遠い偽りの夢


 記憶と言うものは、忘れる事があっても失う事はない。
 一度見たもの、聞いたもの、触れたもの、その全ては曖昧であったとしても必ず記憶されているのだ。
 けれど流行く時の中で、それらのほとんどを忘れてしまった場合。誰かが記憶を持ち去ってしまったかのように、ぽっかりと思い出したい場所だけ記憶が抜けている。思い出そうと記憶の糸を辿っても、抜け落ちた部分は空白で、脳裏に蘇ることは無かった。
 それらを取り戻したいと願い続けていた。けれど同時に、取り戻すのを恐れてもいた。
 人は心から否定したい記憶がある場合、忘れようと脳内で無かった事にしてしまう事があるらしい。見てしまったものを見なかった事に。聞いてしまった声を、聞かなかった事に。触れてしまったものを、触らなかった事に。否定する気持ちが、己を守るために『忘却』という方法で全てを消去する。
 だから、もしも抜け落ちている記憶が『嫌な事』であったら。
 そう思うと、好奇心よりも恐怖が勝った。知りたいと願う心は、平穏を望む心に包まれ押し留められた。知りたいと願う反面、それは酷く恐ろしく思える。
 しかし、一度記憶してしまったものは完全に消える事などない。
 忘れてしまったと思っていても、ふとした瞬間に思い出す事だってあるのだ。
 そして自分は、忘れていたものが何かを、はっきりと自覚していた。
(これは夢。過ぎたはずの遠い日々)
 漆黒に塗り潰された空間で、一人呆然と立ち尽くしていた。
 真っ暗闇の中にいるはずなのに、瞼の裏には違うものが映っていた。
 走馬灯のように脳裏を駆け巡る、覚えのないはずの遠い日々の情景。
 記憶に曖昧だった、まだ母が生きていた時。弟をしかりつけていた時。歌を教えてもらった時。喜んだ事。悲しかった事。心の奥底から否定してしまいたかった事。様々な場面が、浮かんでは消えた。
 どんなに否定しても、それらは消える事無く脳裏に焼きついていく。
 いや、正確には忘れていたものが、次第にはっきりと鮮明になっているのだ。
 目を背けたいと望みつつ、それでも浮かび上がる情景は消えず、深く記憶に刻まれ続ける。
(全てが夢であれば)
 どんなに良かっただろうか。
 暗闇に飲まれながら、ただひたすら後悔の念だけが心を充満する。
 光の速さで駆け巡る様々な情景は、ようやく途切れた。
 辺りは暗く、背筋が凍るほど静まり返っている。目を開いていても深淵だけが立ち込めて、それ以外の存在を見つける事は出来なかった。
(忘れていたのは、きっと……)
 何かを思い出し、停止していた脳を動かす。しかし、続きを考える事は出来なかった。
 腕にぬるりとした感触を感じ取り、アジェルは己の腕を見つめた。
 暗闇の中にいるはずなのに、己の腕だけは妙に白く浮かんで見える。そして、白に塗られた紅。どろりとした赤黒い液体が、アジェルの手を染め上げている。それが何かを悟り、表情を強張らせ思考を止めた。

「あ……」

 いつの間にか、目の前は真っ白に変わっていた。光の中心にでもいるような、眩いほど白い世界。
 腕にはねっとりとした生暖かい血が纏わりつき、手中に血塗れの短剣が存在していた。
 そこでようやく、アジェルは自分自身が血だらけだと言う事実に気付いた。紫銀の髪から身に纏う服に至るまで、赤い液体がこびり付いている。己の身体から流れる血ではなかった。実際、アジェルには多量の出血を促す傷は見当たらない。
 この血は自分のものではない。そう理解して、アジェルは視線を先に延ばした。

「……そんな」

 淡い水色の瞳に映ったのは、横たわる一人の青年。
 首元から噴水のように血飛沫を上げて、男がうつ伏せに倒れていた。肩に掛かるくらいの濃い茶色の髪の合間から、短く尖った耳が覗いている。それは、エルフなら誰でも知っている、人とエルフの狭間の存在であるハーフエルフの特徴。
 血の雨により広がり続ける紅の水溜りが、自分の立っているの足元まで届いた。
 アジェルはただ唖然とそれを見つめる。身体から血の気が引いていき、短剣を握る腕から力が抜けた。
 カシャンと小さな音を響かせて、短剣がするりとアジェルの手から抜け落ち、赤く染まる地面に転がった。

「ディクア」

 倒れた男の名を呼んで、アジェルはふらりと彼に近寄った。何かに魅せられ引き寄せられるように、ディクアの傍らに腰を落とし、彼を揺すった。
 ディクアは反応を示さず、変わりに血の海だけが絶えず広がり続ける。
 服が汚れるのも構わず、アジェルはうつ伏せのディクアを仰向けにさせた。彼と目線を結んだと同時に、アジェルは息を詰まらせ絶句した。
 ディクアの空色の瞳は、瞳孔が開いていた。酷く虚ろで、何も映してはいない瞳。空のように青く、常に優しい色を湛えていた瞳は、遠く死を見つめていた。
 骨が白く覗くほど深く切りつけられた喉元。そこから流れ続ける赤い飛沫。徐々に血の気を引かせていく、白い頬。赤い血痕。冷たい手。そして、己の手中にあった血塗れの短剣。
 それは記憶に新しい、三年前の情景。
 まだ子供だった時の、自分の中にあるもっとも忌まわしい記憶だった。


 焼けるように禍々しい赤い空。赤い大地。吐き気を催す濃い血の香り。蠢く闇。
 三年前のこの日、村は襲撃を受けた。それが誰の手によって行われたのか、しっかりと記憶している。
 数人の上級魔族と、百を越えるであろう汚らわしい魔物たち。それと漆黒の男。
 この日、アジェルは父と弟二人と共に、海に近い森の外側に遊びに行っていた。一日の始まりは至って平穏で、普段と変わらない日常のはずだった。一月も前から約束していた、家族で出かけるという事に、酷く浮かれていた記憶がある。
 アジェルの父は封印の森のエルフ達にとって族長的な存在だ。いつ襲い来るか分からないフィーレの人間に厳しい監視の目と、斥候への対応。森の動物達を守るための策を考えるなど、忙しい日々に追われていた。故に、父として子供達にかまう時間は極端に少ない。
 だがアジェルは寂しそうな幼い弟の為に、一日だけ暇を取ってくれるよう一月も前から頼み込んだ。父は優しく穏やかだが、子供に対し甘やかすような真似をする人ではない。父子の絆はあっても、どこか距離を感じる関係だった。それは母がこの世を去った時から、変わることの無い現実。しかし、必死につきまとって頼み込んだ甲斐があり、その日、家族四人だけで出かける事が出来たのだ。もう一人、血の繋がらない義理の姉がいたが、彼女は巫女の役を持っていたために、その日は同行しなかった。悲しそうにアジェル達を見送った少女の瞳は、取り残される寂しさとは別の、不安に揺れていた。
 ――それが全ての始まりだった。
 夕刻に差し掛かった頃、東の空が赤く染まっていた。緋色に揺れる陽の沈む西ではなく、村の方角である東の空が赤く燃えていたのだ。火の手が上がったのだと理解し、父はすぐさま村の方へ走り出し戻っていった。三人の子供に、その場を動くなと言い残し、父の姿は森の暗闇に飲まれて消えた。
 残されたアジェルは、三つ下の幼い弟を抱きしめて、不安に耐えながらその場にいた。まだ十を越えたばかりの末の弟は、酷く怯えきって震えていた。
 森での火事の原因は、大半が人間達の襲来である。つまり、この森を欲しているフィーレの人間達が、攻めてきたか何かなのだろう。森にこもり、彷徨の呪いを用いるだけでは、完全に人間達を押し留められない。彼らが森に火を放てば、エルフ達はそれを阻止するために森の外側へ出て来ざる終えない。人間達の目的はそれだ。エルフさえ全滅させる事が出来れば、森は呪いから解放される。だが、まだ子供であったアジェルは、その事を詳しく知らなかった。ただ、森の外側で小規模な争いが起こっているのは知っている。今回もまた、そういう事なのだろうと思っていた。
 どんな理由があるにせよ、争いが起こっていると言うのは、心情が穏やかではない。
 その場に佇んで、どれくらいの時が流れただろうか。
 突如、村の方角から空気を引き裂くような鋭い叫び声が上がった。同時に、聞き覚えの無い獣の咆哮。火の手は広がり続けているのか、東の空は嫌悪感を抱くほど禍々しい紅に染まっていた。
 耐え切れなかったのか、もう一人の弟が立ち上がり「様子を見てくる!」と言って村へ駆けて行ってしまった。声を張り上げて止めようと叫んだが、声は届かず、弟は帰ってこなかった。それが、最後に見た弟の姿。生まれた時よりずっと一緒に過ごしてきた、双子の片割れであるレイルとの別れだった。
 父と同じ方向へ去ってしまったレイルを見て、末の弟は酷く困惑していた。
 レイルは母である古代神の力を受け継いでる。破壊と再生を司る、神族の中でもっとも強い力を持つ女神の魔力を。末の弟は、兄に当たるレイルを尊敬していた。同時に、その巨大な力に憧れてもいた。絶対的な力は心強く、どのような状況でも頼りに出来ると思っていたのだろう。だが、そのレイルが遠くへ行ってしまった事により、弟の不安は増してしまったようだ。
 自分に弟を安心させるだけの力があれば良かったのだが、残念な事にアジェルはレイルのように強い力を持っていない。父の言いつけを守り、弟と共に潜んでいるのが精一杯だった。そう、多分そこで弟と共に動かずに隠れていれば良かった。しかし、込み上げる不安を留める事ができずに、とうとう幼い弟一人をその場に残して、行動に出てしまった。
 父とレイルの後を追って、村の方へと行ってしまった。
 それが、全ての間違いと悪夢の始まり。


 惨劇が繰り広げられていた。
 そこに人間の気配は無い。彼らよりも遥かに忌まわしいものが、我が物顔で森を破壊していた。
 村の広場を蹂躙しているのは異形の魔物。心優しい森の獣を襲い、その鋭い牙の餌食にしていた。辺りは濃い血の臭いと魔物独特の獣臭に満ちていて、息をするのも苦痛であった。
 村の家々の壁に飛び散った血の跡。地面には原形を留めない、人であったものの姿。頭蓋骨を粉砕され、脳漿を飛び散らせ赤黒く染まった頭部。肩と腕が切断された身体。そこから溢れる血を啜る、残酷な魔物。
 気分が悪くなり、声も出なかった。足は氷りついたように固まり、動く事さえままならない。震えを押さえつけ、懸命に吐き気を堪えた。
 村のいたるところに炎が上がっていた。大地を舐め渡り、森や空を焼き尽くそうと燃え広がる。
 自分以外のエルフは誰一人動いていなかった。見渡す限りの凄惨な情景に、ただただ絶望を噛み締めた。
 そして、生まれて初めて恐怖を感じた。
 男だったと思われる骸の血肉を味わっていた魔物が、木の陰に隠れていたアジェルに気付いた。
 にんまりと微笑を浮かべ、魔物はゆらりと身体を起こして震える子供に向き直った。
 狼に似ている獣だった。大人の背丈を優に超える巨大な体躯と、太い前足の先で赤く染まった鋭い爪。口元は今まで啜っていた血で生々しく汚れていた。
 魔物の金色の瞳と目線が合う。同時に、己の『死』を覚悟した。
 獣が迫ってくるのを見つめながら、それでも金縛りに合ってしまったように、身体は思い通りに動いてはくれなかった。
 魔物の太い前足が振り上げられて、鋭い衝撃がアジェルを襲った。
 勢い良く背を地面に叩きつけ、一瞬呼吸が出来ず、痺れるような痛みに小さく呻いた。
 しかし、血は流れなかった。叩きつけられた背中のみ、痛みを感じるだけ。魔物の爪に引き裂かれるはずであったのに、外傷は無い。不思議に思い目線を上げると、一人の青年が自分を庇うように立っていた。
 青年は魔物の口に、長い剣を突き刺していた。
 アジェルを襲おうと振り上げられた魔物の腕は、力なく下がる。狼に似た魔物の巨体がぐらりと傾き、重みを含んだ音を立てて大地に倒れた。
 青年が、肩に掛かるくらいに伸ばした髪を払い、こちらに振り向く。

「大丈夫?」

 空色の瞳が心配そうにアジェルを覗き込んだ。

「ディクア……」

 小さく声を絞り出し、アジェルは危機を救ってくれた青年を見上げた。
 ディクアは優しく微笑み、血のついてしまった手を服で拭い、アジェルに腕を差し伸べた。

「怖かっただろう? もう大丈夫だ。みんなは神殿に非難したよ」

 差し出された手を握り、アジェルは何とか立ち上がる。背中の骨が軋んだが、その痛みは徐々に消えていった。

「ゲイル様も神殿に向かわれた。あとは君たちだけだ。さぁ、行こう?」

「待って。アヴィスが、まだ西の森に……」

 今も一人、怯えて震えているであろう末の弟を思い出し、アジェルはディクアの手を引いた。
 助かったのは嬉しいが、このまま弟を置いて行く事はできない。広間を蹂躙している魔物は多い。もし、森へと歩みを進めているとしたら、恐ろしい結果が予測された。

「アヴィスが……? レイルと一緒じゃなかったのか?」

 末弟のアヴィスはアジェルよりもレイルに懐いている。普段はレイルの後ばかり追っているのだ。今回はレイルが単独で行動してしまったため、アヴィスはアジェルの傍にいたに過ぎない。

「探さないと」

 まだまだ幼い末弟は、アジェル以上に己の身を守る術を持たない。魔物に見つかれば、それこそ本当に一巻の終わりだ。だが、一人で無事神殿まで辿り着く事ができるほどの力は、アジェルにも無い。
 剣術の師であるディクアは、アジェルの実力がどの程度か熟知している。剣の腕だけを見れば、アジェルはレイルに引けを取らないだけの力はある。しかし、魔術を使えないという実力の差は、どんな努力をしても埋まる事は無い。
 ここでアジェルを置いていく事もできず、ディクアは少し考えてから頷いた。

「分かった。じゃあ、一緒に見つけに行こう。絶対に、後ろから離れては駄目だよ」

「……うん」

 腕を掴まれたまま、アジェルはディクアの後に続いた。






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