遠い偽りの夢


 身を守るための魔術を紡ぐ暇さえ無く、ジュリアは腕で顔面を庇う。
 避けようと思えば避けられたかもしれないが、ジュリアはそれをしなかった。もし、ジュリアがつららを避ければ、背後で横たわっているアジェルに被害が及ぶ。無防備なままの少年を庇うために、あえてジュリアはつららを真正面から受けた。
 切っ先の尖ったつららが肌を掠め、冷え切った身体に傷跡をつける。豪雨のように降り注ぐ、細やかな氷の破片と鋭利なつららの刃。けれど痛みを伝える神経は寒さにより麻痺していたため、苦痛はそれほど感じなかった。
 じっと耐え続け、やがて激しく全身を打ち付けていた氷のつぶてが止む。つららはジュリアを傷つけはしたが、深く突き刺さる事はなかった。己が致命傷を受けていないと悟り、ジュリアは腕を退けた。
 恐る恐る上げた視線の先には、予期しないものが存在していた。
 薄っすらと青く色付いた、水の膜がジュリアを守るように彼女を囲っている。勢い良く飛んできたはずのつららは、水の膜に体当たりした時点で失速し、その鋭い威力を半減させたようだ。

『水の守りとは小賢しい……』

 人形から発せられる声に影が落ちた。
 水路のまだ凍っていない場所から、水が意志を持って動き、ジュリアを庇ったたらしい。ジュリアは魔術を使った覚えは無い。呪文を唱える余裕など無かったのだから。しかし、明らかに何らかの力が働いて起こったそれは、魔術とは少しだけ違う、特殊な力。無意識のうちに、ジュリアはその力を使役していた。
 詠唱も精神集中も必要としない、魔術や古代魔術とも違う、とある一族の血に眠る力。
 忌まわしいと思いながら、今まで使うことを躊躇ってきた能力。それをジュリアは使ってしまったらしい。そうだと気付き、ジュリアは短く溜息を吐いた。

「……仕方ないわ。だって私と水は深い繋がりがあるもの。だから私を守ろうとしちゃうのよ」

 先ほど水路から這い出るときも、水はジュリアを助けた。流れを緩め、彼女の意志に従い僅かながらジュリアが水から這い出るまでの時間、動きを止めたのだ。水路の水はジュリアの意志に反応しているように思われた。
 この水は、城の主人に忠実であるはずの、遠い異世界の水。普通の水とは違い、僅かに魔力を含み、この城の主人の思惑通りに動くもの。流れの速さが急激に増したり、上からの見た目を誤魔化す事も苦ではない、清涼な水。
 それは地上界には存在するはずのないもの。
 ジュリアには慣れ親しんだ、ここではない遠い故郷にあるべきものだ。

『なるほど。確かに、この水は我が意志よりも貴方を優先するようだ』

「残念ね。でも、私には好都合だわ」

 この水はジュリアの持つ能力で操れる。城の所有者である相手では無く、彼よりも水と深い繋がりを持つジュリアを主と選んだ。本来ならばジュリアは、この力を使いたくは無かった。力を使う時には必ず現れる、忌まわしい色彩。それを厭っていたから、ジュリアはこの力を使おうとはしなかった。けれど今の状況はそうも言ってられず、己が有利になるのならば何でも利用して構わない。幸い、この力を使って浮き出てしまう特徴を、今この場で見る者はいない。
 少しの余裕を得て、ジュリアは氷の人形を睨み据えた。

「さぁ、もう一度言うわ。私達をここから解放して」

『……それは出来ませんな。例え水に守りがあろうとも、貴方のその守りは完全ではない』

 水の守りは、ジュリアへ向けられた致命傷を負わせるであろう攻撃を和らげてくれた。けれど言ってしまえばそれだけで、状況が変わったわけではない。この城にいる限りは、顔も知らない城主の思うがままで、それに対抗する力をジュリアは持ち合わせない。ジュリアが不利な状況にいるのは変わらないのだ。
 静かに迫る危機から逃れるように、ジュリアは視線を背後に移した。
 アジェルは眠っている。深い深い夢の世界に落ちて、抜け出せないまでに夢に囚われている。自らの意志で夢から這い出ない限り、目覚めは訪れないと氷の人形は言った。せめて彼が目覚めてくれれば、もう少しジュリアも動けるのだが、今はそれが叶わない。かと言って、アジェルを見捨てる事も出来そうに無かった。
 目に見えない敵を、どう相手にするべきなのかも分からない。厭らしいほど慎重な相手だと、ジュリアは心の中で毒づいた。生身では姿を現さず、氷の人形を媒体としてこちらをじわじわと追い詰める。ジュリアがそれに抗う力を持っていないと、知っているのだ。だからこそ、一瞬で命を奪わずに、手緩い方法で攻撃してくる。
 何か良い策を考えなければと思うのに、動揺しているせいかそれは浮かばない。

『可哀相に……。震えておられる。今一度、貴方に生きる機会を差し上げましょう。私は同族には寛大なのですよ』

「……何を言ってるの?」

 背筋が凍るほど、嫌な予感がした。

『うまく隠してきたおつもりのようだが、今は化けの皮が剥がれてますよ。――その、魔族の証である美しい金色の瞳』

 弾かれたように、ジュリアは己の目を押さえる。
 ジュリアのその様子を見つめて、人形は嘲笑うように口元を歪めた。

『貴方が私に仕えるのならば、貴方の命は助けてあげましょう。所詮貴方も我らと同じ、闇人の血を引く者だ』

 魔族は闇人。人を襲い、命の価値を忘れてその命を弄ぶ、欲望に忠実な生き物。それが魔族だ。呪われるために生を受けた、愚かな種族。目触りとなれば、例え親兄弟でも殺しあう、非情な者たち。平然と血の繋がりを持つ者の血肉を食らう、その浅ましい姿。全てを含めて、ジュリアは魔族を疎んでいた。憎悪にも似た感情を抱いていると言っても過言ではない。
 けれど、どんなに魔族を毛嫌いしても消えない色彩。

「――違う! 私は魔族じゃない。貴方達とは違う」

 ジュリアは魔族を嫌う立場の人間で、それ以外ではない。そう、信じてきた。姿かたちなど、どうにでも誤魔化せる。醜い部分を隠してしまえば、人でいられると思った。事実今までずっと、疑われる事なく平和に生きてきたのだ。それはこれからも続く。
 自分は人間だと思い込んでさえいれば、何も起きはしない。

「私は人間よ」

 言い聞かせるように、呟いた。

『そう、半分だけは。だがもう半分は我らと同じ血が流れている。だって貴方は、水の一族の血を引いているのだから』

 否定していたかった真実を言葉にされて、ジュリアは己を省みた。
 目前にある薄い水の膜。光に反射して映る、見慣れた己の顔。その真ん中で否定し続けてきた月色の色彩が、煌々と存在を誇示していた。忌まわしいと疎み続けてきたもの。それは決して消えない、魔族の証。

「……違う」

 否定したかった。けれど振り返った己の過去には、確かに闇が存在していた。
 水魔の一族は、魔界に存在する上層を統べる四つの一族の一つ。自然の象徴である水を操る能力を持つ魔力の高い闇人だ。
 水魔の一族は純血を尊び、他との交わりを嫌う。
 だから、ジュリアは異例の子供だった。水魔の一族の血を引きながら、魔族にとっては食い物同然の人間の血も引く存在。ジュリアの父は水魔の一族の王でもあった。けれど人間の血が水魔の一族の血を薄め、ジュリアは魔族よりも人に近い存在であり、その力も一族の中でかなり弱かった。故に蔑まれ、心無い大人たちの戯れで何度も命を落としかけた。
 半分その血を引いていながら、ジュリアにとって魔族の血は忌まわしいものでしかない。
 それが決定的になったのは、父である人が、ジュリアの母を食い殺した瞬間だった。
 今でも生々しく脳裏に浮かぶ、血の海で微笑む水魔の王と、晩餐とされた母の無残な姿。
 魔族全てを根絶やしにしてやりたいとさえ思った。幼いジュリアは怒りをそのまま露にして、父を殺そうとした。けれどそれは果たされなかった。ジュリアの腹違いの兄である人がジュリアの愚行を止め、地上に憧れていたジュリアを魔界から逃がしてくれた。
 血の繋がった家族の中で唯一優しかった兄は、ジュリアに人として生きる道を提示してくれたのだ。
 地上界に飛ばされ、右も左も分からず彷徨い歩いていた時に出会ったのが翼族の少年、エフィーだった。最後に言い渡された兄の忠告どおり、ジュリアは瞳の色を隠した。鮮やか過ぎる金色の瞳を、母と同じ翡翠色に魔術の色彩屈折を用いて誤魔化してきたのだ。
 人に紛れて生きるのは、とても楽だった。
 人間の血が混じっているお陰で、魔族独特の殺戮本能は抑えられていたし、光の無い魔界とは違い、世界は明るかった。地上に出て初めて、生きる喜びと幸せを知った。
 ジュリアにとって人として生きていく事は、とても心地よかったのだ。
 だから、魔族への憎しみも復讐も、今はもうどうでも良かった。
 このまま人間として生きていこうと、それだけを望んできたのだ。

「私はこの身に流れる血を忌まわしく思う。だから……、魔族として生きるなんてありえないのよ」

 ジュリアは人間として生きていく事を望んだ。自分さえそう信じていれば、幸せだから。
 今更、闇人の血を受け入れるつもりは無い。
 魔族として再び暗い世界で生きていくよりも、人として一瞬を輝かしく生きていたい。

『ほぅ』

「答えは否よ」

 地上に出て初めて、失いたくない大切なものが出来た。命の重さを知った。誰かを愛する事や愛される喜びも、暖かい陽の当たるこの世界で学んだ。それらの全てがジュリアにとって大切なもの。
 それを失ってしまっては、生きる意味が無い。

『なれば滅びるがいい』

 氷の人形を取り巻く殺気が増した。
 同時にジュリアは魔術を紡いだ。水の守りだけでは弱いと知っているから、更にその上から魔術の防護壁を作り出す。
 相手が次の一撃で止めを刺すのだと予測したジュリアは、己の持つ全ての魔力を防護壁へと送る。それで防げるとは思えないけれど、防がなくては命が無い。
 空気が振動した。同時に、先ほど地面へ落ちていたつららや氷のつぶてが再び浮き上がる。それだけではなく、不気味な人形の周りの氷にも亀裂が走り、鋭利な剣先を思わせる形となって、ジュリアへ切っ先を向けた。強い魔力を纏い仄かな薄紫の輝きを帯びて、数え切れない氷の破片が怪しく光る。
 氷の人形の瞳が禍々しく光ったと同時に、宙に漂っていた氷の欠片が動いた。先刻とは非にならないほどの勢いに乗り、風を引き裂いて鋭くジュリアの作り出した防護壁に突き刺さる。
 一度体当たりしたつぶては身を翻し、再びその切っ先をジュリアへ向けた。
 氷のつぶてが防護壁に衝突する度、氷の纏う魔力の余波が防護壁を破壊しようと衝撃を送る。一つ一つは大した事無い衝撃だったが、数百を超えるつぶての威力は生易しいものではなかった。
 腕を翳して防護壁を保とうとするジュリアの表情が、苦痛を浮かべた。集中力が著しく乱れ、魔力の流れに乱れが生じる。

「……っ。このままじゃ、まずいかもね」

 受身のままでは勝機は無い。
 けれど今ここで頼れるのは自分だけだ。エフィー達とははぐれてしまっているし、アジェルは眠っている。ジュリアがこの危機をどうにかしなくては、最悪の結果が訪れてしまう。
(それだけは勘弁よ)
 守るべきものを守るためには、何をすれば良いだろうか。
 前にラキアの迷宮で危機に陥った時は、エフィーも一緒にいた。二人だったからこそ、あの場を乗り切ることが出来た。けれど今はジュリアただ一人。
 今までジュリアは誰かを守っているつもりでいた。自分には守る力があるのだと思い、その力を過信していたのだ。けれど現実は一人で乗り切る事も出来ず、誰一人守れない。
 その事実が歯痒く、ジュリアは唇を噛んだ。
 縋るような思いで、背後を振り返る。視線の先には、ぴくりとも動かずに眠る少年。

「目を、覚ましてよ。アジェル……」

 ぽつりと呟いた刹那、ひと際巨大なつららが真正面から衝突した。






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