厚な鉄の臭いに嫌悪感を拭えず、アジェルは瞳を細める。だが力は抜かず、最奥まで刃を進めた。暗き生を、彼の望む安楽へと導くために。刃と肉の隙間から溢れた赤い飛沫が、アジェルの頬に飛んだ。夢の中の光景が一瞬浮かび、沸き起こる苦い感情に強く唇を噛んだ。
 命を奪う感触。
 己の手が赤く染まる。
(気持ちが悪い)
 容赦なく短剣を突き刺しながらも、深い自己嫌悪を覚える。
 アジェルは傷つける事に対して罪悪感を持つ事はほとんどない。防衛のための反撃は正等だ。故に、相手がどんなに苦しんだとしても、知った事ではない。なのに、命を奪う時に感じるこの感覚はなんだろう。
 言いがたいもどかしさ。逃げ出したいような焦燥に追われる。
 ――命を奪うのは、これが初めてと言うわけではないのに。

「……不可解か?」

 耳元で、ネージュが血を吐き出しながら囁いた。
 同時に、右肩に鋭い痛みを感じた。視線だけ己の肩に向けると、ネージュの腕から、赤黒い色の細いものが伸びている。恐らくネージュが己の血液を凍結させて作った刃だろう。それはアジェルの肩を深々と突き刺していた。激痛のあまり小さな呻き声を零す。ネージュの心臓を貫いた刃を抜き、蹴るように突き飛ばし素早く身を引いた。
 支えを失ったネージュは、そのまま後ろへと倒れた。

「……憐れな。心持たぬ神の傀儡でありながら、人と同じ感情を持つか」

 肩を抑え一歩後退したエルフへと、意味深な言葉を呟く。
 アジェルは淡水の瞳を氷らせて、虫の息の伯爵を見下ろした。

「覚えておくが良い。……貴方の存在は、全てを、……死に引きずる。……半端な……か……の子」

 一言を紡ぐにつれて薄くなる呼吸。
 聞き取るのも困難な声は、しかしアジェルの耳にしっかりと届く。
 氷の伯爵は、死の淵に立つとは思えぬほど傲慢な微笑を浮かべた。嘲笑うように、呪うように、深い憎悪に染まった瞳でアジェルを映す。
 その視線を、アジェルは微動だにせず、冷ややかに受け止めた。

「肝に銘じるよ。悪趣味な氷の伯爵」

 すぐそばで、一抱え以上もあるであろう氷塊が重々しい音を立てて床に落ちた。城の柱は一本、また一本と崩れる城の重みを支えられず、粉々に砕けて散っていく。
 その様子を見つめながら、ネージュは何がおかしいのか忍び笑いを零した。
 アジェルは痛む肩から手を離し、倒れたネージュへと近寄る。

「偽りの命よ、呪われるがいい」

 低く大地を舐めるような声で、ネージュは吐き出す。
 崩れ行く氷の世界。夢の、終わり。永久の眠り。喪われるもの、与えられる望み続けた安楽の夢。様々な思いを胸に、伯爵はただ笑った。目前の、古代神よって生み出された存在を見つめながら。遠い時代より憎み続けていた神の創り出した愚かなもの。哀れみと嘲りを込めて、呪いを捧ぐ。
 アジェルの表情より一切の感情が抜け落ちた。
 余計なものを覗き見た悪魔。
 誰にも知れてはいけない、古代神の真意。それを見透かしてしまった者。
(消さなければいけない)
 記憶の片隅で、古代神の言葉が耳に蘇る。
 躊躇ってはいけない。慈悲を与えてはいけない。
 赤く染まった短剣を、高々と振り上げた。






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