過去との決別


 時間が流れるごとに、西の彼方へ陽は沈む。
 やけに空が赤い。今にも陽は姿を隠そうとしているのに、陽の光を映す空は異様なほどの朱に染まっていた。流れる雲は時間を早送りしまったように駆け足で北へと走り去る。それはまるで、獣に追われて無我夢中で逃げる脱兎のように思えた。
 昔、こんな話を聞いた事がある。

『赤く染まる空は、争いの始まり。空が燃えた時は、北へ行くがいい』

 それをリューサに教えてくれたのは、誰だっただろうか。
 北へと向かう理由は、北が精霊の世界への入り口だと信じられているからだ。陽の昇る東は生を表し、陽の沈む西は死を象徴する。生ぬるい風を運ぶ南は現実を表す。北から吹く風は精霊の悪戯。西より吹く風は死者の囁き。東からは生れ落ちたものの喜び。
 四方はそれぞれに意味を持ち、エルフ達は空の色と風の向きで占いをする。
 占いといっても、漠然とした結果にしか辿り着かない。ただ、幸福の訪れや不吉な前兆を知るだけだ。必ず当たるわけでもないので、信憑性も限りなく低い。このような占いを信じる者は少ないだろう。リューサにとってもこの占いは、遊びの延長線上でしかない。
 けれど、この日は違った。
 普段ならば空模様など気にしない。占いなども良い結果しか信じない。それなのに、この日の空は赤く暗く。目に見えない災厄を呼んでいるような気がした。まるで、全てを見下ろしている天上の神々が、何かを伝えようとして託宣しているようにも思える。
 燃えるような赤い空と、強い南風。現実より逃げる雲たち。
 ――赤く染まる空は、争いの始まり。
 ふと、先程別れたフィオレの、今にも消え入りそうだった後姿が思い浮かぶ。
 言いようの無い不安に駆られて、リューサは来た道を振り返った。東の果ては、二つの月が頂を目指して昇っている。普段なら宵闇が広がるはずの空は、西の朱と同じ色に染まっていた。
 不自然な空の赤さに違和感を覚える。
 同時に、前にもこのような空を見た事があると確信した。夢うつつにぼやけていた記憶が、鮮明に脳裏に蘇る。
 生暖かい南風も、セピア色に染まっていた若草色のワンピースも。全て記憶の中に存在する思い出だ。ガザニアの花言葉を呟いたフィオレ。彼女の最期の言葉を聞いたのは、この日と同じ燃えるような空の下だった。

「フィオレ」

 今ならまだ間に合うのではないだろうか。
 去り行く彼女を、引き止める事ができるのではないだろうか。
 やり直しが叶うのならば、一から全て、過ぎてしまった時を正したい。
 月が昇るごとに赤みを増す東の方へ、リューサは走り出した。


◆◇◆◇◆


 帰路を辿るフィオレを見つけるのは簡単だった。
 道の右手は見渡す限り草原が広がり、地平線がぼやけた先には険しい山々が連なっている。山の方面には人が訪れるような場所は無い。この周辺は大陸の最奥の地であり、人口密度の低い地域なのだ。土地は痩せているため、農作にも向かず、鉄を取れる鉱山も存在しない。ダークエルフの故郷である広大な森こそあるが、それも豊かとは言い難い。そんな場所に人間達が留まる理由は、この地で生きてきた彼らが、他との交わりを嫌う閉鎖的な考えだったからだろう。だが最近の若者の多くは、より広く栄えた大陸中心部の街へ移っているとも聞く。若い人間はさびれた田舎よりも、華やかな場所へ憧れてしまうのだろう。この地より人間が姿を消すのも、そう遠くない未来に思われた。
 街へと帰るフィオレは、一本しかない森沿いの道を選んでいるはずだ。開けた平野に視界を遮るものはない。リューサがフィオレの後姿を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
 フィオレの背を見止め、リューサは走る速度を上げた。

「フィオレ!」

 普段よりも声を張り上げて、名を呼んだ。
 リューサの声を聞いたフィオレは、ゆっくりと振り向く。風になびく栗色の髪を押さえて、フィオレは驚いたような顔をした。

「リューサ」

 フィオレの声に導かれるように、リューサはフィオレに駆け寄った。
 大きく一歩を踏み出した瞬間、脳裏に妙な光景が浮かんだ。
 柔らかく微笑む女に、突然どこからか飛んできた矢が刺さる。女は大きく瞳を開き、華奢な肢体がふらりとゆれた。赤く色付いた唇が数度開き、一言だけ何かを呟いて、彼女は倒れる。赤く染まる空の下で、誰かが叫んだ。どうしようもない思いを声に変えて、誰かの声だけが遠く響いた。
(幻だ……)
 一瞬だけ浮かび上がった情景を振り払うように、リューサは頭を振った。フィオレはリューサを待っている。翡翠色の瞳に光を宿して、彼女は生きている。今度こそ、やり直せるのだ。
 あせる気持ちが両足に鞭を打つ。
 加速し続けただ夢中に走るリューサに、微かな異変が生じた。
 揺れる視界の端に、細長い枝のようなものがちらつく。切っ先だけが赤く煌く、黒く細いものだ。視界の端に映り込んだと思えば、幻影のように掻き消える。錯覚のようなそれは、どこかで見た気がした。姿を消してはまた現れて、リューサの不安を掻き立てた。
 あと少しでフィオレの元まで辿り着く。そう思った刹那。視界の端で存在を示していた黒い何かが、音も無く走りだした。
 風の抵抗を矢羽根が切り裂き、黒い棒は真っ直ぐにフィオレへと向かう。
 迫るそれに気付かず、フィオレは優しくリューサに微笑みかける。
 リューサは手を伸ばした。フィオレの背後より忍び寄る悪夢を払おうと、精一杯手を伸ばす。これから起こる惨劇が、動き出さないように。記憶の中で眠らせていたものが、目覚めぬようにと。無我夢中で、リューサはフィオレの背後に迫るものを否定した。

「――っ!」

 声にならない叫びが、喉の奥で焼け付く。
 これほど、自分を呪った時はないのではないだろうか。普段は俊敏な動きで何不自由なく動けるはずだった。それなのにこの時のリューサは、沼地を走っているような気分だった。一歩を踏み出すごとに足がぬかるみにはまり、動きを縛られて、前へ進む事ができない。伸ばした手は、虚しく空を掴むだけ。目の前で大切なものが遠ざかっていく光景を、見つめる事しかできない。
 黒い矢が今にもフィオレを貫こうと、速度を上げた。
 全てから目を背けたくて、リューサは両手で顔を覆った。
 これは夢。夢であればよかったもの。
 記憶の中にある今と同じ赤い空の下で、リューサはこの光景を見た。振り返ったフィオレの微笑と、赤い空。それは別れを彩る最後の舞台。
 リューサはまた、間に合わなかったのだ。

「フィオレ……」

 消える命の名を呼んで、リューサは力なく地に膝をついた。
 前を見つめる事ができなかった。二度も、残酷な姿を目にする事が、何よりも怖かった。
 やり直したいと願っていたから、やり直せると思っていたから、ここまで来たというのに。結局何一つやり直す事はできない。嫌な予感がしていたはずだった。常に危険を知らせる鐘が鳴っていたというのに、それに気付く事ができなかった。
 これは悪夢だ。赤い夕陽を見た日の晩、必ず見る過去の夢。やり直しを願いながらも、一度もやり直せない悪夢。ただ悲しい記憶を繰り返して、その度に真夜中に目を覚ます。彼女に矢が突き刺さった瞬間に、飛び起きるのだ。
 それでも、悪夢は次期に覚める。
 待っていれば、これは悪夢のまま去るのだ。これ以上悪い事など、起きはしない。
 だが、リューサは目覚めなかった。夢の中より抜け出せないまま、意識が霞む。

「リューサ」

 幻聴が耳に響く。もう聞くはずのない声が、リューサの名を呼んだ。
 懐かしい、優しい響き。リューサはフィオレの声が好きだった。女性らしい澄んだ声。その声で名を呼ばれるたびに、心安らいだ。
 今でも深く記憶に残っているフィオレの優しい声が、再び響く。

「ねぇ、リューサ」

 視線を地に落とすリューサの頬に、白い腕が伸びた。ふんわりと花の香りが漂い、リューサの頬に温かい指先が触れる。人の温もりを持ったそれは、幻ではなかった。
 恐る恐る顔を上げたリューサの黒い瞳に、翡翠色の瞳が映る。心配そうにリューサを覗き込むフィオレが、そこにいた。

「どうしたの? 急に走ってきて……。気分でも悪い?」

「フィオレ、矢は?」

「弓矢? わたし、あなたの弓なんて知らないよ。今日は、持ってなかったじゃない」

 さらに不思議そうに、フィオレは首を傾げる。
 フィオレの反応に戸惑いを隠せず、リューサは空を仰ぎ見た。
 燃えるような空は嘘のように消えていて、紫色の優しい闇が広がりつつあった。東の果ては夕闇が立ちこめ、禍々しいほどの赤は存在しない。全てが幻であったかのように、目に映るものが一変していた。

「どうして……」

 黒い矢が今にも突き刺さろうとしていた。
 それなのにフィオレは、いつもと変わらない様子でリューサを見つめている。

「わたしが聞きたいよ。どうしたの、リューサ」

「……幻、だった」

 走り出した黒い矢も、赤い空も。全て偽りだったというのだろうか。

「リューサ?」

 不可解なリューサの言動に、フィオレは眉宇を潜めた。リューサは放心したように空を見つめ、次にフィオレへ向き直る。フィオレは不安げにリューサを見上げていた。彼女を安心させようと、リューサは笑いかけた。

「悪い。変な幻覚を見てたみたいだ」

「どんな?」

「嫌な幻さ。オレの仲間が、大切な人を射殺す悪夢だ。オレへの不満をオレじゃない人に向けて、大切な人を傷つけるんだ」

 人間との恋にうつつを抜かし、仲間を裏切る行為の代償は、リューサの命ではなかった。
 ダークエルフ達の怒りは人間の女に向いた。大地の加護を持っていたリューサをたぶらかした者として、疎まれたのだ。赤い空の夕刻、一人のダークエルフは森に潜み、フィオレを待ち伏せていた。――罪の無い彼女を、葬るために。そして、彼女は撃たれた。何の非もない彼女に、ダークエルフは非情の刃を突立てた。リューサが慌てて戻ってきた時には、何もかもが遅すぎた。目の前で黒い矢が彼女に突き刺さり、それを止める事は叶わなかった。

「その人は、死んじゃったの?」

「ああ、致命傷だった。……なぁ、フィオレ、知ってるか? 死んだ人を蘇らせる事のできる力。それを持ってるのは、神様じゃなくて、精霊だって事。……オレ、夢の中で大地の精霊の長を呼ぶんだ。そして蘇りを願った」

 精霊の中で最も強い力を持つ精霊王と、その下にそれぞれの属性の精霊の長。強い魔力を保持する彼らは、死した人をも蘇らせる奇跡の力を持つという。
 わらにもすがる思いで、リューサは大地の精霊の長を呼び出した。失われたものを、呼び戻すために。

「じゃあ、その人は生き返るの?」

 フィオレが真摯な眼差しで問いかける。リューサはその視線を受け止めて、首を横に振った。

「彼女は生き返らなかった。……オレはエルフで、彼女は人間だったから。逆に、精霊の怒りを買った。それで……」

「それで?」

 リューサは己の掌を見つめた。弓を握るときに、滑り止めとなるように、濃緑の手袋をはめている。その手の甲を見つめたまま、リューサはゆっくりと口を開いた。

「彼女は大地に眠り、オレは精霊の加護を失った」

 手袋の下には、精霊より直々に与えられた刻印が存在する。永遠に消えない愚か者の証が、くっきりと刻まれているのだ。私情で精霊の長の力を使おうとした事。それに相容れぬはずの人間を想っていたという事実が、精霊の逆鱗に触れた。
 蘇らせる事はできなかった。
 同時に、精霊を呼び出す事も固く禁じられた。精霊の加護を失ったエルフは、エルフであってエルフでない。永遠とも呼べる長い時を、ただ生きるだけの存在だ。
 俯くリューサに微笑みかけて、フィオレは優しく言葉を紡いだ。

「それが、夢で良かったわ」

 彼女の言うとおり、これは全て夢。フィオレは生きている。黒い矢は、放たれなかった。
 だが、本当に夢だったのだろうか。
 あまりにも鮮明に思い出せて、言葉の一語一句すら完全に記憶している。百年以上前の事だというのに、今でもフィオレの冷たくなる感触をリアルに思い出せた。夢にしては現実味がありすぎて、こちらが夢ではないかと疑ってしまうほどだ。

「わたしはここにいる。ねぇ、それは全部、悪い夢だったのよ」

 柔らかく微笑むフィオレ。
 彼女が死んでしまう記憶が夢で、これが現実。そうなればどんなに良いだろうかと思い続けてきた。悪夢を見るたびにやり直しを願った。本当は彼女は生きていて、あれは悪い夢だったのだと、誰かに言って欲しかった。
 フィオレはリューサの望む言葉をくれた。あれは全部悪い夢。
 それでも、過ぎてしまった日は戻らない。過去は、変わらないのだ。

「嬉しいのにな。……だけど何でか、すげぇ虚しいんだ」

 これが現実ならば、どんなに良かっただろうか。
 こうなれば良かったと、願い続けてきた理想がここにある。

「どうして……?」

 悲しそうに問い返すフィオレに、リューサは笑いかける事しかできなかった。
 これはあまりにもリューサの願いを忠実に再現しすぎて、それが偽りなのだと気付かざるをえない。
 夢はこの世界なのだ。幸せだった頃の記憶と、リューサの願いを混ぜ合わせた、極上の夢。
 リューサは右手の手袋を脱ぎ、己の手を見つめた。
 そこには、この百年消えなかった赤黒い痣が、煌々と存在していた。

「ほら、大地の精霊の怒りは、まだ消えない。あれは、夢なんかじゃねぇんだ」

 大地の精霊の怒りを受けた、右手の甲をフィオレに差し出す。
 フィオレはこの刻印を知らない。この刻印は、彼女がこの世を去ってから受けたものだ。フィオレが大切すぎて、理に背き身勝手で浅はかな行動の末、精霊の加護を失った証。エルフでありながら、リューサは精霊の力を借りれない。精霊の怒りは永遠に、フィオレへの思いと共に残り続ける。

「……これが現実じゃ、だめなの?」

 この場所にいれば、もう悲しい夢を見る事はないだろう。
 フィオレは生きていて、昔と同じ、幸せな時間が舞い戻る。
 それは願ってもない理想の世界だ。

「ああ、これが現実だったら良いと思うさ。でもフィオレ。過ぎたものは、もうやり直せないんだ」

 幾度も幾度も、夢の中で抗ってきた。
 どうすれば彼女を救えただろうか。フィオレと共に村を捨てて逃げれば良かっただろうか。夢の中で、別の選択肢を選んだりもした。けれど結局、行き着く先は彼女の死なのだ。いくらやり直しを試みても、結果は同じもの。夢の中では、何もやり直せない。
 リューサの中に残るフィオレの最期が、あまりにも鮮明すぎて。その記憶を塗り潰す事ができないのだ。
 だから、リューサは別の道を選んだ。
 過去をやり直すのではなく、未来に希望を持つことにしたのだ。

「グレンジェナさえ手に入れば……」

 絶望のまま世界を渡り歩いているうちに、ある噂を聞いた。遥か昔、神話の時代に起こった争い。その元凶である、全てを統べし蒼き宝玉の涙は、死した人をも蘇らせる力を持つという。世界に四つ、飛び散った宝玉の涙。それを見つけ出せば、フィオレを救えるのではないか。
 淡い希望を胸に、リューサは旅をしてきた。気の遠くなるような時間を、歩き続けた。
 今更、立ち止まるわけにはいかないのだ。

「グレンジェナ?」

「ああ。グレンジェナさえあれば、フィオレを救える。……だから、オレは旅を続けないといけないんだ」

 そして、ガザニアの花畑の下に眠るフィオレを、今度こそ救うのだ。
 目的を果たすまで、リューサは立ち止まるつもりはない。
 それがどんなに甘い誘惑であったとしても、振り切らなくてはいけない。

「……寂しいわ。冷たい土の中で、あとどれくらい待てばいいの……?」

 瞳を伏せて、フィオレは呟いた。
 その問いに、リューサは言葉を詰まらせる。
 彼女が土の中で眠ってから、かなりの年月が流れた。広大な砂漠より一粒の奇跡を掴み取るまでに、あとどれほどの時間がかかるだろうか。その間、フィオレは一人きり、土の中で眠り続ける。既に百年以上の時を、彼女は孤独のままリューサの帰りを待っている。
 リューサはフィオレの死後、一度も彼女の眠る墓標に花を添えていないと気付いた。グレンジェナを追う事に夢中で、彼女がどんな思いでリューサを待っているかなど、考えもしなかった。
 謝罪の言葉しか思い浮かばず、リューサは俯いて「ごめん」と言おうとした。
 けれどその言葉は、フィオレの細い指に押さえられる。視線を上げると、フィオレは微笑んでいた。

「いいの」

「フィオレ……」

「言ったでしょう? あなたは私の誇りよ」

 優しく瞳を細めて、フィオレは眩しそうにリューサを覗き込む。

「夢を追って、何があっても諦めないあなたが好きなの。だから、わたしは待ってる。リューサが帰ってくるのを、ずっと待ってるから」

 グレンジェナを見つけるその日まで、フィオレは眠る。
 色鮮やかなガザニアの棺の中で、リューサの帰りを待ち続けながら。
 フィオレの望みは、リューサの幸せだ。彼が過去の幸せを取り戻したいと願うのならば、フィオレは彼を夢の住人にしてしまおうと思っていた。けれどリューサは、フィオレが思っていたよりもずっと、前向きに生きている。笑い合える仲間もいて、一人きりではない。

「リューサ、あなたは生きて」

 この夢が、死の世界へと続いているとフィオレは知っている。
 だから死者であるフィオレが、再びリューサに会えたのだ。
 だが、これ以上は共にいられない。リューサは前向きに歩いていた。そんな彼を、フィオレは眠らせたくない。この世界に眠ってしまえば、それは死に繋がる。
 初めは夢に引き込むつもりであった。幸せな思い出を見せて、リューサをこの世界に留めようとした。この世界なら、昔と同じ、幸せな時を繰り返せる。けれど、それはリューサの望むものではないのだ。

「……ああ。グレンジェナを見つけて、必ず迎えに行くさ」

「うん。ずっと眠って待ってるから。さぁ、リューサは目覚めて。これ以上、ここにいちゃだめだよ」

 この夢に眠れば、二度と目覚めはこない。そうなる前に、リューサは現実へと戻らなくてはいけない。名残惜しい気持ちはあったが、フィオレは笑顔をリューサに送った。

「またね、リューサ」

 そっと腕を回してリューサを抱きしめて、フィオレは囁く。
 リューサはこくりと頷き、瞼を下ろした。目頭が熱くて、とても目を開けていられそうにない。
 沢山の言いたい言葉を飲み込んで、ただ別れゆく最後の温もりを噛み締めた。

「じゃあな。次に会うのは、約束のあの場所だ」

 その言葉を最後に呟いて、リューサは目覚めを呼びかけた。
 意識が遠くなり、目覚めが近くなる。
 今ここで、過ぎし過去の思い出と永遠に別れを告げる。
 新しい夢を見るために。
 新しい未来を迎えるために。






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