過去との決別


 突然の出来事に唖然として、ジュリアは呆けたような表情で瞳を瞬いた。
 氷の床に転がった飾り気の無い銀色のナイフは、どこかで見たような記憶がある。それを人形へ向けて投げたのは、一体誰だろうか。考えるまでも無い事だ。この場所には、ジュリアを除いて一人しか存在しないのだから。
 背後にいるであろう人を思い浮かべて、ジュリアは震える唇を開いた。

「いくらなんでも、眠りすぎよ」

 振り返らないまま、ジュリアはぽつりと呟くように言葉を紡ぎだす。
 すぐ後ろで立ち上がっているらしい人は、動かずにジュリアの背を見つめていた。

「迷惑、かけたみたいだね……」

 ジュリアの背後から落ち着いた響きを持つ声が、静まり返った氷の回廊に透き通るように響く。やや感情を抑えがちな感じはするが、人を安心させるような声だ。それを耳にして、ジュリアは安堵の息をついた。そして未だに輝きを失わない瞳を、そっと閉じる。急に体から力が抜けてしまったように、ジュリアはぺたりと足をつけて、その場に座り込んだ。
 声の主は、聞き間違えるはずもないアジェルのものだ。眠っていたはずであったのに、ジュリアの知らぬ間に目を覚ましたらしい。ジュリアは再び瞳を開いた。朧な月色の瞳に映るのは、氷の砂となった人形の存在した場所。城主である魔族の傀儡としてジュリアと対峙していた氷の人形は、額にナイフを投げつけられて、偽りの命を失った。ジュリアの考えが間違いでなければ、氷の人形にナイフを投げたのはアジェルだ。
 改めてジュリアは自分が助かったのだと実感して、緊張から解きほぐされ全身の力を抜く。
 けれど素直にお礼を言うのも気恥ずかしく、また不公平な気がして、ジュリアはあえてアジェルを責める言葉を吐き出した。

「泳げないなんて聞いてないわ」

「まさか落ちるとは思ってなかったからさ。……水、苦手なんだ」

 答えるアジェルは言い訳もしないで、あっさりと己の非を認めた。
 素直な返事に毒気を抜かれて、ジュリアはそれ以上責め言葉を繋げずに口を閉じる。人に一つや二つ不得意なものがあるのは当然だ。それをねちねちと責めるのは、流石に性格が悪すぎる。
 ふと思い起こせば、デューベルで船に乗った時も、このエルフは船酔いに気分を害していた。普段は恐ろしいものなど何も無いと言うような面構えをしているので、苦手なものなど無いのだと勝手に思い込んでいた。けれど水が苦手のカナヅチという意外な弱点を発見して、ジュリアは心の内で微笑む。同時に、感情の起伏が薄いこの少年にも、人間らしい一面があるのだと思った。

「落ちて浮かんでこないから、びっくりしちゃった」

「水面に上がろうとは思ったんだけど……何か感覚が麻痺しちゃったみたいに体動かなくて」

「当たり前よ。水冷たいもの。心臓麻痺起こしてもおかしくなかったのよ」

 ジュリアは水魔の血を引いているが故、水の冷たさにはある程度の耐性を持っている。寒いとは感じるが、決して命に支障をきたす事はない。けれどアジェルは違う。森の民であるエルフは精霊の眷属なので、自然の加護を受けているかもしれないが、その肉体は人間とそう変わらない。一歩間違えば、心臓麻痺を起こしてもおかしくは無い状況であった。

「ありがとう」

 普段よりも穏やかな響きを帯びて、アジェルはジュリアに礼を述べた。

「次からは気を付けてよ」

 呆れたように言葉を吐き出し、ジュリアは肩を竦める。僅かな沈黙を挟んで何かを考えた後、ジュリアは再び小さく唇を開いた。

「……ねぇ、良い夢見れた?」

 聞かなくても良い事を、振り返らないままジュリアは問うた。
 急に覇気が消えた声色に、アジェルは不思議そうに首を傾げる。
 ジュリアは内心、焦りを感じていた。危機から脱したことによって気が抜けて、危うくそのまま振り返ろうしていた。しかし、一つの問題に気付き、ジュリアはうつむく。
 時間が必要だった。
 瞳の色を隠せるだけの魔力を取り戻す時間。それを稼ぐために、ジュリアは精一杯思考を巡らせて、アジェルの足を止めようとした。己ですら忌まわしいと思っているこの色彩を、誰かに見られたく無い。親しい者ならば余計に、知られぬようにと願う。
 だが半分とはいえ、魔族の血を引いてしまっている事実は、いつまでも偽る事などできないだろう。それでも知られたくないという思いだけが、ジュリアの胸中を支配する。
 ジュリアの思惑を知らないアジェルは、その問いの答えを短く答えた。

「懐かしい夢だったよ。夢なのか、現実なのか分からないくらい」

 人を永遠に眠らせる、誘いの夢。ジュリアは夢を見たわけではないから、それがどういうものなのか知らない。ただ、その夢が恐ろしく魅力的だと聞いた事がある。人の心にもっとも色濃く残る記憶を、夢の中で繰り返すのだと。それが幸せな夢ならば、人は永遠にその夢に眠る。逆に不幸せな夢ならば、恐怖や後悔といった負の思いに囚われて、抜け出せずに闇に落ちる。それが魔族の作り出す偽りの夢。
 抜け出す事は、叶わないはずの世界。

「よく目覚められたわね」

「寝てる場合じゃないから」

「そう」

 小さく相槌を打ち、ジュリアは視線を落とした。
 普段ならば、ジュリアはうるさいくらい舌が回る。もとより喋るのは好きだし、重苦しい沈黙は苦手だ。けれど今は動揺のせいか、言葉が浮かんでこない。必死に続ける言葉を探そうとしたところで、無情にもアジェルが動いた。硬質な氷の床の上を、聞き取るのも困難な小さい足音を立てて、ジュリアへと歩み寄る。
 ジュリアはその場から逃げ出したい衝動に駆られ、それを抑えた。今逃げても、怪しまれるだけだし、いつかは知られてしまう事実だ。それでもどうにか切り抜ける術はないかと考える。
 ジュリアにとって背後から迫るのは、まるで恐怖の象徴そのものに思われた。
 足音が鼓膜を通じて脳内に重く響き、焦燥感をはやし立てる。平静を装おうと努めたが、それでも跳ね上がる鼓動は勢いを増すばかり。知らぬうちに、ジュリアは固めていた拳に力を入れた。
 正面から覗き込まれてしまえば、そこで終わりだ。
 隠してきたものが無防備に晒し出されている今、言い訳は通用しない。
 喉の奥から酸の強い唾液が上り、ジュリアは唇を一文字に引き絞る。まるで猫に追い詰められた鼠のように、ジュリアは身体を強張らせた。
 すぐ背後まで迫ったアジェルは、ジュリアの予測を裏切り、彼女の横を通り過ぎた。
 僅かに起こった微風が、ジュリアの頬を冷たく撫でる。ジュリアが視線を上げると、アジェルは水路の上に咲いた氷の花へ移動していた。ゆっくりとした動作で、氷の砂の上に寝ていた銀色のナイフを手に取る。冷ややかな氷の光を反射して、ナイフは鈍く光を零した。

「知ってるよ」

 唐突に、アジェルはそう言った。
 その言葉の意味が分からずに、ジュリアは少年の後姿を見つめる。

「……え?」

「あんたが普通の人間じゃないって、知ってる」

 ジュリアは零れんばかりに瞳を見開き、呟くように言葉を零した。

「どうして?」

 けれどアジェルはその問いに答えず、ナイフを銀色の鞘に収めて、服の隠しへとしまう。しばらく辺りを見回して、アジェルはジュリアへ振り返った。

「火、呼べる?」

「火?」

「このままじゃ、風邪引くから」

 言われて、ジュリアは己の姿を見た。
 水路へ飛び込む時に防寒着と外套は脱ぎ捨てたので、今は薄い布の服だけだ。しかし先程の攻防によって大きく裂けてしまった部分もあり、何より上から下までずぶ濡れだ。それはアジェルも同じで、紫銀の髪から透明な水が一滴、また一滴としたたり落ちていた。
 確かに、普通の人ならこのままでは風邪を引く。風邪だけで済めばいいが、この冷気の中では凍死したっておかしくない。ジュリアは寒さで死ぬ事はないが、アジェルはまた別問題である。
 しかし、ジュリアは首を縦に振る事はできなかった。
 己の瞳を隠す事もできないくらい弱っている状態であるのに、炎を呼ぶ魔術を扱えるはずが無い。

「無理かも。……魔力残ってないのよ」

「じゃあ、精霊だけでも呼べない?」

「精霊?」

 炎の魔術に限らず、魔術を使役する時には必ず精霊を召喚する。詠唱の言葉は、精霊を呼び寄せ、命を下すためのものだ。魔術は、魔族特有の特殊能力や古代魔術といった反則的な力以外、ほぼ全て精霊の力を借りる。精霊を呼び、その力を借りる代償に魔術師は己の魔力を精霊に渡す。強力な魔術ほど力の強い精霊が必要で、代償の魔力消費量も増えていく。それが、簡単な魔術の仕組みだ。
 だから、魔力の無い者が精霊を呼び寄せても、意味が無い。
 アジェルのやろうとしている事の意味が分からずに、ジュリアは不思議そうな表情を浮かべる。

「精霊の力を借りたいんだ」

「でも私、魔力残ってないわ。用もないのに呼んだりしたら、怒るんじゃないの?」

 ジュリアは精霊と会話した事など無いが、エルフは精霊と語らうらしい。それはつまり、精霊にも心があるという事だ。魔力を与えられない人に呼び出されて、気分を害さない精霊などいないだろう。

「大丈夫だと思う。俺が話すから」

「本当に? ……分かった。呼び出すだけだからね」

 精霊を呼ぶ事自体にも、微量だが魔力を必要とする。幸い、それくらいの力ならば、今のジュリアにも残されていた。魔術を使役する事は出来ないが、精霊を呼び出す事は出来る。話して通じる相手なのかは分からないが、ジュリアはアジェルの言葉を信じる事にした。
 口の中で小さく呪文を唱え、遥か遠くに存在する炎の精霊に呼びかける。すぐさま微弱な魔力の流れに、異質な存在が反応する。精霊が間近に来たのだと判断し、ジュリアは最後の一句を紡いで、手を翳した。
 ふわりと柔らかな風が巻き起こり、ジュリアの指先に薄紅色の光が現れる。
 形を持たない精霊は、現世に現れる時にこうして光の球体となって人の目に映る。

「呼んだわよ」

「じゃあ、少し待って」

 それだけ言うと、アジェルはジュリアのすぐ目の前に屈みこみ、光の球体へ手を伸ばした。
 重力を感じさせない滑らかな動きで、淡く色付いた光はアジェルの手の上に移動する。両の手ですくい上げるようにアジェルは光を持ち上げて、己の目の前に掲げた。
 そして薄い唇を開き、ジュリアの知らない言葉を紡ぎだす。まるで歌っているとさえ思える、滑らかで美しい響きを持つ言葉。それは風の囁きに木々の葉が揺れるような、静かでいて心地よい耳障りであった。
 精霊と話す言葉は、恐らくエルフ語だ。
 神話の上では、エルフは精霊と人とが交わり生まれた種族だという。故にエルフは精霊の眷属であり、言葉も同じものを使う。人型の種であるエルフが、人間とは違う神秘性を持つように見えるのは、秀でた姿かたちの違いよりも、その美しい響きを持つ独特の言葉が理由に思えた。
 アジェルが囁くように声を紡ぐ度に、精霊はより強く輝いたりと動きをみせる。言葉を発しているのはアジェルだけだが、精霊はその光の具合で返事をしているように見えた。
 ジュリアは一人と一つの姿をぼんやりと見つめ、成り行きを見守る。
 しばらく続いた会話は、アジェルの言葉で終わりを告げた。
 アジェルは手の上の精霊を解き放つように、腕を伸ばして空へ差し出す。すると薄紅色の光の球体は、アジェルの手中から飛び立ち、空中へ舞い上がる。精霊はジュリアとアジェルの丁度真ん中辺りに移動すると、ぴたりと動きを止めた。






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