遠い偽りの夢


「――それは」

 灰色の瞳が大きく見開かれて、ケイは動揺を隠しきれずに己の水晶とアジェルの水晶を見比べた。
 ケイの持つ水晶は、綺麗な六方晶で、上部と下部は職人の手によって加工され、六角錐状になっている。けれどアジェルの持つものは、ケイの水晶の半分程度の大きさで、下部は砕けたかのように損なわれていた。
 曖昧だった夢と現実の境目が、次第に目で見えるほどはっきりと鮮明になっていく。
 アジェルが持つこの水晶は、翼族の少年と人間の少女が助けてくれたらしい、子竜が持っていた。アジェルがフィーレから逃げるように去ったあの日、子竜ミストはケイと共にフィーレに残っていたはずだった。
 それなのに、子竜は怪我をしていたと、あの少年と少女は言った。砕けたこの水晶を持って、血に塗れて、街道でぐったりしていたと。ミストの傍には誰もいなかった。そう翼族の村からやってきた二人は証言した。
 心根から正直なあの二人が嘘など吐くはずもなく、それらは確かに真実だった。
 彼の宝でもある水晶は今、アジェルの手にある。それが意味する事は、一体何だっただろうか。

「思い出すな」

 深い翳りを帯びた瞳で、ケイは言葉を零す。

「思い出したら、全部崩れちまう……」

 先程とは違い、酷く焦った様子でケイはアジェルの瞳を覗き込んだ。
 しかし、アジェルはケイの言葉を否定するように首を横に振った。
 フィーレから去る時に、一つだけ約束した。
 彼はその約束を果たせなかった。今まで一度だって約束を破った事の無い彼が、初めて嘘をついた。
 けれどそれは、果たさなかったのでは無い。果たせなかったのだ。
 その証として、血水晶はアジェルの手の中にある。

「……神の塔の封印を解いた、あの時の約束、覚えてる?」

 確かめるように、アジェルはケイに問い返す。
 ケイは瞳を伏せて、アジェルから視線を逸らした。
 重苦しい沈黙が広がり、やがて観念したようにケイは短く返事を告げた。

「ああ」

 夢などではなかった。
 アジェルは塔を開き、あるものの封印を解いてしまった。それ故に、フィーレの闇に潜む魔族に目を付けられた。命を狙われ、逃げるようにフィーレを出て、単身森の中で身を潜めた。
 アジェルの傍にいたケイも、不運な事に魔族に付け狙われた。孤児であったケイはしがらみなども無く、アジェルと共に行くと言った。だが、二人でフィーレを出るはずであったのに、森に辿り着いたのはアジェルだけだった。

「死ぬまで付き合ってやる。って言ったのにな……」

 自嘲気味に、ケイは笑った。
 だが、アジェルは笑えなかった。
 一緒に、レイルを探そうと言ってくれたのは、この少年だ。何かの解決策を見つけられるかもしれないから、外へ行こうと。
 それなのに、彼は来なかった。傷ついたミストと、半分砕けた血水晶の首飾りだけを残して、ケイは行方を眩ませた。待つ事の出来る時限は一日だけだった。けれど結局、ケイは姿を現さなかったし、長居は出来なかったアジェルは、目的が同じであるエフィーとジュリアを連れて、旅立ってしまった。
 もう二度と、ケイと会う事は出来ないと、心の奥深くでは理解していた。

「悪かったな。約束、破っちまって」

 ケイが姿を現さなかったのは、ケイのせいではない。
 もし誰かに責任があるとすれば、それはアジェル自身だといえる。関係ないはずの彼を巻き込んだ己にこそ、非があるのだ。記憶が無かったとはいえ、アジェルがフィーレに向かってしまったのは過ちとしか言いようが無い。傷の痛みに意識が薄れ掛けていたから、事を深く考えずに先走ってしまったのだ。それがどんな結果をもたらすのかも知らずに、アジェルは感情のまま進んでしまった。
 だからケイが謝る必要は無い。ケイを責める権利など、アジェルには無いのだから。

「……」

 謝るケイに返す言葉が見つからず、アジェルは銀色の睫を伏せて視線を流した。
 アジェルの返事が無いと知ると、ケイは再び言葉を吐き出した。

「助けたかったんだ。……お前、必死だったから」

 その言葉に、アジェルは首を振る。
 三年前、ケイはいかにも厄介な事情を持っていそうな、負傷したエルフを助けた。傷が癒えた後も、ケイは慈悲深く記憶を喪失していたエルフをかくまった。そして彼はエルフに、記憶が戻るまではここにいれば良いと言った。
 感謝しても仕切れないほどの恩義を、アジェルはケイより受けてきた。
 だから、彼を責めるなど論外であり、ありえない。

「結局こうなっちゃったけどさ……。でも俺は嬉しかったよ。あんたがそういう風に言ってくれてさ」

 この場所は思い出の部屋。
 生きてきた中で、もっとも幸せだった記憶。森で静かに暮らしていた時よりも、フィーレでケイと共に生きてきた三年間の方が、生きる喜びを噛み締める事ができた。楽しい時もあれば、悲しい時もあった。けれど記憶をなくして、一人の人として生きてきたこの三年間は、とても心穏やかでもあった。
 生まれ持った呪いの楔を忘れて、自分の好きなように生きることが出来た三年間。確かにその間のアジェルは、幸せであったのだと思う。
 だからこそ、この幸せな夢は覚めないで欲しい。
 ただ、そう願う。
 それでも――。

「ごめん。……でもまだ、立ち止まるわけにはいかないんだ」

 やるべき事があるから。
 夢に溺れて、立ち止まるわけにはいかない。
 本当の事を言えば、永遠にこの夢に眠りたいと思った。
 けれどそれは叶わない。叶えてはいけない。立ち止まったが最後、二度とやり直す事は出来ないのだ。
 残された時間の限界が来る前に、やり遂げなくてはいけない目的がある――。
 アジェルはゆっくりとソファーから立ち上がった。ケイに背を向けて、扉の方へと向き直る。

「これが現実なら、良かったのにな」

 ケイは少しばかり寂しげに笑った。
 これは夢。アジェルの記憶が作り出した、幸せな世界。懐かしさが込み上げたのは、この場所がアジェルにとって、もっとも思い入れが深い場所だったからだ。
 けれどそのケイの笑顔も、声も、アジェルの記憶の中の一部でしかない。
 これは現実を捨てて生きようとする人には、極上の甘い罠。
 幸せな時間に囚われてしまえば、二度と逃げられない。
 それでも、生きてさえいれば、どんな夢でもいつしか目覚めは訪れるのだ。
 幸せな世界に留まりたいという気持ちはあった。けれど、そこで立ち止まってしまっては、今まで巻き込み、犠牲にしてきた人々に面目無い。大切だったからこそ、それは思い出にして、きっぱりと別れを告げなければいけないのだ。

「巻き込んで、ごめん」

 言いたい事は山ほどあった。だが、それらを言葉にしても、聞くのは記憶の中に存在する幻だ。
 ケイはもう、いないのだ。
 それでも懐かしさばかりが溢れて、アジェルはそれらを振り切るように扉へと近づき、鉄の扉の握りを掴んだ。

「全部終わったら……」

 言いかけて、アジェルは言葉を止めた。
 出来ない約束は、するものじゃない。
 深く息を吸い込んで、瞳を閉じる。
 耳を澄ませば別の声が鼓膜を突いた。ケイではない、甲高い少女の悲鳴。

「じゃあね、ケイ」

 かつての相棒と呼べる人に別れを告げて、アジェルは扉を押した。
 夢はここで終わり。すべてを塗り潰す漆黒。それを払い除けて、覚醒するべく意識に呼びかけた。
 最後に振り返った部屋の奥で、ケイは微笑んでいた。
 そして、遠い偽りの夢に、永遠の別れを告げた。


◆◇◆◇◆


 頭上に迫った巨大なつららを、ジュリアは使い慣れた炎の魔術で相殺した。
 片腕で防護壁を維持させつつ、同時に攻撃の魔術を放つ。
(やれば出来るじゃない)
 苦し紛れに微笑んで、ジュリアは短く呪を紡ぎ、炎の矢を氷の人形めがけて放つ。紅蓮の炎は鋭い熱を持ち、標的へと真っ直ぐに飛ぶ。しかし、人形に届くか届かないかの微妙なところで、浮かび上がった氷のつぶてに阻まれ、蝋燭の炎のように、簡単にかき消えた。
 届かない事への焦燥感と、じりじりと迫る疲労の限界に、ジュリアは眩暈を覚えた。
 集中力が途切れて、維持する魔力に乱れが生じる。攻撃の手を休めて、額を押さえた刹那、鋭利なつららが緩んだ防護壁を突き抜けて水の膜の更に先、ジュリアの片腕を掠めた。
 鮮血が舞い、浅くは無い傷が大きく二の腕に開く。

「っい!」

 痛みなど感じないと思っていたが、徐々に体が寒さを凌ごうと熱を出し、麻痺していた神経が鋭敏になる。気付けば、ジュリアは全身裂傷だらけの状態だった。所々大きく裂けた傷から、止め処なく紅い血が流れて、氷の床に紅い水溜りを作った。
 限界だった。
 息が上がり、正直立っているだけでも苦痛だ。
 術を解いて、一瞬の痛みの後に楽になってしまいたいとも思う。
 自分は良くやった。相手はきっと、魔界でも指折りの上級魔族。ここまで耐えられた事自体、奇跡だったのだ。素直に負けを認めてしまうのは悔しいが、それでも力が及ばなかったのは事実だ。
(寒い……)
 体のいたるところが悲鳴を上げている。指先は冷え切っていて、むき出しの腕や足は凍傷になっているだろう。魔力を紡ぐ度に、体から生気が抜け落ちていくようで、次第に防護壁を維持する事も出来なくなってくる。
 ここで終わりなのだろうかと、ジュリアはうな垂れた。
 せめて死ぬ時は、痛くない死に方が良かった。
 そんな事を考えて、ジュリアは自嘲気味に笑った。
(馬鹿ね。私は魔族なのに、こんなにも平穏ばかり願ってる……)
 あのまま腐れた魔界にいたら、このような目には遭わなかっただろうか。エフィーと遊ぶ事をほどほどにして、魔術の修行を怠らなかったなら、少しは抵抗出来ただろうか。
 そんな後悔の念とは裏腹に、それでも幸せだった今までの思い出が蘇る。
(悔いてはいない)
 ただ幸せな日々が終わってしまうと思うと、とても残念に思えた。もう少しだけ、人として生きていたかったと願う。死んでしまえば、この仮初の姿も保てずに、醜い骸を晒さなければいけない。それだけは、嫌だった。最後まで、人としての姿でいたいのだ。
 虚ろに見つめた視界の先で、ジュリアの頭部よりも遥かに大きな、巨大なつららが見える。
 弱った防護壁では受け流せない事は、容易に予測がついた。
 ふらりと体が傾いた。倒れてしまえば、二度と立ち上がれない気がする。けれど、これ以上耐えられる自信も無く、ジュリアは視線を下に落とした。

『おやおや、強気に出てた割には、あっけないものだ』

 嘲笑を孕んだ笑い声が、酷く煩わしい。
 それでも言い返す余力も残ってはおらず、ジュリアは片膝をついた。

『今度こそ、安らかに眠るがいい』

 先ほど視界に映った巨大なつららが、ジュリアに向けて放たれた。風圧と鋭い殺気からそれを感じ取ったが、ジュリアは動かなかった。手を翳す力も次第に失われて、つぶてを受け流す能力が弱まっていく。
 せめて最後くらいは、人形を睨んでやろうと顔を上げたジュリアの横を、鋭い何かが目にも留まらぬ速さで通り過ぎた。

「……え?」

 つららは正面から襲ってきたが、決して背後からは襲ってこなかった。
 それなのに何故――。
 ジュリアの思考がそれを分析するより早く、何かが硬質なものに突き刺さる音が響いた。
 一瞬の間を置いて、鋭い疾風に飛び回っていたつららやつぶてが、宙で動きを止める。
 まるで時が止まったかと思うほど、不似合いな静寂が場に下りた。
 やがてジュリアの目前に迫っていた、巨大なつららが音を立てて氷の床に落ちた。続いて、小さなつぶてや、鋭いつららも後を追い、操り手を失ったマリオネットのように、一つ、また一つと氷の床へと転がる。
 何が起こったのか分からずに、ジュリアは呆然と人形の方を見やった。
 禍々しい氷の人形は、先ほどとは違う妙な違和感がある。目を凝らしてそれが何かを探ると、額と思われる場所に、銀色の飾りが増えていた。

『馬鹿ナ……。夢カラ……抜ケ出セル、ハ……ズハ……』

 人形の口元が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
 妙な異変に不振さを感じ、ジュリアは人形を深く観察する。人形の額にある飾りと思えたものは、よくよく見れば根深く突き刺さった銀色のナイフだった。それは氷の人形の頭部を串刺しにして、人形の奥で光を発していた金色の光が揺らいだ。

「残念だけど、夢は終わりだ」

 ジュリアのものでも、氷の人形のものでもない声が、張り詰めた空間に凛と響く。

『オノレ……』

 呪いの言葉を最後に、人形は氷の砂と化して、原型を留められずに消えた。
 突き刺さった銀のナイフだけが、乾いた音を立てて転がり、氷の上に残された。






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