遠い偽りの夢


 悲鳴にも似た、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 暗闇に佇んでいたアジェルは、その声に惹かれるように顔を上げた。
 視界に映るのは混沌とした漆黒。一条の光も無く、夢なのか現実なのかも分からない。けれど確かに誰かが呼んでいる気がして、おもむろに立ち上がる。そっと耳に手を添えて、微かな音を聞き取ろうと耳を澄ませ、瞳を閉じた。張り詰めた無音の世界の中、途切れ途切れに遥か遠くから呼び声が聞こえる。酷く耳に懐かしい音が、確かに聞き取れた。
 閉じた瞼の裏に、薄っすらと光を感じて瞳を開く。
 暗闇だけの世界に、細い光が伸びていた。ゆらゆらと陽炎のようにうつろい、光は影を落とす。半開きの扉に似ている、とアジェルは思った。その光の様子は、完全に閉じていない扉から、光が零れている様に酷似している。ふと郷愁を覚え、導かれるように細い光へと歩みを進めた。
 暗闇の出口に思われた光の先。
 近づくにつれて光は濃く鮮明になり、明るさが増していく。
 光に触れられるほど近づき、アジェルは光を遮る黒に手を伸ばした。予想違わず、伸ばした手先に、冷たい金属の感触を持つ丸い物が触れる。よく知った手触りのドアノブだと判断し、扉を開くために存在するものを、ゆっくりと引いた。
 視界が一気に明るくなり、その眩しさにアジェルは瞳を細めた。太陽にも劣らないほどに思えた光は錯覚で、すぐに視界は光に慣れて落ち着きを取り戻す。
 光の先で視界に映りこんだものは、部屋だった。
 天上からは古風なランタンを象った、灯りが吊るされている。そう広くは無い部屋の真ん中には、モスグリーンのソファーと金属と硝子で作られたテーブル、床には本や雑誌、洗濯してそのままの衣服や鉄製の置物が無造作に投げ出されていた。部屋の奥には白く塗られた木の扉が二つあり、別の部屋へ続いているようだ。人が暮らすには少しばかり狭い、芸術的なまでに散らかった部屋だ。飾り気の無いコンクリートの壁が部屋の周りを固めて、むき出しの鉄パイプが天上に覗き、辛うじて床だけは自然の素材の木を使用している。窓の隙間から入り込むのは、オイルの香りが混じった冷たい空気。
 エルフの住まう世界とは掛け離れている、普通ならば知らないはずの場所だった。
 けれどアジェルはそれらを知っていた。久しく忘れていた、望郷の思いが胸を突く。
 ――この部屋は、帰るべき家。
 つい最近まで、アジェルはここにいた。
 三年の月日を、過去を忘れて人に紛れて生きてきた部屋。
 記憶すらも全て失っていたアジェルを、受け入れてくれた人の世界。
 暗闇の先で見つけたのは、心の奥底で帰りたいと願い続けてきた場所だった。
 アジェルは扉の先へと足を踏み入れた。扉から手を離すと、支えを失った扉はゆっくりと閉じる。
 部屋に入り込むと、不意に甘い香りが鼻孔をくすぐった。
 暗闇と静寂だけの世界が、閉じた扉の奥へ遠ざけられたように、色彩や音が蘇る。
 部屋の奥から騒がしい音が続き、金属の何かをぶつけ合うような音と、悲鳴にも似た短い叫び声が上がった。アジェルのいる場所からは壁に遮られて、丁度見えない位置からだ。突然聞こえた声に反応して、アジェルは部屋の中へ飛び込んだ。
 部屋の向かって左手には、薄汚れた台所。台の上には小さな容器に詰められた砂糖やバターなどが、中身をぶちまけたまま置いてある。使用済みの食器が積み重ねられている流しの蛇口からは、水が絶え間なく流れ続けていた。
 視線を下に落とすと、そこには一人の少年が慌ただしく、濡れたタオルでオーブンの皿を取り出しているところだった。
 明るい鳶色の髪の少年は、オーブンから熱を持った皿を取り出す事に成功すると、それを持ったまま立ち上がる。そして背後にいたアジェルに気付き、驚いたような表情を浮かべた。

「あれ、いつ帰ってきた?」

 質問を投げかけられて、アジェルは言葉に詰まる。
 何故、この部屋へ帰ってきたのだろうか。
 少し前に、アジェルは自分の意志でこの部屋を、この街を出た。それは遠くない過去の事。記憶を失った三年前にこの場所に辿り着き、大切な事を思い出した今より少し前に、この部屋を後にした。二度とこの地に足を踏み入れないと思っていた。三年間を共に過ごしてきたこの少年とも、別れを告げたはずだ。
 けれど目の前に存在するのは、確かに決別したはずの少年と、以前と何も変わらない部屋。

「……ケイ」

「ん?」

 アジェルが彼の名を呼ぶと、ケイは薄い灰色の瞳を細めた。歳の割りに幼い印象を受けるケイは、瞳を細めるだけで微笑んでいるような表情に見える。普通ならばきつい印象を与えるはずのやや吊り気味の瞳は、猫のように愛嬌のあるもので、それが彼を幼く見せていた。

「なぁ、焼き林檎作ったんだけどさ、食う?」

 ケイは手に持った皿の上で、ほんのりと湯気を上げている林檎を指差す。林檎の回りにはたっぷりとバターが塗られ、芯をくり抜いた中心には砂糖とシナモンを混ぜ、オーブンにより熱せられて甘い蜜となったものが、蜂蜜色に輝いていた。
 甘い香りの正体は、彼が作った焼き林檎だったらしい。
 偶然か、それとも彼が合わせてくれているのかは判別しかねるが、ケイもアジェルも林檎が好きだった。生のままは勿論、パイに挟んで焼いたり、このように砂糖とシナモンで味付けをして蒸したりなど、様々な方法を用いて簡単な夕飯にしたものだ。食事当番は三日ごとに交代して、アジェルの時は必ずといって良いほど林檎が食卓に上がった。それをケイは笑いながら食べて、時に皮肉めいた言葉を言い合った。懐かしい事を思い出し、アジェルは表情が緩みかける。けれどそれを表面に出すのは気恥ずかしい気がして、表情を崩さないままケイの背後を指差す。

「水、出っ放しだよ」

 得意げに焼き林檎を手に持ったケイは、アジェルの言葉に振り返り、怒涛の勢いで流れていく水を見つけた。

「やべぇっ、水道代が!」

 慌てるあまりケイは開いたオーブンの蓋に足を掛けて、勢い良く流しに突っ込む。手放した焼き林檎が皿ごと宙に浮き、それを横からアジェルが腕を伸ばして受け取った。少々形が崩れ、蜜が飛び散ったが、床に落ちなかっただけ良かっただろう。

「あのなー、林檎より俺を優先するだろ、普通」

 水栓を捻り、水を止めたケイは恨みがましくアジェルを振り返った。

「食べ物は大切に、だろ?」

 前にケイに教えられた教訓を記憶の端から引っ張り出して告げてみる。
 ケイは言い返す言葉が見つからず、大きく息を吐いて肩を竦めた。

「お前も性格悪くなったよな」

「それはどうも」

「誉めてねぇって」

 呆れながらもケイは口元を歪め、苦笑してみせた。
 こんなやり取りも日常茶飯事だった。それが永遠に続くのだと、当時のアジェルは思っていたし、人に紛れて生きていくのも良いと感じていた。記憶が無いというのは、実に幸せな事だった。思い出したいという気持ちは勿論あった。けれどそれは、ここにある幸せを代償にしてしまうような気がして、心の奥底で恐れ続けてもいた。
 ケイと出会ったのは三年前の事だ。
 記憶に曖昧な部分の後、アジェルはセレスティス大陸の中心部、人間達の街であるフィーレにいた。完全に癒えていない、黒い男に切り裂かれた背の傷の痛みで、意識は朦朧としていた。それでも何故か、フィーレに行かなくてはいけないという使命感に駆られていた。目指していたものは、フィーレの中心部に聳え立つ、神々の塔。神話の中で、宝玉を巡る争いの後、世界が滅びた時も、唯一原型を損なわなかった美しい真珠色の塔だ。この数千年、塔の扉は開かれなかった。人の手に余る神々の遺跡は、どんな方法を用いても開かれはしなかったのだ。塔の扉を封じたのは、天上の神々を裏切ったとされている、古代神だ。そして彼女を手助けしたのが、封印の森の長ゲイルだった。
 フィーレの塔に辿り着く前に、傷を負っていたアジェルは力尽きて、凍える寒さを誇る街で再び意識を失った。次に目覚めたのが、この部屋だった。同時に、何故自分がこの場所にいるのかも曖昧で、当初の目的も全く思い出せない状態となっていた。右も左も知らない土地で、森へ帰る事も出来ないアジェルを、ケイはかくまってくれた。エルフと敵対関係にある人でありながら、彼は保護的だった。
 そしてフィーレに来た目的を思い出すまでの三年間。アジェルはこの場所で過ごした。人に紛れて生きる時の流れは、森での生活よりもずっと早く感じられた。同時に、充実していた。
 今思えば、時が止まれば良いと願うほど、幸せだったのだと思う。

「林檎切るから、座って待ってろって」

 ぼんやりと過去を振り返っていたアジェルは、ケイの言葉に我を取り戻した。

「……ああ」

 短くそう答え、アジェルはケイの言葉に甘えて部屋の真ん中にあるソファーに腰を下ろす。懐かしい座り心地に、本当に帰ってきたのだと感じ、どっと緊張感が抜ける。あまり柔らかくないソファーに身を沈めて、溜息をついた。

「ねぇ、塔はあれからどうなったの?」

「あれからって?」

 林檎の中心にナイフを入れて、食べやすいサイズに切り分けながらケイが答える。

「扉が開いて、封印が解けた後だよ」

 三年の歳月を経て、思い出した事。フィーレの塔へ向かった理由。アジェルには一つだけ、やらなければいけない事があった。一つの目的を果たすために、傷の痛みに耐えてフィーレの地へと足を踏み入れたのだ。そして、扉を開いた。その奥に眠るものを手にするために、神々の塔の封印を解いたのだ。

「塔の扉が開いたって? 何言ってんだよ。あれは屋敷の一つ二つ吹っ飛ばせる火薬を積んでも、傷一つ付かなかった塔だぜ? 開くわけ無いだろ」

 軽い口調で断言して、ケイは切った林檎を小皿に載せて、アジェルの方へと来た。

「お前、また変な夢でも見てたんじゃねぇの?」

 皿をテーブルの上に置いて、ケイはアジェルの横に座る。

「夢……?」

 言われてみれば、記憶が曖昧だ。
 先ほどまで暗い中にいた気がしたし、その前の事は良く思い出せない。何が現実で、何が夢だったのだろうか。その基準も分からず、どちらかが夢であるとは断言できない。今この時が夢であるかもしれないし、これまで経験してきたものが夢だったのかもしれない。夢と現実の境目は曖昧で、アジェルにはどちらが本物なのかが分からない。
 横で不思議そうにアジェルの瞳を覗き込むのは、紛れも無くケイ本人。逆毛だった鳶色の髪も黒を主体とした服装も、見慣れた彼の姿。見慣れた部屋。心地よい空間。けれど何か違和感を感じる。何かが違う。何かが足りない。具体的な内容は思い出せなかったが、一つだけ、ぽっかりと抜け落ちている何か。

「大丈夫か? 疲れてんなら、今日はさっさと休んだ方が良いぜ?」

 ケイが腕を伸ばし、アジェルの額に手を当てる。

「んー、熱は無いみたいだな。あぁ、もしかしてまた睡眠不足か?」

 眠気は無い。疲れてもいない。ただ、深く物事を考えられず、頭の中が絡み合っている感じだ。記憶が戻らなかった三年前よりも、もどかしさを感じる。大切な何かを、思い出せない焦燥感。
 ケイの視線から目線を外し、アジェルは首を振った。
 思い出すきっかけになるものはないかと、視線を落とす。
 ふと見つめたケイの胸元に、紅い水晶が下がっている。六角柱状の、見覚えのある鮮やかな緋色の水晶だ。

「ケイ、これは?」

「ん? あぁ、これか。これはお守りさ。俺の本当の親が唯一俺にくれた、文字通り誕生日の贈りもの」

 顔も知らない親だけど、と付け足して、ケイは微笑んだ。
 ケイは捨て子だった。それはアジェルも、前に彼から聞いて知っている。そしてその紅い水晶が、ケイの宝物である事も知っていた。紅玉にも劣らない鮮やかな紅に、透き通るほど澄んだ半透明の水晶。フィーレの北部にある鉱山で取れる、血水晶と呼ばれる六方晶系の鉱石だと聞いた事があった。
 そしてその水晶を、彼は肌身離さずにいつも大事に持ち歩いていた。確かに記憶にある彼は、この水晶を首飾りに加工して首からさげている。けれどそれは、アジェルの記憶にあるケイの姿。
 アジェルは己の胸元に手を当てた。服の下に、皮膚に埋められたグレンジェナよりも下辺りに、固い物体が触れる。
 セレスティス大陸を出る前日に、血だらけだった小さな子竜が運んできた、紅い水晶の首飾り。それは今、アジェルの首に下がっている。恐る恐る自分の首元に手を伸ばし、服に埋まっている黒い紐を引っ張り出す。予想違わず、アジェルの引いた紐の先には、ケイの首に下がっている水晶と、色から紐まで異様なほど酷似した水晶が輝いていた。






back home next