過去との決別


 水路の脇道を進んでいるうちに、アジェルは一つの事に気付いた。
 ほんの僅かだけれど、異質な香りがする。ひんやりと凍える空気に混じり、眠気を促すような甘い香りが、鼻腔をくすぐった。同時に、何かしらの力が動いているのを、張り詰めた空気から読み取る。

「嫌な能力……」

 不快とばかりに瞳を細め、アジェルは呟いた。
 背負っている少女から反応は無かった。代わりに単調な呼吸が繰り返されている。長い回廊を歩いている途中で、ジュリアは眠ってしまったらしい。このような状況下で眠るのは危険だが、体力的にも精神的にも消耗していた彼女に無理させるのも酷だ。それにジュリアの眠りは、アジェルの体験した眠りとは違い、単純に疲れからくるものだ。普通の人間とは少しだけ違う彼女に、魔族の呪いは効きはしない。だから、無理矢理起こさなくても良いと考え、アジェルはジュリアを休ませてやる事にした。
 大量に魔力を消耗した時は、少しでも多く睡眠を取らなくてはいけない。身体から魔力が枯渇してしまった場合、人は生気を失いやがては衰弱死に至る。魔力は誰しもが必ず微力ながら持ち得ているもので、言わば精神を巡る透明な血液のようなものだ。魔力を浪費した時は、空気中に漂う微量の魔力を養分として吸い込み、睡眠を経て消費しただけの魔力を蓄える。眠っている間は魔力の流れに干渉を受けず、精神体も眠りについてるので、魔力による身体の負荷もない。
 魔力の高い者は己の持つ大きな力のせいで、何もしなくとも精神が疲弊する。故に魔力の少ない者より、魔力の高い者は多くの睡眠を必要とするのだ。けれど皮肉か幸いか、ジュリアの魔力はあまり高くはない。回復するまで然程時間は掛からないだろう。
 エフィー達を見つけるまでは、安らかに眠っていれば良い。
 静まり返った回廊を進みながら、アジェルは夢によって思い出した記憶について考えていた。
 セレスティスを出たのは、双子の弟であるレイルを探し出すためだ。三年前に魔族と神族の襲来により、離れ離れになった古代神の後継者は、今頃何をしているのだろうか。
 母である滅びと再生を司る女神は、レイルに力を受け継がせた。神族の証である青く透ける神石は、レイルの額に埋められている。双子として生まれたけれど、古代神が選んだのはレイルだった。魔術を扱えないアジェルではなく、強い潜在能力を持っていたレイルを後継者と選んだ。それに関しては正しい判断だと思うし、不満もない。
 けれど女神はもう一つ、アジェルの知らないうちに秘密を作った。
 それが今、酷く気掛かりであった。
 セレスティスを出る前日に出会った、翼族の少年エフィー。彼の額にあるものは何だろうか。
 エフィーの父、フェイダ・ガートレンの存在は、アジェルも少しだけ知っている。
 古代神の知人であり、神族に関わってしまった人間。古代神と何か約束を交わし、ゲートを使って異界へと姿を消した。そう、姉とも呼べる幼馴染の姫巫女に聞いた。姫巫女は古代神の世話をしていた、エルフの少女だ。彼女は赤子の時に親を亡くし、哀れんだ古代神が引き取り己の子のように育ててきた。
 姫巫女はいつかフェイダの子が森を訪ねて来た時に、言付けを伝えるはずであった。親のいない子が父を探す事を、古代神は予見していたのだ。だから古代神は姫巫女にいくつかの言葉を託した。
 予想でしかないが、姫巫女に託された言付けは、エフィーの足を止めるためのものではないだろうか。父を探すという行為をやめさせ、村へと帰すための言葉。それを姫巫女は持っていたのではないだろうか。だが、今は真相を確かめる術はない。答えを知りえるのは、レイルと共に姿を眩ませた姫巫女だけなのだから。
 アジェルの前に現れたエフィーの額には、青い輝石が埋められていた。見覚えのあるそれが意味する事柄は、一体何なのだろうか。答えを出そうとしても、全ては漠然としていて、いくら考えても真実は浮かび上がらない。
 ただ、何か間違った方向に物事が進んでいる気がして、心に不安が込み上げた。とんでもない過ちをしてしまったような、そんな錯覚を覚えるのだ。けれど霧のように掴むこともできない真実を追うのは無駄でしかない。そう考えを切り替えて、アジェルは軽く頭を振った。
 これ以上考えても、余計に混乱するだけだ。
 それよりも今は、魔族の呪いからエフィー達を解放する事を優先すべきである。
 ずり落ちかけたジュリアを背負いなおして、アジェルは無言のまま回廊を進んだ。
 進むうちに風の音がはっきりと耳に届く。不規則な形の回廊を進む風は、不気味な旋律を奏でながら通り抜ける。それは嘆きの妖精バンシーの叫びにも似ていて、奥に行くほど静寂を打ち消していく。
 より強い風を身に受けて、アジェルは顔を上げた。
 風の流れ来る方へ視線を向けると、砕けた氷と瓦礫の転がる場所が存在していた。今までとは違う光景に興味を覚え、アジェルは歩調を速めた。一歩進めば、凍てついた空気が更に冷えて、吐息は白く霞んだ。
 瓦礫の上まで来ると、右手に巨大な大穴が開いていた。地下の大理石の壁は何かに抉られたかのようにぽっかりと抜けている。瓦礫ばかりが崩れて斜めに上る穴は、外へと続いているようだ。新鮮な空気を運ぶ風は、穴の先から吹いていた。

「……ここから外に出れるみたいだね」

 先にエフィー達と合流するべきか、ふと迷う。彼らはまだ、地下のどこかで魔族の呪術によって夢の中にいるはずだ。もしエフィー達を見つけたところで、眠っている彼らを起こせるとは限らない。ならば、先に城主を見つけ出し、呪いを解かせる事が先決ではないだろうか。
 そこまで考えると、アジェルは暗く続く穴の先を見上げた。かなり急な斜面で外へと続く穴は、上る事も困難に思われた。それでも、他に出口があるとは限らないし、もたもたしている訳にもいかない。
 覚悟を決めて、アジェルは長く続く穴へと足を踏み出した。


◆◇◆◇◆


 天が薄っすらと青く染まり、双月が東より顔を覗かせる頃。西の彼方は燃えるような朱に彩られていた。ゆっくりとした動作で雲は風に流されて、北方へと旅立っていく。緩やかな風に撫ぜられて踊る草花。その花びらが一枚風にさらわれて、空へと舞い上がる。
 瞳を閉じていたフィオレは、そっと瞳を開けた。
 フィオレの瞳に映ったのは、西の果てを見つめているリューサの顔だった。

「もうすぐ、陽が沈むのね……」

 別れの時間が刻一刻と近づいている。それを悟り、フィオレは寂しそうにリューサと同じ方へ視線だけ向けた。黒い鳥が数羽、赤い陽光を背に森へと向かって飛び去っていく。
 フィオレは視線を真上に戻した。リューサの隣で仰向けのまま、ぼんやりと暗くなる空を眺める。

「ねぇ、次はいつかしら?」

「フィオレが好きな時でいいさ。呼べばいつでも、森から這い出て来てやるよ」

 陽が完全に落ちる前に、リューサは森へ。フィオレは街へと足を向けなければいけない。エルフの中でも年長者の部類に入るリューサならば、多少帰りが遅れても問題ない。けれどうら若い娘が一人、夜遅くに帰路に付くのは対面も悪く、また危険だ。遅くまで出かけていた理由を親に問われた場合、言い訳も難しい。
 全てを秘密にした逢瀬は、一日の半分も共にいられない。
 フィオレはそれが不満であった。毎日こうして会えるわけでもないというのに、リューサはいつものんびりとしている。何かをするわけでもなく、他愛の無い会話をしながら、ゆっくりと流れる時間を共有するだけ。恋と呼ぶには幼稚で、けれど友達よりもずっと深く互いを思っている。フィオレはその関係が嫌いなわけではない。ただ、いつか壊れてしまうのではないかという不安が、常に心に満ちていた。
 共にどこかへ逃げよう。そう言いかけた言葉は、心の奥底にしまいこんできた。
 フィオレもリューサも恐らく、同じ事を望んでいる。けれどそれは現実になりはしない。夢を語ることはあっても、所詮それは夢でしかないのだ。
 世界は広いのだから、種族の違いを超えて結ばれる者もいるだろう。エルフと人間が結ばれたという話も、聞かないわけではない。事実、人とエルフの狭間の子、ハーフエルフと呼ばれる者も存在するのだ。
 けれど、リューサはその道を選ばない。捨てなければならないものが多すぎて、彼は一つを選べないのだ。リューサがフィオレを大切にしてくれている事は、フィオレ自身知っている。自惚れではなく、彼はフィオレを第一に考えてくれている。フィオレが、リューサを一番だと思うように。
 親と友達。しがらみの少ないフィオレは、それらを捨てても良いと覚悟を決めている。命を半分にしようとも構わない。残りが四十年程度の命になったとしても、リューサと共に過ごせるのなら、それで良い。
 けれどリューサの背負うしがらみは、フィオレのそれとは比べ物にならないほど大きいのだ。
 だから、彼はいつも一線を越えない。
 陽が沈み始めたら、それは別れの合図。
 次の約束を交わして、また繰り返す。変わらない日常。変わらないリューサ。変わりたいと願うのは、フィオレだけ。
 それでも、フィオレはリューサに想いを告げる事はなかった。もしそれで共にいられる時間が壊れてしまうのならば、告げずにこのままでいられる方が幸せだ。夢を見る反面、夢は夢のままにして、現実の幸せを保持させたいと願う。
 フィオレは、リューサに今以上の無理をさせるつもりは無かった。わがままを押し付けるつもりもない。泣きついてみたらあるいは、優しいリューサはしがらみを捨ててフィオレを選ぶだろう。それでもフィオレは、リューサに大切なものを捨てさせるような真似はできない。リューサが苦悩する様を、見たくは無いのだ。
 だから、また同じ言葉を選ぶ。三日前に彼と交わした約束の言葉を、一語も違わずに告げた。

「じゃあ、三日後に。同じ場所で」

 フィオレは身体を起こして、頭に載せていたガザニアの飾りをリューサの頭にかぶせた。

「いつも三日なんだな」

「三日ぐらいが丁度いいわ。それとも、もっと一緒にいたい?」

 淡い期待を込めて問うが、リューサは苦笑して首を横に振った。

「悪い。それは無理なんだ。オレがいねぇと、村の奴ら好戦的になって近隣の町を焼きかねないからな」

 エルフが人間を嫌う理由は、森を伐採し、狩と銘打って悪戯に動物を殺し、土を固めて人間以外の生き物の命を軽く奪うからだ。リューサの故郷の森は昔、人間の手によって三分の一ほどが切り取られた。険しい山々に囲まれたこの地は、森林に乏しく、木材を必要とする人間はエルフの森より木々を奪った。それ故にダークエルフたちは人間を恨み蔑み、敵視した。もとより普通のエルフよりも好戦的な一族であったためか、一部の者は人間に殺意を抱いている。口実さえあれば、彼らは森から武器を持って人間と争いを始めるかもしれない。
 それを抑えているのが、精霊の長の力を借りれるリューサなのだ。大地の加護を森に与える役目を持つリューサは、他のエルフよりも強い発言権を持っている。森の外への外出も認められているし、人間との関係についてはリューサが事を決める。また、恨みを抱くダークエルフの、人間に向ける敵意の防波堤ともなっていた。ダークエルフの族長も、リューサの言葉を軽んじたりはしない。

「そうね。あなたがいなかったら、わたしたちの故郷、なくなっちゃうかもしれないものね」

「やらせないさ。もう争いはいらんだろ。それに、オレの跡継ぎが見つかったんだ。もう少ししたら、ずっと一緒にいてやれるぜ?」

「跡継ぎなんて初耳だわ。……でも、あなたが用済みになったら、村の人に煙たがられるんじゃないの?」

 ダークエルフは人間と争おうという者と、人間と住む世界を分かち干渉しないという者の二つに分かれている。リューサは後者の考えを推して、争いだけは避けるようにと努めてきた。今は互いに疎遠となってしまっても、いつかは共存できるようになれば良いと考えての行動だ。
 勿論、そんなリューサを疎む者もいる。いつの世も、争い事の好きな輩はいるものだ。族長はリューサの考えに同調しているが、ダークエルフ全員がそうとは限らない。リューサへの不満を持つ者も、少なくは無いだろう。

「平気さ。少なくともオレは、自分の身ぐらい守れるからな」

「あら、そうやって自分の力を過信してると、痛い目見るわよ?」

「大丈夫だって。……ああ、もしかして心配すぎて不安だわっていう、いじらしい乙女心か?」

 真面目な雰囲気を打ち壊して、リューサはにたりと笑った。
 フィオレは呆れて、頬を膨らませる。

「……馬鹿。もう帰るわ」

 腰を上げて裾についた土や草を払い、フィオレはリューサを見下ろした。

「途中まで送るよ」

 リューサも腰を上げようとしたところで、フィオレが押し止めた。

「いいの。もし誰かに見つかったら、大変だから」

 優しげな微笑を浮かべて、フィオレは身を翻した。
 朱色の陽を背に受けて、若草色のワンピースが黄色く見える。長い栗色の髪は大地に咲くガザニアの色に染まり、柔らかく風になびく。今にも空気に溶けてしまいそうな後姿に、リューサは焦りを感じた。

「フィオレ」

 名を呼ぶ。
 フィオレは振り返って微笑んだが、歩みを止めようとはしなかった。
 影が薄く伸びて、消えていく。世界から音が消えて、情景がセピア色に染まる。このまま一人帰らせてはいけないような、そんな気がした。
 少しずつ遠ざかっていく後姿を、リューサは知っている。朱色の夕陽も、若草色のワンピースも、風に舞い上がるガザニアの花びらも。全てが鮮明に思い出せる。前にも見た光景。
 それはいつの事だったのだろうか。
 深く思い出せない事に苛立ちを感じながら、リューサはフィオレに笑顔を向けた。
 途端、見えない手で脳を鷲掴みにされたような頭痛がリューサを襲った。痛みの中に紛れて、もやもやとした嫌な予感が脳裏を掠める。軽く額を押さえ、去り行くフィオレを引き止めようと、口を開いた。

「フィオレ」

 フィオレは翠緑色の瞳を瞬き、口元をほころばせた。

「また三日後ね、リューサ。今度はわたしが迎えに行くわ」

 耳障りの良い声でそう告げて、フィオレは帰路を進む。
 リューサはそれ以上言葉を繋げられず、フィオレの背を見送った。
 若草色の裾が地平線の彼方へ沈み、その姿が見えなくなるまで、リューサはその場から動かずに佇んでいた。
 風がいっそう強く吹いて、頭の上の花冠から花びらが飛んだ。橙色の花びらはフィオレの消えた方へと舞いながら、小さくなって消える。
 心に溜まった不安を飲み込んで、リューサは踵を返して花畑に背を向けた。






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