過去との決別


 さんざん苦行を強いられてきた相手だからこそ、ジュリアは相手がそれは氷のように冷たく、忌まわしいほど優美な姿をしているのだと思っていた。ジュリアの記憶の中にある上級魔族は、魔物と蔑まれるにはあまりに美しい一族だった。人よりも神秘的なその姿と、内に深い憎悪を併せ持つ彼らは、そのつりあわない姿と気質ゆえに、より不気味に、悪魔めいて見えるのだろう。
 魔族が生み出した人の形を持たぬ魔物は、醜く恐ろしいものだ。この世のものとは思えぬ歪んだ姿をしている。けれど魔族本来の姿は決して、醜くも恐ろしくもない。人と同じ、けれど人よりも優れた容姿を持つ。だがそこに隠れているのは、この世で最も醜い心と残虐さだ。心の醜さが本来の姿を汚している。皆どこか狂気の色を滲ませた、不気味な面をしているのだ。
 ジュリアは上級魔族とは皆、そうあるものだと思っていた。
 今この瞬間、玉座に佇むものを見るまでは。

「……あなたが、氷の伯爵?」

「いかにも、わたしがこの城のネージュ」

 ジュリアが声を掛けた先にいたのは、巨大な白い生き物だった。
 白銀に輝く鱗と、雄々しくも秀麗な蒼いたてがみを持つ、表現するならば大蛇に似た魔物。大きく裂けた口からは鋭い牙が覗き、その合間に覗く、二つに枝分かれした赤く細い舌。穢れなく輝く胴は長いとぐろを巻き、尾先の方には刺々しい茨に似た無数の角が覗いている。背を伸ばしきれば高い天井にすら届くであろう、その巨体。見上げた先で、鮮やかな金色の瞳が、ジュリアとアジェルを見つめていた。
 ジュリアは封印の森で襲ってきた、二匹の銀狼を思い出す。
 優美な外見は聖なる獣と見えなくもないのに、恐ろしい殺傷能力と残酷さを持ち合わせた森の守護者。今この玉座に長い胴体を落ち着かせた大蛇は、銀狼と同じ雰囲気を纏っている。研ぎ澄まされた冷酷さと、人に無い美しさ。空の王者たる竜族と見紛うその姿。ジュリアの知る魔族とは違う生き物だった。
 ジュリアは己の知る水の一族と、少しばかり掛け離れたその姿をまじまじと見つめた。アジェルがジュリアの脇をすり抜け、前へ踏み出した事にも気付かぬほどに。

「自己紹介なんてどうでもいい。この城に入った三人を今すぐに解放しろ」

 女性にしては低く、男性にしては澄んだ声が高々と響く。
 アジェルは両腕に一対の剣を持っていた。エフィーの持つ剣よりも大分小ぶりな銀の刃の短剣だ。しっかりと柄を握るアジェルは、いつでも斬りかかれるようにと鋭く構えている。
 臨戦態勢のアジェルに気付き、ジュリアは姿勢を正す。アジェルに悟られないよう小さく深呼吸をして、落ち着かない心臓を宥めた。今の自分に戦う力は残っていない。せめて足手まといにはならぬよう、自分の身は自分で守ろう。寒さのせいか、恐怖を感じているのか、微かに震える拳を弱気な心ごと握った。

「残念だが、それは出来ぬ相談だ」

「出来ない、じゃないわ。エフィー達を返して」

「返さないと言ったら?」

 白い蛇は黄金の瞳を細めて、楽しそうに微笑む。
 ジュリアが眉を吊り上げ言い返そうと口を開く。しかしそれよりも早くアジェルが短く答えた。

「力づくだ」

 一言が開始の合図。
 ジュリアが息を呑んだ束の間、アジェルはすでに真紅の絨毯を蹴って飛び出していた。
 ざわりと空気が揺れる。それが魔力の力であると確信し、ジュリアは上を見上げた。幾重にも連なる氷の棘が、天井から離れアジェルへと向かっている。

「アジェル、上!」

 ジュリアは先ほどの攻防で相手の出方を知っている。
 真っ直ぐに大蛇へ向けて走るアジェルに、危険を呼びかけた。
 鋭く尖った切っ先は、速度を上げて獲物を貫くべく空を切る。ジュリアは魔術の防護壁で己の身を守ったが、アジェルは魔術を使えない。慌ててアジェルに防護壁を張ろうと詠唱を始める。しかしジュリアの恐れは術の完成を待たずにアジェルの背に迫る。同時に、大蛇が大きく口を開いた。鋭い牙と血に染まった赤い舌が覗くその奥より、凍える吹雪と氷のつぶてが放たれた。
 四方より迫る冷撃を察知したアジェルは、わざと足を外し腰を落とした。加速した勢いに全体重をかけ、氷の棘もつぶてもすれすれに避けながら滑り進む。
 大蛇に腕が届くほど近づいた時、アジェルは両腕を顔面の前で交差させた。
 刹那、大蛇の巨大な尾が振り上げられる。鋼鉄の鱗に包まれた茨の尾は、迷い無くアジェルの正面を捉えた。

「アジェル!」

 分厚い板を叩き割るような音がその攻撃の恐ろしさをジュリアに伝える。思わず己の腕を抱き、巨大な化け物に対し恐怖が沸き起こる。同時に打ち上げられた形になるアジェルが無事か、不安の闇が心の鼓動を早めた。
 宙に上がったアジェルが仰け反ったのは一瞬の事で、彼は己を跳ね上げた尾に向けて、交差させていた腕を目にも止まらぬ速さで引き抜いた。銀の刃が白銀の鱗に深い傷をつけるのが、遠目に見たジュリアにも分かった。
 刃の一閃と共に、鮮血が空で踊る。
 白銀の鱗を朱に染めたそれは、酷く美しい。白に咲いた赤い花。際立つ色彩に目を奪われる。しかし惚けている間もなく、金切り声に似た獣の悲鳴が氷の城に反響する。耳を閉ざしたくなるような叫びに、ジュリアは身を固くした。
(怒らせた……)
 余裕を持って優雅に動いていた白蛇が、とぐろを巻いていた胴体を激しく絨毯に打ち付けて、距離を取ったアジェルに威嚇する。天にも届くその身体を伸ばし、黄金の瞳をぎらぎらと光らせる。射殺すような鋭い凝視に、ジュリアは大蛇の殺気を読み取った。
 対するアジェルは再び構え、涼しげな表情のまま大蛇を見上げている。
 先ほどの攻撃など、痛くも痒くもないといった風情で。

「もう一度言う。エフィー達を解放するんだ」

 赤の伝う刃の切っ先を、怒りに染まった大蛇へ向ける。
 その声に、先ほどまでジュリアと話していた柔らかさは一欠けらもなかった。
 脅しではない。これは命令。断る先には死が待つと、碧い瞳のエルフは言う。

「愚かなる森の民。人の世に混ざり穢れた一族の言葉など、誰が聞こうか」

「そう」

 短く呟いたアジェルと、白蛇が動くのは同時だった。
 再び巨大な口を開き、噛み付こうと首を伸ばした白蛇に、アジェルは袖の隠しから取り出した小さなナイフを飛ばす。細い針のようなナイフは狙いを外さず、白蛇の鱗を突き破り肉を抉る。深い傷にはなりえなかったが、牽制するには十分だったらしく、白蛇は身を引く。しかし怯んだのはほんの一瞬。白蛇はナイフの突き刺さった長い首をうねらせ、再びアジェルに向けて氷のつぶてを飛ばした。
 真正面から吐き出された凍てつく吹雪。避けられない距離ではなかった。けれどアジェルは避けずに、大きく開かれた白蛇の口めがけて、投げナイフを飛ばした。
 小さくも鋭い氷のつぶては、無防備なままのアジェルに容赦なく降り注ぐ。同時に凍える冷気を全身に浴びる。後方でジュリアが悲鳴に似た声を上げた。
 肉眼でも捉えることの出来る凍える吐息。直撃を免れず、アジェルは軽く顔面を庇う。しかし、アジェルの体温を奪う前に吹雪きは止んだ。
 白い風を吐き出す白蛇の大きく開かれた口には、深々と突き刺さった短剣が覗く。
 アジェルは僅かに氷りついた髪を鬱陶しげに払う。己の数倍はあるであろう魔物を前にしていながら、酷く落ち着いた動作であった。体格、魔術を使えない落ち目、握る武器は頼りない一対の短剣。明らかに分が悪いのはアジェルだ。しかし、それを微塵も感じさせない冷静さ。
 ジュリアは人間離れしたエルフに、心強さを感じながらもふと違和感を覚えた。

「これで最後。エフィー達を解放するなら、見逃しても良いよ」

 あくまでも上から物を言うアジェルに、白蛇は牙を向く。
 余裕を見せていた白い魔物は、今は殺気を隠す事無く忌々しげにエルフを睨んだ。
 魔族は誇り高い一族だ。
 人を恐怖に陥らせる力と残虐性。それを生み出すのは、古より彼らの中に根付く絶対的な自信。己の力を過信し、見せ付ける事にこそ悦びを覚える。破壊する事で力を誇示し、恐れられる事により優越感を得る。多くの魔族は自信に満ち、余裕を失わない。
 それがどうだろう。
 白蛇は美しく優雅な姿は失わなくとも、アジェルの攻撃によって確実に追い詰められていた。大きく開いた口元から、赤い雫が零れ落ちる。金色の瞳は血走り、微かな焦りが垣間見えた。同時に深い憎悪が、空気を通してジュリアに伝わる。

「どうする?」

 押し黙る白蛇へ向けて再度通告。
 もう次は無い。
 しかし白蛇は答えないまま、臨戦態勢を解いた。
 長い首を上げて、金色の瞳を閉じる。次の瞬間、巨大な白蛇はその背を縮め、人の姿へと変わりゆく。茨に飾られた尾は二つに裂けて人の足を象り、胸の位置から不自然に腕が伸びる。美しくも残酷な面は獣の姿を失い、人のものへと変化する。
 アジェルはそれを静かに見つめ、ジュリアも驚きを隠せないまま息を呑んだ。
 白蛇が完全に人の姿へと成り変ると、ネージュは再び黄金の瞳を見開いた。
 人の姿へ変貌したネージュは、純白の鱗と変わらない肌と髪を持っていた。人間で言えば六十ほどの男だろうか。眉目秀麗で、深い皺の重なった厳かな表情に知的な雰囲気を纏わせている。
 しかし、今にも視線で人を焼きかねないほど憎々しげにエルフを睨んでいた。

「何故邪魔をする?」

 低く唸るような声で、ネージュは問う。

「眠りは安息、夢は永遠。人も魔族も皆、生きていれば現実に憂う。その憂いを取り除き安らぎを与えてやろうと言うのに、何故拒む?」

「そんな押し付けがましいもの、俺はいらないから。それに、夢は逃げ場じゃない」

「貴方はそうかもしれない。だが、未だ目覚めぬ者は安らぎを望み、己の意思で目覚めぬ。その眠りを妨げる事こそ、押し付けがましい一方的な感情ではないか」

 自ら現実から目を離す。先ほどの夢の中で、アジェルも眠り続ける事ができれば幸せだと感じた。辛い現実から逃れる事が出来れば、どんなに良いか。夢に落ちたわけでないジュリアも、窮地に陥った時は逃避的であった。楽になりたいと願った。生きたいと望む反面、恐怖による絶望や死への渇望は消えない。
 そう望む心があるのは否定出来ない。ネージュの言うとおりだ。他人の逃げないで欲しい、死なないで欲しいという想いは勝手過ぎる。己の意思で目覚めないならば、それを受け入れるべきではないか。本人の望むまま自由に選ばせるべきではないか。
 けれど誰だって自分勝手な面はある。
 大切な人、家族、仲間ならば共に生きていたい。ここで見捨てるわけには行かない。

「お節介は重々承知さ。でも、置いていくわけにはいかない」

「……ならば、置いていかせるまで」

 ネージュはゆったりとした漆黒の衣より覗く腕を振り上げた。
 途端、城の天井より氷のひび割れる音が一斉に響く。アジェルとジュリアが頭上を見上げた時には、無数のつららが放たれていた。
 豪雨の如く降り注ぐ無慈悲な切っ先は、全てジュリアの方を向いている。多大な魔力の放出により、衰弱していた少女へと。アジェルを仕留めるよりも容易いと判断したに違いない。

「ジュリア、走れ!」

 アジェルの声がジュリアに危険を知らせる。しかし、ジュリアは腕を翳した。あまりにも突然で、反射的に防護壁を作ろうとしたらしい。しかし肝心の魔力が無いと気付き、身を翻す。だが、僅かな時間差が隙を生んだ。慌てて切っ先から逃れようと、城の門まで走る。けれど門の下に身を滑らせるより、つららがジュリアを襲う方が早かった。

「今度こそお休みなさい、姫君」

 しゃがれた低い声が、嘲りの笑いを零した。






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