過去との決別


「どうしたの?」

 精霊の様子を不思議そうに見つめ、ジュリアが問う。

「乾かしてくれるって」

 今までと打って変わり、淡々とした共通語でアジェルは答えた。
 少しの間を置いて、精霊に異変が生じた。薄紅色であった光が、紅蓮の炎に勝るとも劣らない色へと変化し、朧な光は輝きを増して、眩いほどの光を放つ。同時に、暖かな風がジュリアとアジェルを包み込み、優しく肌を撫ぜた。全身に夏の陽光を浴びているかのように、冷え切っていた身体が熱を取り戻す。内側から温まっていくようで、寒さによる手足のかじかみも、水を吸って重くなっていた髪も、軽く清々しいものへと変化する。その心地よい感覚に、ジュリアは全身が癒されたような錯覚を覚えた。
 ふわりと吹いた風を最後に、精霊から光が消えた。その様子は、栄華を極めて鮮やかに咲いていた花が、儚く枯れた刹那のように見えて、ジュリアはうろたえる。
 精霊は再びアジェルの差し出していた手の上に戻り、弱々しい光でエルフに何かを伝えた。

「なんか、弱ってるみたいだけど……」

「魔力を使ったから、少し疲れたって」

 普通ならば術者の魔力を与え、精霊の力を借りる魔術。だが、魔力を与えず、力だけ行使させれば、精霊も無事ではいられないだろう。魔力の塊のような存在である精霊は、人より与えられる魔力が生きる糧なのだ。

「大丈夫なの?」

「うん。この後、精霊界に帰るから、平気だって」

 それだけ言うと、アジェルは背に流していた長い髪を、手前へ引いた。飾り気の無い紐を解き、普段は纏められている髪を自由にする。
 ジュリアは不振そうにその行動を見つめた。だが、結びなおそうとしているのだろうと思い、何も言わずにアジェルの行動を見守る。
 アジェルは手近な場所にある髪を一房を掴む。そして先程しまったナイフを取り出して、躊躇い無く髪を切った。

「な、何してんの!?」

 アジェルの奇行に驚きを隠せず、思わずジュリアは黄色い声を上げた。
 左側の髪が少しばかり減ったアジェルは、さして驚いた風でもなく、不思議そうにジュリアを見つめる。

「何って、精霊にお礼」

「お礼って言ったらお金か何かでしょ。何で髪の毛切ってるのよ!」

 冷静でいられず、ジュリアは精霊にとってお金が意味を成さない事も忘れ、声を張り上げた。

「精霊は綺麗なものが好きなんだ。魔力じゃない代償で、何が欲しいって聞いたら、髪の毛で良いって……」

「髪の毛なんてどうするのよ」

 呆れつつ、ジュリアは切り取られた髪を見つめた。
 確かにそれは、綺麗なものの内には入るかもしれない。光を受けて硝子のように輝く銀色の髪は、ジュリアの目から見ても美しいと思う。けれど、お礼としてそれを要求するとは、精霊は一体何を考えているのだろうか。とても理解できず、ジュリアは答えを求むように精霊を見やった。
 精霊はジュリアの言葉に答えるように、アジェルに向けて光の合図を送る。

「珍しい色だから、精霊界で自慢するって」

「……自慢になるの?」

「さぁ。ん?」

 精霊は二人の間に入り込み、アジェルにもう一度何かを伝える。アジェルは精霊の音無き声を聞き取り、ジュリアへと向き直った。

「ジュリアの髪も欲しいって」

「私の? ……でも」

 急にジュリアは押し黙った。
 精霊にも、ジュリアの姿は見えているだろう。アジェルの髪の色を珍しいと言うのだから、色彩の判別もできているはずだ。アジェルは何一つ言ってこないが、ジュリアが未だに金色の瞳を曝け出しているのは事実だ。箱入りの世間知らずで無い限り、金色の瞳が意味する事は誰でも知っている。
 精霊は魔族を厭う。純粋な自然の力の象徴である精霊は、穢れ多き魔族を嫌うのだ。故に、魔族は精霊の力を借りる事はできないし、永久に相容れぬ存在である。
 半分とはいえ、魔族の血を引くジュリアを、精霊が心許すはずが無い。
 何故だかジュリアは己が惨めな存在に思えて、その場から逃げ出したい気持ちに飲み込まれた。

「私は遠慮しておく。だって、綺麗じゃないもの」

 色合いも珍しいものではないので、精霊にとって価値があるとは思えない。それに藍色の髪は、父方の――つまり魔族の血を受けた証でもある。無償で力を行使してくれた精霊にそれを渡すのは、恩を仇で返すようなものに思えた。
 申し訳ない気持ちで胸が一杯になりながら、ジュリアは精霊に頭を下げた。

「ごめんね。でも、ありがとう」

 魔術を使う時、精霊には魔力を与えて力を借りる。対等の取引をしているのだと考え、感謝の気持ちを忘れていた。命令を下し、力を使い終われば精霊は用済みで、見向きもしなかった。
 前にラーフォスは、精霊に深い自我はないけれど心は存在すると言っていた。
 道具同然とばかりに精霊を使役してきたジュリアは、彼らの心を否定していた。それはジュリアが魔族だからというのは関係ない。ただ純粋に、気持ちの問題だ。事実、こうして感謝の言葉を精霊に向けるのは、生まれて始めての事で。だからこそ余計に、申し訳ない気持ちが沸き起こる。精霊の声を聞く事はできないが、ジュリアが感謝を述べる事はできたはずだと言うのに。

「残念だけど、人間にお礼言われたの久しぶりだから、嬉しいって」

 精霊の声を代弁して、アジェルがそう告げる。
 再びいくつかの言葉を紡ぎ、アジェルは精霊と何かを話す。数度に渡る言葉と光の往来の後、アジェルは先ほど切った髪の両端を紐でゆわくと、精霊へ差し出した。菫色を帯びた銀の髪束は、精霊の光に溶けるように消えた。同時に、精霊自身もひと際赤く輝いた後、姿を消した。

「精霊はね、綺麗なものが好きなんだ」

 先ほどと同じ言葉を呟いて、アジェルは服から取り出した別の紐で、髪を結びなおし始めた。

「そうね。そう言う風に見えるわ」

「見た目だけじゃないよ。精霊は実体がないから、姿よりもずっと心を見る。どんなに姿が綺麗な人でも、心が醜ければ精霊は近寄らない」

 姿がないからこそ、精霊は人の心に惹かれる。エルフは精霊に好かれていると一般的には思われているが、心の綺麗な人間も同じだけ精霊に好かれているのだ。ただ、精霊の声を聞けない人間は、その好意を知る事ができないだけ。

「多くの魔族はね、生きていくうちに心に穢れを溜めていく。だから、魔族の心は精霊の好きなものとは違う。でも、稀に魔族の中にも精霊と語らえるだけの綺麗な心を持ってる人もいる。精霊が見るのは血でも姿でもないんだ」

 魔族の住まう魔界は、光がない。昼は訪れず、夕闇の世界だけが永遠に続いている。故に心が暗く沈み、いつしかそれを憎しみと変える。光を奪った神族へ憎悪の感情だけを向けて、許す心も誰かを愛する心も失うのだ。ジュリアの知る魔族は、ほんの一握りを除き、皆そうであった。そしてジュリア自身、魔界にいれば彼らの仲間入りを果たしていただろう。父を憎んでいたジュリアは、確かに醜い心であったのだから。
 それでも精霊は今、ジュリアの感謝の言葉を嬉しいと言った。
 それはジュリアにとって予期せぬ返事であり、心の奥で喜びも感じた。

「本当に心が醜い魔族は、精霊の力すら借りれないよ」

 本来ならば、魔族は魔術を扱えない。
 ジュリアが魔術を使えるのは、人間の血を引いているが故だと思っていた。人の血が魔族の血を薄め、精霊が力を貸す許容範囲にぎりぎり入っているのだと。だが、それは勘違いだったらしい。
 精霊はジュリアを認めてくれていた。魔族だとか、人間だとか。そんな上辺のものではなく、ジュリアの心を見て、力を貸してくれていたのだ。

「うん。何か嬉しいな。精霊と話すなんて、凄い事よね」

「まあ、人間じゃあんまり体験しないかもね」

 あえて『人間』と言葉を選ぶアジェルの気配りに、ジュリアは感謝した。
 ジュリアが何であるのかを知っているはずなのに、それについて深く触れない。口調は相変わらず淡々としていて素っ気無いものだが、それでも確かに気遣っているという事が言葉の端々から感じられた。
 ジュリアは遠慮されるのを好まないが、今はそれが嬉しい。
 暗く沈んでいた気分も、いつの間にかに忘れていた。

「じゃあ、そろそろ行こうか。エフィー達を探さないと」

「うん。さっきの人形が言ってたけど、みんなアジェルと同じように眠ってるみたいなの。それに、魔族はまだ死んでない」

 先ほどアジェルが倒したのは、魔族の傀儡に過ぎない。
 本体は別の場所で、今こうしている間もジュリア達を監視しているはずだ。

「じゃあ尚更急がないと」

 身軽な動作でアジェルは立ち上がる。ジュリアもそれに習い腰を持ち上げようとしたが、足に小さな痛みを感じて、悲鳴をかみ殺したような声を上げた。アジェルが何事だろうとジュリアを見やると、ジュリアは足の指を掴んで座り込んでいる。服から覗く足は傷だらけの上、靴が無かった。

「そういえば、水路で脱げちゃったのよね」

 アジェルを追って水流に逆らう事に夢中で、ジュリアは脱げた靴にまで気を回していなかった。
 長旅には不向きな靴であったし、脱げ易いとは思っていたが、愛着があったので今まで使用してきた。なくしてしまったのは悲しいが、これからを考えれば替え時であったとは思う。しかし、今の状況で靴が無いというのは不便極まりない。

「……どうしよう」

 今は緊急だから、そのまま行けと言われてしまえばそれまでだ。
 だが、裸足で氷の上を歩くのは痛いやら冷たいでかなり辛い。
 どうしようかと考え込むジュリアに背を向けて、アジェルは屈みこんだ。

「乗って」

「は?」

「裸足じゃ歩けないから」

「嫌よ」

 条件反射で、ジュリアは一歩引いてしまった。
 まさか、そう言われるとは予期していなかったので、戸惑いが生じる。

「何で?」

「だって私が乗ったら、アジェル潰れそうなんだもの」

 遠慮なくジュリアは本心を告げる。
 病弱とまではいかないが、線の細い少年に、ジュリアを背負うだけの力があるようには見えない。
 アジェルはジュリアの言葉に溜息を付いて、呆れたような視線を向けた。

「平気だって。乗らないなら、置いてくよ」

 半ば強制的に、アジェルはジュリアにおぶさるように促す。
 断っては本当に置いていかれてしまいそうなので、仕方なくジュリアはアジェルの言葉に従う。のそのそと立ち上がり、恐る恐る背に乗る。

「潰れないでよ?」

 これで倒れられては、ジュリアの立場が無い。
 ジュリアの妙な心配に、アジェルは「潰れないから」と短く答えた。
 ジュリアが首元に腕を回すと、アジェルはジュリアを背負って立ち上がる。

「本当に平気なの?」

 ジュリアは自分が重い部類に入っているとは思わないが、軽いわけでもないと自負している。
 だが、アジェルはふらつく様子も無ければ、そのまま氷の床を歩き始めた。

「平気」

「どっちに行くの?」

 ジュリアの問いに、アジェルは自分達が流されてきた水路の道へ身体を向けた。

「こっち。風が吹いて来るから、もしかしたら出口があるかもしれない」

 薄暗く続く回廊をへ一歩踏み出し、いつもと変わらない軽い足取りで氷の床を進む。人をを背負っているとは思えない歩調に、ジュリアは少しばかり驚いた。
 やせ我慢をしているのか、それとも見た目よりも力があるのか。それはジュリアには分からなかったが、何度も無事かと聞くのも無粋な気がして、口をつぐむ。
 どちらも口を開かないで、ただ長い回廊を進み続けた。






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