遠い偽りの夢


 途切れた記憶。
 黒い男に背後から切りつけられて、意識を失った。それは痛みによる気絶ではない。あの時、アジェルは死を感じてた。余裕があったならば泣き叫んでもおかしくはない苦痛の中、身体から生気が薄れていくのを確かに感じ取ったのだ。
(あの時、死んだはずだった)
 鋭利な刃物で深く切りつけられた背。骨まで届いたであろう、その鋭い刃。とめどなく体内の血液は流れ、自分の身体は赤い海に沈んでいた。声を絞り出す事すら出来なかった。最後に出来たのは、村を襲ったであろう男を見止める事だけ。
 未だ消えない背中の傷が、一瞬痛みを訴えた気がした。背の傷はもう塞がっている。三年の月日を隔て、既に痛みは無い。けれど死に至らしめるほどの傷を負ったにも関わらず、自分は生きていた。
 それは奇跡と呼ぶに相応しい。同時に、奇怪でもあった。
 何故生きていたのだろうか。
 その後の記憶は、随分と飛んでいる。助かった時点の記憶は、何事も無かったように空白だ。それは覚えていない訳ではない。本当に何も知らないのだ。
 知らず知らずのうちに、アジェルは己の胸元に手を当てた。
 衣服の布越しに、固い感触が指先に伝わる。
(命を司る、赤きグレンジェナ)
 丁度鎖骨と胸の真ん中辺りだろうか。ひし形状の赤い輝石が、埋められている。いつの間にか身体の一部として溶け込んでいた、神々の遺産。神話に伝わる、宝玉の涙の一欠けら。
(何故、私はこれを持ってたのだろう……)
 思い出そうとしても、思い出せない現実。
 記憶の糸を辿っても、三年前まではこの輝石を持ってはいなかったとしか思い浮かばない。
 人々に囁かれる噂では、グレンジェナは死んだ人をも蘇らせるなどと言われている。しかし、グレンジェナにそんな大層な力は無いはずだ。ほんの少し、人の生命力を増幅させるだけで、それ以上の力は無い。そう、母である古代神から聞いていた。
 もし、本当に死んだ者を蘇らせるだけの力があったとしても、誰がそれをアジェルに与えたのだろうか。曖昧な記憶の中、その部分だけは決して蘇らなかった。
 ただ一つ言える事はあった。
(私は死んだはずだった)
 ラーフォスがレイルに自分の事を死んだと伝えたのは、決して間違いではない。
 死んだはずの人が、今この場に存在するはずが無いのだ。
 レイルはそれを信じている。今更、会う事が叶うだろうか。
 そこでようやく、一つの言葉を思い出す。

『何故、三年前突然姿を消したのですか?』

 それを尋ねたのは、新世界で再会したラーフォスだ。
 三年前、彼に会っている。はっきりと思い出せるわけではないが、確かに彼と接触した。だが、何処で会ったのだろうか。その部分は曖昧で、深く思い出すことが出来ない。

『レイルは姫巫女の手により『外』へと逃がされていたけれど、貴方と他の者達は皆……』

 これもラーフォスの言葉。
 レイルは古代神の作り出した転移装置で外へと逃がされた。それはアジェルも知っている事柄。しかし何故、アジェルがその事を知っているのだろうか。レイルとは森で別れたきり、二度と会う事は無かったはず。それどころか、アジェルはその後、死んだはずだった。
 黒ずくめの男。禍々しい雰囲気を持つ男に利用され、ディクアを殺めた後、抵抗する間もなく殺されたのだ。記憶に残る男の最後の言葉。それを聞いて、何故村が襲われたのかを理解した。
 ――古代神の神石。
 かつて神族全てを裏切り、地上へ堕天した至高の女神。その記憶と力を封じた神石は、レイルが保持している。それはつまり、レイルが古代神の後継者である事を表している。
 様々な記憶を封じた神石を、神族が見逃すはずが無い。だからあのような事件が起こってしまったのだ。罪の無い森の動物やエルフまで巻き込んで、滅びに導いた。
 ――貴方と他の者達は皆……。
 やはりどう考えても、アジェルはその時に死んでいたはず。村のエルフは、神殿に退避しそびれた十数人が犠牲となっていた。神殿へ辿り着き、篭城した残りの者は、魔族の呪いによって物言わぬ石にされていた。今も封印の森の神殿で、動けないと言う苦しみに苛まれているだろう。呪いを解く事さえ出来れば、彼らは元通りになる。命が助かっているだけ良かったと言えるだろう。それでも、アジェルに呪いを解くだけの力は無い。呪いを解くことが出来るのは、呪いをかけた魔族本人だけだ。
 様々な思い出を一つ一つ繋ぎ合わせ、ようやくほぼ全ての記憶が蘇った。
 三年前の情景。
 忌まわしく、底知れぬ後悔だけが残った記憶。決して思い出したくは無かったもの。
 知らない振りをしてきたから、絶望も忘れる事が出来た。
 己の犯した罪を忘れていたから、幸せだと思い込んで笑う事が出来た。
 けれど、ひと時の幸福は所詮夢でしかない。
 夢から覚めてしまえば、再び忌まわしい記憶と共に、失意と後悔の中で生きていかなくてはならない。
 忘れてはいけないはずの記憶でありながら、忘れていたかったと願う。
 何も知らなければ良かったと、ただただ渇望した。
(ディクア……)
 かつての師であり、誰よりも心から尊敬していた人物。優しく穏やかで、アジェルを本当の家族のように接してくれていた。
 あの時、繋いだ手を放してはいけなかったのだ。
 大切な人を殺めてしまった思い出。それは後悔だけが残る、消してしまいたいほど悲しい記憶。全てが夢であれば良かった。もしくはあの時、自分も死ぬべきだった。
 忘れていた恐怖と絶望。その真ん中で、涙を流す事もできずに、心だけが深く沈んでいく。
 このまま闇に飲まれてしまっても良いとさえ思った。


◆◇◆◇◆


 氷りついた回廊に一陣の風が吹き抜けた。
 張り詰めた空気が僅かに歪み、何も無いはずの空間から光が零れ落ちた。光は少しずつ人の形を象り、ひと際眩く煌いたかと思うと、そのまま力を放出しきったように輝きを失う。しかし人の形は失われず、何も無いはずの空間に一人の人影が残った。

「はぁ、やっぱりあれだけの距離を移動するのは疲れますねぇ」

 少女とも少年とも取れる澄んだ声色が、氷りついた回廊に響いた。
 その人は宙に浮いたままつま先を伸ばし、氷の大地へゆっくりと足を着ける。
 ふわりと重力を感じさせない動作で、人影はくるりと振り返った。

「まぁ、今が絶好の機会ですし、見逃すわけにはいきませんからね」

 そう言ってその人は、振り向いた先で待ちわびていたかのように待機していた生き物に微笑みかけた。
 あどけない子供の姿をした少年だ。年の頃は十を少し過ぎたくらいだろうか。小柄な体躯を淡色の法衣で包み、不釣合いなほど大きな帽子を頭にのせている。無邪気に微笑む様は、まるで夢見る少女のよう。澄んだ海よりも深い青い瞳に、朝焼けの輝きが浮かんでいる。優しげな面立ちをした、清廉な雰囲気を纏う子供だ。
 子供は周りを調べるように見渡し、もう一度真正面に向き直る。そして細い腕を差し出した。

「おいでミスト。監視役、ご苦労様だったね」

 普段落ち着き無く動き回っているはずの子竜は、置物のように静かに少年を見つめていた。差し出された腕を見止め、やがて小さく鳴き声を上げる。そして少年の腕に導かれるように近づき、するりと少年の肩へ上った。少年は愛おしそうに子竜の頭部を撫ぜて、優しく微笑みかけた。

「どうやら皆さん、ぐっすりと夢の中のようですね」

 少年は大きな青玉色の瞳を細め、回廊の先を見つめる。そこには、ぐったりと横たわる二人の人の姿。
 黒い髪に褐色の肌が特徴的なエルフと、女性と見間違うほど姿色端麗な金の髪の青年。
 双方とも固く瞳を閉じ、夢の世界に憩っているかのようだ。

「一人、眠っていない方がいるようですが……まぁ、問題ないでしょう。ラーフォスさんが眠ってくれてると助かりますね。前に手を出さないと宣言してしまいましたし」

 少年はくすりと微笑んで、肩を竦めて見せた。小さな声で「口約束ですけど」と付け足し、死んだように眠る青年二人の横を通り抜けて、先へと進む。

「不思議ですね……。これだけの冷温の中で眠った場合、普通は体温が下がって凍死するはずなのに。どうやらこの城の主は、変わった力をお持ちのようです。……真に恐ろしきは魔族の力かもしれませんねぇ」

 一人で納得したように頷き、少年は歩く速度を速める。
 この場所に来た目的はただ一つ。眠りに乗じて、彼に接触する事。
 今までは邪魔ばかりが入って、中々長時間の接触を試みる事ができなかった。けれど今は、誰も彼の傍にいない。これを好機と呼ばず何と言うのだろう。
 はやる気持ちを押さえ沈黙のまま歩き続けた先に、通路にぽっかりと開いた大穴を見つけた。少年はふと興味を引かれ立ち止まる。それをしばらく見ていたが、すぐに我に返り、再び歩みを進める。
 氷の廊下は滑りやすく、とても走る事などできない。けれど少年は完全に足を床につけていなかった。本当に際どいくらいの隙間に空気を挟み、ふんわりとした軽い足取りで歩いている。故に、少年の歩いた痕跡は全く残りはしなかった。

「あぁ、いたいた。随分と進んでたみたいだね。これ以上進まれてたら、あの子達と合流されちゃうところだったよ」

 少年の視線の先には、うつ伏せになって瞳を閉じているエフィーがいた。冷たい氷の床に張り付くように、ぐったりとしている。けれど呼吸や体温に異常は無く、ただ眠っているだけのようだ。
 少年は別の場所で眠る少年と、一人だけ眠りに落ちていない少女を思い浮かべた。現在の様子が、記憶装置が情報伝達するように脳裏に流れ込み、そう遠くない場所にいるはずの少女の声が聞こえた。必死に何かを叫んでいる。敵意を孕む目線で、きつく天上を見つめていた。
 気になったのは、その異質な瞳。人に見られない特徴が、彼女に浮き出ていた。
(なるほど、そういう事……。どうりで、一人だけ眠らない訳だ)
 あの様子ならば、しばらく時間を稼いでくれそうだ。
 満足そうに微笑を浮かべ、少年は倒れているエフィーに近付いた。

「フェイダの息子、エフィー・ガートレン。こうして生身で会うのは、初めてですね」

 勿論、答えは無い。
 深い深い暗闇に心を憩わせ、眠り続けている少年。己がいつの間に眠ってしまったのかも、理解していないだろう。凍てついたこの空間は、夢と現実を摩り替える。辺りに満ちている不思議の力。それに耐性の無い者は、簡単に夢の世界へと引きずり込まれてしまうのだろう。
 魔術に耐性を持たないエフィーは、あっけなくこの城の主の罠に掛かってしまった。
 しかしそんな事にはお構い無しに、少年はエフィーの傍らに膝をついた。

「以前、僕は貴方に一つの問いかけをした。貴方はそれに答えなかった。その時僕は、貴方が記憶を保持していると思っていたのに、貴方は何も知らなかった。だけどね、運命の輪が回り始めてしまった今、貴方が何も知らないでいるのは危険なんだ。フェイダやリアの二の舞にならないためにも、貴方が知りたいと思う事を、少しだけ思い出させてあげる」

 少年はそっとエフィーの額に手を伸ばした。長く伸ばされた茶色の前髪を払い除け、額にあるものを露にする。額の中心部には、青く輝く鮮やかな輝石。神の所有物であり、人の手にあるはずのないものが、静かに己を誇示するように煌きを零していた。

「封じられた彼女の記憶を、少しだけ夢で見るといいよ」

 優しく微笑みかけて、少年はエフィーの額に手を翳した。
 華奢な指先から光が溢れ、エフィーの額の輝石に吸い込まれていく。
 異質な力が流れ込む事に不快感を感じたのか、エフィーは身を強張らせ、眉頭を僅かに寄せた。それでも目覚める気配を見せず、エフィーは深く眠りの底へと落ちていく。
 彼の見ていた幼い頃の思い出は押し流され、やがて全く覚えの無い記憶が夢に溢れた。

「さぁ、貴方の望む答えを見つめて……」






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