過去との決別


 過ぎた日々は果てしなく、気が遠くなるほど長い年月。
 終わりの無い命は、少しずつ、だけど確実に崩壊への道を歩いている。
 始まりは何だっただろうか。
 手にした力をいたずらに遊ばせてしまったのが、過ちの原点だったのだろうか。何もかもを手に入れようとした貪欲さが、このような愚かな結末を創り上げたのか。いくら振り返っても戻らぬ日々は遠く、消えた故郷すら、もう思い出せない。
 幾千幾億の時の中で、それらはすべて色褪せてしまった。
 語る過去は山のようにあるけれど、何一つ言い出せはしない。
 彼の犯した罪は、決して許されはしないから。
 誰もが責めるであろう己の存在を厭い、彼は名も姿も捨てた。
 犯した罪からも目を背け、過去を捨てて一人で生きた。
 けれど、彼はそれが終わる事を予感していた。
 少しずつ、運命が狂い終わりを告げる時が来る。
 それがどのようにして終わるのか、彼は知らない。
 彼にあるのは、振り返れぬ過去だけだ。やり直す事も出来はしない。悠久を彷徨うだけの命に残された、彼には背負いきれぬ罪と傲慢さ。その驕りの果てに待つものを、彼は知らない。
 たとえ眠りの中でも、彼は幸せな夢も残酷な夢も見ない。
 すべてから目を背けた彼に、過去も未来も存在しないのだ。
 このまま目覚めなければ楽だろうに、と彼は笑った。生も死も許されぬ身ゆえに、せめて永遠の安らぎを得たいと願う己に気付き、ただ笑うしかなかった。
 眼下に広がるのは、色を失った黒い大地。光を忘れた暗い空。命の絶えた、終焉の地。
 白い塔の最上よりそれらを眺めながら、彼は自嘲気味に微笑んだ……。

「どんな理由があるにしろ、あれを創り出した者が一番愚かだ」

 蒼い光に照らされて、一瞬のうちに何もかもが消えた世界。
 些細な争いは次第に戦火を広げ、やがてすべてを無に帰した。
 争いの種となったのは、青い青い、この世界を映したように蒼い奇跡の宝玉。
 宝玉の力で繁栄し、世界を支配した神が悪いのか。それとも、永遠と力を望み宝玉を奪った人間が悪かったのか。神の力を嫉んだ人の感情の汚さ。人間に理解を示さなかった神の高慢さ。どちらが悪かったのかなど、決めるまでも無い。
 争いの種を創りだしてしまった者にこそ責がある。
 けれど、彼を責めるべき者はもう誰もいない。だから、罪の清算もできはしない。
 謝罪すべき相手は皆、命果ててしまったのだ。
 彼にできるのは、すべてが終わるその時を、ただ待ち続ける事だけだった。


◆◇◆◇◆


 冷たい風が頬を撫でて、そのあまりの冷たさに震え、瞳を開いた。
 視界は白と灰色で染め上げられていた。暗く曇った空は濁り、見渡す限りの銀世界。風に混じって白い粉雪が空を舞い、少しずつ大地へと降り積もる。
 その上をジュリアは歩いていた。いや、正確にはジュリアを背負った者が歩いていた。
 肌に直接触れる空気は凍てつくほどに冷たい。
 意識がはっきりしてくると、ジュリアはゆっくりと起き上がり周囲を見渡した。
 すぐに見つけられたのは、硝子細工のように輝く城の門。白い柱に、硝子張りの氷の城が、吹き荒ぶ吹雪をものともせずに、静かに佇んでいた。

「……城の門まで出てきたの?」

 白く霞む息を吐き出しながら、ジュリアは囁きかけた。
 アジェルは振り向かないまま、ジュリアの問いに相槌を打って答える。

「よく地下から出られたわね」

「破壊好きの誰かが大穴をあけてくれてたみたいでね、地上までは出られた」

 流石に苦労があったのだろう。振り向いたアジェルの表情には、僅かな疲労が見て取れた。背負われているジュリアは申し訳ない心地一杯で「歩くよ」と告げたが、アジェルは無言のまま首を横に振った。
 眠ったため、魔力を少しばかり取り戻し身体は楽になった。けれどその代償に奪われた体温は戻らない。よく凍死しないものだと、自分を誉めてやる。ジュリアは自分が思うほど、か弱くは無いらしい。

「エフィー達は大丈夫かな……」

 ふと思い出したようにジュリアが呟く。

「ここまで来る途中にはいなかった」

 一歩一歩城へと歩みを進め、アジェルが答える。
 ジュリアは背後を振り返った。アジェルの足跡が点々と続く白い絨毯に、真っ白い雪が降り積もり続けている。当然、その先には誰の姿も無い。エフィー達が追いかけてきてくれないかと希望を持ったが、待つのは虚しい気がした。

「ネージュ……」

 空耳とすら思えるほど小さな声が、アジェルの耳に届く。
 聞き覚えの無い言葉に、アジェルは首を捻った。

「氷の伯爵の名前。確かネージュだった気がする。水の一族の縁の者でありながら、己こそが一族の頂点に立つべきだと驕り高ぶり、制裁を受けた魔族の成れの果てが、きっとここの城主よ」

 記憶の糸を手繰り寄せながら、ジュリアは言う。
 氷というくらいだから、弱点は炎だろう。けれど不幸な事にジュリアは魔術を使えそうにないし、アジェルは魔術とは無縁だ。ラーフォスがいれば心強いのに、とジュリアが一人ごちに呟く。しかしアジェルは応えず、静かにただ城の入り口へと近づく。
 返事が無いと分かっても、ジュリアは一人でぺらぺらと喋る。
 まるで、アジェルから何かを切り出されるのを恐れているようにも見えた。
 独り言を呟き続けたジュリアは、急に押し黙った。
 気まずそうに俯いて視線を落とす。けれど静寂は一瞬の事で、ジュリアは再び口を開いた。

「ねぇ、お願いがあるの」

 ようやくもとの翡翠色に戻った瞳を伏せて、ジュリアは掠れた声色で呟く。

「エフィーには、黙ってて欲しい」

 アジェルは応えず、黙々と門を潜りこの場所へ来た最初の扉に近づいた。
 薄い反応にやや落胆しながらも、ジュリアはそれが当然だと諦めた。
 精霊の眷属であるエルフは、魔族を厭う。たとえ半分であったとしても、その血を受けたジュリアに嫌悪感は拭えないのだろう。普段では見せない気遣いが、今では何故か心苦しい。
 アジェルはきっと、口は堅いと思う。けれど、もし何かの弾みで言い出されてしまっては、ジュリアにとって最悪の状況だ。エフィーにだけは、己が何であるのかを知られたくはなかった。エフィーはお人好しだから、笑って受け止めてくれるかもしれない。けれど、その後彼は何かにつけて気を遣うだろう。長年エフィーの傍にいたジュリアは、エフィーが優しい事も知っている。だが、妙に優しくされるのは嫌だった。優しくされたら、ジュリアは自分が惨めな存在になってしまう気がした。そんな思いをするのは嫌なのだ。
 人間として、エフィーとは対等の位置に立っていたい。
 何よりも、魔族を忌まわしいものと吐き捨ててきたジュリアを、彼は知っている。その忌まわしいものが、ジュリアであるなどと知られたくはない。

「……とても醜いのよ、人間じゃない私。樹海で見た魔族なんかと比にならないくらい」

 力の弱い魔族は、人の姿を持たない。
 人間の血を半分持つジュリアは、一族の中でもっとも力が弱かった。故に、魔族としてのジュリアは人の姿を持たない。人間の血が混ざっていたからこそ、辛うじて人の姿を保てるに過ぎないのだ。

「綺麗な貴方には分からないかもしれないけど……、そういうの知られたくないのよ」

 きっとこのエルフは、容姿について悩んだことなど無いだろう。エルフが美しい種族であると聞いていたジュリアは、羨ましく思うと同時に神を呪った。どうして世の中は不公平なのだろうか。綺麗な者と醜い者の境目を、はっきりと分けるのだろう。
 ジュリアの人としての姿は、半分本当で、半分偽りだ。ジュリア自身、どちらの姿が本物なのかも分からない。ただ、人として生きたいと願う間は、人間の姿をしていられる。女として生まれたならば、綺麗でいたい。たとえ真実の姿が魔族だとしても、醜い己を誰かに知られたくはないのだ。
 俯きながら呟くジュリアを、アジェルは氷の扉の反射ごしに見つめた。
 ジュリアの言う醜い姿がどんなものなのか、アジェルは知らない。けれど、彼女が魔族だという事実を心から否定したいのだという事は、言葉の端々から感じ取れた。それほどまでに、ジュリアは魔族の血を嫌っているのだろう。
 異なる血を半分づつ受け継いだというのは、実に厄介な事なのかもしれない。

「俺もそういうの、少しだけ分かるよ」

 アジェルの小さな呟きに反応して、ジュリアは顔を上げた。

「身近な人に程、欠点を知られたくないものだから」

 言わないよ。そう呟いて、アジェルは扉の握りに手をかけた。

「アジェル……」

 少しだけ分かると呟いたエルフの横顔は、ジュリアの知らないものだった。何かを懐かしむような、どこか寂しげな微笑を口元に浮かべている。すぐに消えてしまったけれど、ジュリアは一瞬のそれを見逃さなかった。
 アジェルは一呼吸の間を置いて、ジュリアを振り返る。すぐ傍で淡い色の瞳と視線が交わり、不覚にもその透き通るような色合いに魅入ってしまう。

「それよりも、ネージュとかいう人にご退場願おうか。こんな場所で足止めされるのは御免だ」

 先にやるべき事をジュリアに示し、アジェルは扉へ向き直る。
 その言葉に、ジュリアはぽかんと口を開けて扉を見つめた。
 いつの間にか、城の扉に辿り着いていたらしい。このような場所で落ち込んでぐだぐだしている暇などない事を、今更ながらに思い出す。悩むのはいつでもできるが、エフィー達を助けるのは今しかない。余計な事に気を取られている余裕など、ないはずだ。
 ジュリアは頷き、同時に自分の事しか考えていなかった愚かさに自分自身で呆れた。

「そうね。さっさと伯爵に呪いを解いてもらわなくちゃ。どうせエフィーの事だから、美味しいものを食べてる夢を見てるに決まってるわ。一人だけ良い思いなんてさせないんだから」

 今までの消沈具合など嘘のように消えて、ジュリアは嬉々とした風に言う。言葉の内容は穏やかではないが、怒りの矛先が己ではなくエフィーと伯爵に向いたらしい。
 それを確認すると、アジェルは扉を押した。
 凍り付いていた扉の氷が砕け、重々しく軋みながら扉は開く。
 再び足を踏み入れた城の中は、光が灯っていた。
 温かな蝋燭の光ではない。窓から差し込む光とも違う、どこか暗さを纏った陰気な光が広間を照らしていた。見上げた天井のシャンデリアには、おぼろげな青い光が灯っている。
 光の正体を確認してから、アジェルはジュリアを背から下ろした。
 城の中は真紅の絨毯が敷かれているので、裸足でも大丈夫だろうと判断したからだ。ジュリアは大人しく従い、広間の最奥を睨みつけた。
 薄っすらと人の気配がするその場所へ視線を向けると、見覚えのある玉座が一つある。そしてそこには、見知らぬ存在が肘を突いて座っていた。






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