遠い偽りの夢


 夢は終わるべきだった。
 手を引かれたまま、ディクアについていくまでが夢の物語で、目が覚めたら全て何も無かった事になれば良かった。悪夢だと解釈して、そこで終わりにすれば良かった。けれどこれは夢で終わなかった。
 弟を探しに行くだけの道。まだそこに魔族の手は伸びていない。
 背後から聞こえる魔物の咆哮。それから逃げるように、必死に走った。背の高いディクアは歩幅も大きく、まだ子供だったアジェルはついていくのが精一杯だ。それでも引けは取らないようにと、腕を引かれるままディクアの後を追い続けた。

「――っ!」

 普段よりも歩幅を広げ無理して走ったためか、足がもつれた。ディクアに引かれる手を離し、アジェルは地に手をついて転んだ。上がっていた呼吸が一瞬詰まったが、幸い怪我はしなかった。

「大丈夫?」

 すぐさまディクアが駆け戻ってきて、アジェルの前に腕を差し出す。
 アジェルはこくりと頷いて、その手を取ろうとした。しかし、腕の中に覚えの無いものが存在していることに気付いて、己の手にあるものをまじまじと見つめた。
 両手に一振りずつ、装飾の無いシンプルな短剣が握られていた。
 それは、アジェルが常に護身用に持ち歩いている、魔道で加工された短剣だ。普段は邪魔にならないようにと、指輪の形を保ち、両手の中指にそれぞれはめられている。特殊な金属を用いて、魔力を込めて作られているため、アジェルが望めばいつでも短剣の形になる。だが、今それを望んだ覚えは無い。
 動揺しているのだろうかと心の内で嘲笑して、アジェルは短剣を指輪に戻そうとした。

「アジェル?」

 ディクアが不思議そうにこちらを見つめている。
 心配をかけてはいけないと思い、短剣に指輪の形になるように命令する。だが、短剣は己の意思に反して、指輪に戻らなかった。どんなに命じても、それが銀の飾り気の無い指輪の姿に変化する様子はない。それどころか、腕を動かすことも出来なかった。
 あまりにも不気味で、アジェルは短剣を手放そうとした。持ち主の手から離れれば、短剣は自然と指輪の形を取り戻すはずだ。
 しかし、どんなに短剣を握る手を開こうとしても、その命令に腕は答えなかった。ふと気付けば、身体の自由が利かない。先ほど、魔物に恐怖を覚え動けなかったのとは違う。もっと、複雑な何か。まるで、透明な糸が体中に巻き付いて、自由を奪っているような感覚だ。
 何か異質な気配を感じる。精霊の気とは違う、禍々しく強大な力が、アジェルの中で膨れ上がる。
 ――殺せ。
 耳元で、低い声が何かを囁いた。
 途端、弾かれたようにアジェルは短剣をディクアに向けて振り上げていた。

「何を……!?」

 ディクアは驚きの声を上げながらも、アジェルの一撃を咄嗟に避けた。
 ディクアは優れた剣術使いだ。いかなる状況でも対応できるようにと、日々鍛錬を欠かさない。優しい性格と、決して屈強でない身体つきからは想像もつかないほどの技量を持っている。村で彼の剣術に敵う者はおらず、普段は族長的立場に当たるアジェルの父ゲイルを警護し、傍仕えしていた。その剣術の腕に憧れた村の若者たちが、弟子入りを願うほどだ。アジェルもそのうちの一人であり、彼から様々な護身術を学んでいた。

「どうしたんだ?」

 困惑の表情を浮かべて、ディクアはアジェルから一歩距離を置き問いかけた。
 アジェルは答えようとするが、己の意思に反して声を出す事すら出来なかった。操り人形にでもされてしまった気分だ。自由が利かないどころか、糸を引かれたかのように身体が勝手に動き出す。目に見えない力で動かされているような感覚だった。同時に、アジェルのものではない異質な力を、己の中に感じた。
 低く腰を落として、強く大地を蹴った。ディクアとの距離が一気に詰まり、左腕の短剣をディクアの喉元めがけて振るう。ディクアはそれを横に飛んで避け、更に追尾してきたアジェルの一撃を手に持った長剣で受け流した。アジェルは追うのを一時止め、身を翻して背後に下がった。

「アジェル、どうしたって言うんだ?」

 明らかに様子のおかしいアジェルを心配して、ディクアが悲痛な声を上げる。
 答えたくとも声が出ない状況に、アジェルは泣きたい気分だった。こんな事をしたい訳ではない。なのに、勝手に身体が動いてしまう。自分の身体が、自分のものではなくなってしまったようだ。意識だけははっきりとあるのに、身体の中に自分以外の意思が入り込んで、誰かが糸を引いている。アジェルは自分が操られているのだと自覚した。
 だが、誰かに操られていたとしても、アジェルがディクアを倒す事など出来る訳ない。それだけは確信していた。子供と大人の体格差、持ち合わせる筋力の差。そして絶対的な実力の差。それらを考慮すれば、ディクアが倒されるはずは無い。
 しかし、そうと分かってはいても、アジェルの心には不安だけが込み上げた。
 ディクアは優しい。誰よりも、アジェルの事を気にかけてくれた存在だ。対の存在であるレイルとアジェルを比べる者たちの、冷めた視線に怯えていた幼い頃。彼だけは二人を平等に接し、決して比べるような真似はしなかった。アジェルが何か悪い事をしてしまっても、穏やかな口調で諭し、決して怒る事はなかった。
 剣術の師として、一人の人として、アジェルはディクアを好いていた。幼い頃から兄のように慕ってきたのだ。その彼を、自分が傷つけてしまうのではないだろうかという恐怖が、目の前を絶望に染める。
 彼は強い。アジェル程度の子供など、相手にもならないはずだ。例え魔族が束になって襲ってきても、ディクア一人ならば、鮮やかな太刀裁きで切り抜けられる。
 それでも彼は優しいから、決してアジェルを傷つけようとはしないだろう。
 それが恐ろしかった。自分が傷つく事よりも、ディクアが傷ついてしまう事の方が恐ろしい。
 いっそ彼がアジェルの両手を剣の柄で叩き伏せてくれればいい。それこそ、骨が粉砕されるほど強く。短剣を握る事ができなければ、ディクアを傷つける事もないはずだ。
(ディクア……剣を弾いて)
 声に出せない願いを、必死に目で訴える。
 見つめたディクアの空色の瞳は、動揺と不安に揺れていた。

「アジェル、やめなさい!」

 今の今まで声を荒げる事のなかったディクアが、ひときわ大きな声で叫んだ。
 はっと弾かれたように、アジェルは自分の腕がどこに伸びたかを知る。しっかりと握られた短剣は、自分の首元に宛がわれていた。触れた鋭利な刃先が、柔らかな喉元を僅かに突き刺し、そこから赤い血が零れた。
 ディクアが血相を変えてこちらへ走る。
(駄目だ、こっちにきちゃいけない)
 声にならない叫びを、必死に訴えた。
 自由にならない己の身体が何をしようとしているのか。アジェルにははっきりと分かっていた。
 ディクアの腕が伸びて、己の喉元を切り裂こうとしたアジェルの腕を掴む。
(やめて……)
 ディクアが短剣をアジェルの腕から奪い、首元に感じていた金属の感触が離れた。
 そしてそれを待っていたかのように、だらりと下げていたアジェルの片腕が、勢い良く動いた。手の中には赤い陽光を受けてきらりと光る、使い慣れた一振りの短剣。
 ――殺せ。
 耳元でまた、誰かが囁いた。
 危険を感じ取り、アジェルは渾身の力を込めて声を振り絞った。

「逃げて――!」

 ディクアがアジェルの叫びに驚いて振り向く。しかし、彼の動きは際どく出遅れた。
 短剣の刃先が疾風の如き速さで弧を描き、丁度ディクアの喉元を通り過ぎた。
 ディクアの喉元に一筋、赤い線が延びる。玉のような紅の血が一瞬のうちに飛び出して、傷口がぱっくりと開いた。そこから噴水のように血が溢れ、勢い良く飛び散る熱い血飛沫が、遠慮なくアジェルの顔にかかる。
 思考が一瞬のうちに真っ白になった。
 ディクアの身体がぐらりと揺らぎ、そのままうつぶせに倒れた。
 腕の中には赤く生々しく血を滴らせる短剣。血塗れの身体。赤い血溜り。倒れた青年。

「……そんな」

 淡い水色の瞳に映ったのは、横たわる一人の青年。
 首元から噴水のように血飛沫を上げて、ディクアがうつ伏せに倒れていた。肩に掛かるくらいの濃い茶色の髪の合間から、短く尖った耳が覗いている。それは、エルフなら誰でも知っている、人とエルフの狭間の存在であるハーフエルフの特徴。
 血の雨により広がり続ける紅の水溜りが、自分の立っているの足元まで届いた。
 アジェルはただ唖然とそれを見つめる。頭から血の気が引いていき、短剣を握る腕から力が抜けた。
 カシャンと小さな音を響かせて、短剣がするりとアジェルの手から抜け落ち、赤く染まる地面に転がった。

「ディクア」

 倒れた男の名を呼んで、アジェルはふらりと彼に近寄った。何かに魅せられ引き寄せられるように、ディクアの傍らに腰を落とし、彼を揺すった。
 ディクアは反応を示さず、変わりに血の海だけが絶えず広がり続ける。
 服が汚れるのも構わず、アジェルはうつ伏せのディクアを仰向けにさせた。彼と目線を結んだと同時に、アジェルは息を詰まらせ絶句した。
 ディクアの空色の瞳は、瞳孔が開いていた。酷く虚ろで、何も映してはいない瞳。空のように青く、常に優しい色を湛えていた瞳は、遠く死を見つめていた。

「……ディ、クア……?」

 信じられないと言うように、アジェルは首を振った。
 自由の利かなかったはずの身体は、解放されたのか、思い通り動く事ができた。
 そっと、ディクアの傷口付近の動脈に手を当てた。鼓動は、完全に停止していた。

「嘘だよね……。ディクア」

 死んだなどと信じられるはずが無い。今まで、自分の手を引いてくれていたのだ。優しい面持ちで、心配してくれていた。穏やかな声で、名前を呼んでくれていたはずなのだ。
 けれど生々しく血を滴らせる傷口は現実のもの。
 そして彼を切り裂いてしまったのは、他の誰でもなく自分自身。
 何故、身体が勝手に動いてしまったのか。そんな事を考えている余裕はアジェルにはなかった。
 やり直す術は無いのだろうか。ディクアを蘇らせる術は。傷口を癒せば生き返るのではないだろうか。
 何かをしなくてはと思うのに、何をするべきなのかを自分で考えるまで至らない。ただただ頭の中が混乱していて、目の前の青年を揺する事しかできなかった。

「ディクア。どうして……」

 こんな事態を誰が予測していただろう。
 遠くで震えているであろう弟の事も、神殿で自分の事を待っている父の事も、全て脳裏から消え去っていた。人の死を間近で目にし、そして殺してしまったのが己だと言う事実に思考が絡み合う。何かを考える事ができなかった。恐怖と悲しみが心を満たし、自然と頬に涙が伝っていた。

「どうすれば良いの……?」

 導いてくれた人を失い、動揺していた。
 そして、すぐ背後に危険が迫っていた事にも、気付く事ができなかった。

『死ねば良いのさ』

 声が背後より投げかけられて、アジェルは動きを止めた。
 その声は、先ほど耳元で聞こえた声と全く同じもの。
 振り向こうとしたが、それは叶う事なかった。
 背中に鋭い熱を感じた。左の肩から右の腰にかけて、鋭利な痛みが駆け抜ける。肉の裂ける音が体内から聞こえ、想像を絶する痛みに声も出なかった。
 苦味を帯びた鉄の味が口内に広がり、耐え切れずそれを吐き出した。
 背中が燃えるように熱い。それと反比例して、全身から血の気が引いていくのが分かる。
 全身から力が抜けてしまい、アジェルはディクアの上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。背中が激しく脈打ち、同時に自分の周りに赤い血溜りが広がっていく。ディクアのものと混じり、既にそれは血の海と表現するに相応しい状態だ。
 最後に視線だけを後ろに向けて、己の背後にいた人物を目に焼き付ける。
 漆黒の男が、血に濡れた巨大な長剣を手に立っていた。口元には満足そうな笑み。どこかで見たことのある男だった。
 黒い髪に、血のような朱の瞳。その嘲るような瞳が、深く脳裏に残る。
 しかし、最後まで漆黒の男を見つめている事はできなかった。
 次第に視界がぶれて、暗く霞んでいく。指先に力は入らず、身体は動かなかった。気の狂いそうなほどの背中の痛みだけが感覚の機能を残していた。それすらも遠のいてゆき、やがてアジェルは瞳を閉じた。

『どうやら古代神の神石を受け継いだのは、こいつではなかったようだな』

 その声を最後に、記憶は途切れていた。






back home next