遠い偽りの夢


 視界に映っていたものが一変した。
 明るく笑いながら、村の小道を駆けずり回っていたはずであったのに、その情景は急激に暗く塗り潰される。眩しいほどの笑顔を振りまいて、隣で走っていた少女の姿も、舞い落ちる白い羽根も、懐かしい草の香りも一瞬のうちに消え失せた。
 暗い世界に一人だけ残され、呆然と立ち尽くす。
 辺りに人の気配は無く、寒気を感じるような張り詰めた空気だけが立ち込めている。
 周りを見回す。しかし空色の瞳に映るのは常闇だけ。
 何度も目を瞬いて、それが目晦ましでないのかを確かめる。そうするうちに、一つの青白い光が視界に入り込んだ。闇の中に薄っすらと浮かぶ、朧な光。それは今にもかき消えてしまいそうで、理由の分からない焦燥感が沸き起こる。
 導かれるように、エフィーは光の方へ歩き出した。近付くにつれ光がはっきりと見え、それが何であるのかを理解する。
 光の正体は、蒼い水晶だった。己の掌よりも少し大きいくらいの、蒼い石。海の青とも、空の青とも違う。もっと深い色合いの、半透明に澄んだ仄かに光る水晶。均整の取れた六角柱状で、曇りも無く傷一つ見当たらない。静かな湖水が月の光を受けて輝くように、その石は優しい光を纏っていた。

「これは……」

 宝玉は輝きを失わず、沈黙のまま暗闇に浮かんでいた。
 エフィーは恐る恐る、それに手を伸ばした。
 穢れ無き石。触れてしまうにはあまりにも神秘的で、触れた途端、崩れ落ちてしまうのではないだろうかと思ってしまうほど。微かな恐れが脳裏に浮かび、エフィーは手を止めた。
 触れてしまってはいけない気がする。何か良くない事が起こりそうで、自然と目の前の水晶から一歩後退していた。
 この世の純粋なものを集めて形にしたかのように、透明に澄んだ美しい宝石。見るものを惹きつけてやまないその姿。けれど、エフィーにはそれが酷く恐ろしいもののように思えた。第六感ともいえる何かが、宝石に触れる事を拒絶していた。
 宝石に触れず、ただ呆然とそれを見つめエフィーは立ち尽くす。

『――さぁ、それに触れて』

 暗闇の中に、聞き覚えのある声が響いた。少女とも少年ともとれる、優しい響きを持つ声。
 ラキアの地下で聞いたものと全く同じ声が、エフィーの耳元を掠めた。
 エフィーは声に従い、もう一度宝石に手を伸ばす。今度は躊躇わずに、そっと硬質な宝石を両の手で包むようにして触れた。

「冷たい」

 滑らかな感触が指先から伝わり、その氷の如き冷たさに驚く。見た目を裏切り、石と変わらないほど重量のある水晶だった。
 初めて触れるものであるのに、何故か懐かしいものを抱いているような気がした。
 同時に、胸にもやもやとした何とも形容し難い気持ちが溢れる。
 繊細な輝きを持つ水晶を己のものにしたい思う反面、それを遠ざけたいと願う自分がいる。宝石に興味を持っているわけではないが、この水晶は素直な物欲に従い、欲しいと思う。しかし、それを理性が引き止めていた。
 水晶を遠ざけたいと言うよりは、砕いてしまいたいと望んでいた。
 それは破壊衝動に酷似している。永遠に誰の手にも渡らないように、今この場で、静かに輝く水晶を地面に叩きつけてしまいたいような。そんな願望が、心の奥底から沸き起こる。

「これを破壊すれば、全てが終わる……」

 口からぽつりと言葉が零れた。
 知らない声だ。やや低く深みのある女の声。
 エフィーは驚いて己の周りに視線を走らせた。しかし、宝石に照らされた暗闇の中に人の姿は無い。すぐ耳元で聞こえたはずなのに、その声の主の姿はどこにも見当たらなかった。

「だけど、それでは今存在する命が犠牲になってしまう」

 また一度、女の声が響いた。
 すぐ間近にその音が耳へ届くのに、近くには誰もいない。先ほど脳裏に響いた、高く澄んだ誰かの声とは違い、それは現実的な響きを持っていた。まるで、自分自身が声を出すのと同じように、すぐに耳に届く声。

「だから、私は宝玉を封じる。それが、一族を裏切る行為だとしても……」

 暗闇に女の声が響くのと同時に、エフィーは一つの事に気付いた。声が発せられるたびに、自分の口が動いている。喉元から、自分の知らない声が紡ぎだされていた。
 深淵に響く、低い女の声。それはエフィーの口から発せられたものだった。

「私にはこれを破壊するだけの力があるけれど……、それでも、全ての責を負うだけの覚悟が無い」

 手の中の水晶を見つめ、エフィーはその言葉を聞いていた。己の口から発せられている言葉であるのに、全く知らない声にただ動揺する。その声が紡ぐ言葉の意味も、手の内にある水晶も、エフィーには覚えが無いもの。それなのに、心の奥底から沸き起こる懐かしさを禁じえないのは、一体何故だろうか。
 両手で触れる水晶の感触や低い女の声は、知らないと思う反面、確かに記憶の片隅に存在している気がした。まるで生まれる前から、それらを記憶していたかのよう。覚えが無いはずなのに、知っているような錯覚を覚えるのは、恐らく気のせいではない。

「私は、この宝玉を封じる事で、長く続いた争いに終止符を打つ」

 言葉を言い終え、エフィーは背後を振り返った。
 エフィーの振り向いた先には、先ほどまで存在していなかったはずの人の気配。暗闇の奥にぽつりと立ち尽くしている人影が、水晶の光に照らし出された。
 その人の全身を見止め、エフィーは息を呑んだ。
 暗闇の奥にいたのは、エルフと思わしき一人の青年。
 癖の無い長い銀髪をうなじの辺りで纏め、胸元まで流している。細身のエルフが、静かにエフィーを見つめていた。やや釣り上がり、長い睫に縁取られた澄んだ淡水の瞳は、エフィーの知る者に酷似していた。感情の動きの無い表情は精巧に作られた人形のように整い、冷たい印象こそ受けるが息を呑むほどに美しい。暗闇に青白く浮かぶその人は、紫銀の髪の少年に良く似ていた。
 まさかと思いつつも、エフィーはその人をまじまじと見つめた。確認のために相手の名を呼ぼうとする。しかし、エフィーの声は口から紡がれなかった。そして、思い通りに身体が動かない。エフィーの思惑に反して、身体はエフィーの願ってもない方向に動いた。
 ゆっくりと青年に向かって歩みを進め、素っ気無くその横を通り過ぎる。
 青年の視線を感じたが、通り過ぎた彼を振り返る事は出来なかった。
 エフィーの足が止まったのは、白い石を彫って作られた台座の前。宝石を置くための場所なのか、台座の中心には繊細な作りの金属の支えがぽつりと置いてある。
 エフィーは手に持っていた水晶を、支えの上に安置した。
 仄かな光を纏う水晶は、支えの形にぴたりと収まった。まるで、その水晶のために作られたものであるかのように、僅かな隙間も無い。
 台座に安置された水晶は、それでも光を失わず、物憂げに暗闇を照らし出していた。

「それであなたは、その後どうなさるおつもりか?」

 背後から、青年のものであろう声が耳に届く。その声は、エフィーの知るエルフよりも幾分か低く聞こえた。
 エフィーは振り返りたい心地であったが、身体が言う事を聞かず、真っ直ぐに水晶だけを見つめる。
 再び、エフィーの口元が開かれた。

「私は父に裁かれるでしょう。だけどその代償に、争いの種は永遠に失われる」

「確かに、そうかもしれない……。でも、それでは何も変わらないのでは? 宝玉そのものが失われない限り、永遠なんてものは在りえない」

 諭すような声色。何故だか、その言葉が胸に突き刺さるように痛い。
 宝玉を封じると、エフィーは言った。しかし、それでは何も変わらない。争いの種を封じただけでは、全ての争いを止める事ができない。封印さえ解かれてしまえば、宝玉は誰かの手に渡ってしまうだろう。そしてその可能性がある限り、人々は希望と言う名のもと、宝玉を求めてしまう。
 人に力と希望を与えるはずの宝玉。それは逆に、人を戦乱の渦へ巻き込むだけの呪われたもの。誰かが手にすれば、それを妬む誰かが争いを起こす。幾度となく血が流れても、人は決して諦めない。手に入りさえすれば、その後は己の思うがままなのだ。希望とは、もっとも悪質な感情なのかもしれない。
 意味の分からない言葉の往来であるはずなのに、エフィーはそれらを理解していた。
 そして己の目の前で輝く水晶が何であるのかも、今はっきりと把握する。
 深い蒼色を湛える透明な水晶。それは、神話の時代に失われたはずの、蒼き宝玉。
 僅かな沈黙を挟み、エフィーの口は再び音を吐き出した。

「でも、ひと時だとしても平穏は訪れる。封印が強固ならば、時空神もいずれ諦めるでしょう。そして悔い改めれば良い。……だから、私はこれを封じる」

「それが古代神であるあなたが出す答えですか?」

 突然聞き知った名詞が上げられ、エフィーは心の内で反応する。
 『古代神』と、背後にいる青年は言った。二人しかいないであろうこの暗闇の中、彼はエフィーをそう呼んだ。
 けれど、エフィーにはその名を呼ばれる覚えは無い。エフィーは翼族であり、地上人だ。今の今まで神族と関わった事はない。
 しかし、その言葉に答えるのは、エフィーの口から紡がれる女の声。

「そう。全ては私の裏切りで終わらせる。さぁ、ゲイル。貴方は去りなさい。ここにいれば、貴方まで裁かれてしまう」

 蒼き宝玉を見つめ、エフィーは淡々と言葉を紡ぐ。
 違和感を感じながら、それでも思い通りにならない現実。ただ成り行きに身を任せ、第三者的に二人の会話を聞き続ける。

「何もあなた一人が罪を負う必要はないでしょう、リア。それとも、あなたに全て押し付け、何もせずに見ているだけの愚者に成り下がれと仰るのですか? あなたが裁きを受けると言うのなら、せめて私も同じ罰を受けましょう」

 また一度、胸がずきりと痛んだ。
 同じ道を辿ろうと言う青年。裁かれると分かっていながら、それでも古代神と共にあろうとしている。素っ気無く、感情を込めない言葉の中。青年が古代神と呼ぶ者を想っている事が、薄っすらとエフィーにも感じ取れた。同時に、巻き込んでしまう罪悪感が心に生まれた。
 エフィーの口がもう一度開かれた。けれど戸惑っているのか、声は紡がれない。
 沈黙が降りて、それでも台座に安置された宝玉は絶えず優しい輝きを零していた。

「――」

 ようやく女の声が流れたかと思うと、それはノイズの混じったような雑音にかき消された。口元は動き、確かに何かを呟いたはずであるのに、それはエフィー自身の耳に届かない。
 音と言う音が雑音の中に飲み込まれ、視界も再び黒く染まる。
 最後までちらついていた宝玉の光も、やがて混沌のような漆黒に塗り潰された。






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