氷れる眠り


 これは夢。
 瞬く間に過ぎ去ってしまった日々。
 何度も何度もやりなおしたいと願ってきた、二度と戻らない過去。
(歌声が聞こえる……)
 高く澄んだ、透明感のある優しい声。
 花のように可憐な甘い響きを持つ、子守唄にも似た懐かしい歌。
 瞳を閉じれば、踊り歌う一人の女の姿が思い浮かぶ。

「フィオレ」

 知らず知らずのうちに、ぽつりと呟いた。
 瞼の裏に映るのは、鮮やかな橙色の花畑。優雅な大胆さを持つガザニアの花が、優しく吹き抜ける風に揺れていた。見上げる空は抜けるほど青い。雲ひとつ見当たらない、晴れ渡った蒼穹。
 花畑の中心で踊るは一人の女。長い栗色の髪を風に靡かせて、蝶のように軽やかに舞う。
 腕には一杯のガザニアの花束を持ち、彼女は風と戯れていた。
 彼女は歌っていた。優しい声で、心を締め上げるほど切ない、二度と聞くとの出来ない歌を歌う。
 これは夢。
 これは幻。
 儚く消えてしまった、幸せだった時の記憶。
 瞼を開けば、再び現実に舞い戻る。

「フィオレ……」

 逸らしたくないと願いつつも、瞳を開いた。
 眼下に広がっていた花畑は消えた。眩いほどに降り注ぐ陽光も、緩やかな風も。全て眼前から遠のく。
 だが、一つだけ消えないものがあった。
 歌い、踊る女。優麗な微笑を浮かべて、その人は消えずに立っていた。
 その細い腕には収まり切れないほどのガザニアの花を抱いて、女はゆっくりと近付いてくる。
(幻だ……)
 ありえない。
 彼女はここにいるはずが無い。
 鼓動が高鳴り、息が詰まる。
 だが、女はゆっくりと近寄り続けた。
 若草色の膝丈までのワンピースの裾を揺らし、ガザニアの花を抱きしめたまま、女は微笑んでいた。優しく慈しむような、邪気の無い翠緑の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えている。

「何で、フィオレが……」

 それは幻影。
 それは白昼夢。
 永遠に失ってしまったもの。

「リューサ、どうしたの?」

 可憐な花を連想させる女は、鈴の鳴るような声で問いかけた。
 それは耳に懐かしい響きを帯びて、心の奥底にまで響く。
 もう一度、瞳を閉じて開くとそこは、虚像であったはずの花畑だった。見渡す限り橙色や桃色のガザニアが咲き誇り、鮮やかな花弁を空へ向けて広げている。空は清々しいほど高く晴れ渡り、透き通るほどに澄んでいた。
 暖かく零れ落ちる陽光が、フィオレの立つ場所に影を作る。
(幻じゃない)
 女はそっと、リューサの頬に腕を伸ばした。
 人の温もりが頬から伝わり、その細い指に自らの手を重ねた。

「リューサ?」

「いや、なんでもない」

「あなたらしくないわね、リューサ。ねぇ、花輪を作って欲しいの。わたしじゃ、上手くできなくて」

 フィオレは手に持ったガザニアをリューサに差し出した。
 色鮮やかな花畑。美しいフィオレの微笑み。若草色のワンピース。全てが懐かしい思い出であり、今でも鮮明に思い出せる。
(何故……)
 自分はどうしてここにいるのだろうか。
 先ほどまで、何をしていただろうか。
 記憶は霞がかかったように曖昧で、深く考える事ができない。ただ、目の前で花を差し出しているのは、リューサの記憶に残る大切な人。彼女の微笑のためなら、何かを犠牲にしても構わないとさえ思っていた。何よりも誰よりも、大切だと思っていた人間。
 戸惑いを感じつつ、リューサはフィオレから花束を受け取った。
(夢でも構わない……)
 もう一度、彼女の微笑を見ることが出来るのなら。

「ああ、いいぜ。とっておきの豪華な奴、作ってやるぜ?」

 にんまりと口角を上げて笑いかけ、リューサはその場に腰を下ろした。そして花束の中から二輪のガザニアの花を取る。フィオレは嬉しそうに微笑んで、リューサの横に優雅な動作で座り込んだ。


◆◇◆◇◆


 氷りつくような水の冷たさに震えながら、ジュリアは通路へと乗り上げた。
 流れる水は勢いを失い、ジュリアの周りだけ湖のように静まり返っている。未だ水の中に沈むもう一人を懸命に引っ張り、通路の上へと引きずり上げることに成功した。
 途端、止まっていた水の流れが再び元に戻り、怒涛の如く水路を進む。
 ジュリアは一息ついて、頬に張り付いた髪をかき上げた。
 普段健康的なピンクの肌は今、やや青白い。呼吸も乱れ、気分が悪そうに額を押さえる。しかし、意識のある自分はまだ大丈夫だと言い聞かせ、ジュリアは通路に横たわるエルフを揺り動かした。

「アジェル……?」

 不慮の事故によって先に水に落ちたアジェル。続いて飛び込んだジュリアが彼を見つけたとき、アジェルは意識を半分手放していた。すぐにアジェルの手を掴み引き上げようとしたが、水流の激しさに逆らえず、このような場所まで流されてしまった。
 意識を失っているらしいアジェルを仰向けにしたジュリアは、思わず絶句した。

「冗談でしょう……」

 信じられないと言った様子で、ジュリアは呟く。
 その視線は、ぴくりとも動かないアジェルに注がれていた。
 頑なに閉じられた瞳。血の気を失い、人の色味をなくしたかのような青白い肌。唇は真っ青と言っても過言ではない。だが、それはジュリアも似たり寄ったりの状況だ。彼より、少し症状がましなだけで。
 ジュリアが驚いたのは、もっと重大な事だ。
 眠っている時でも、人は必ず呼吸を繰り返す。規則正しく胸を上下させているはずなのだ。
 だが、死んだように横たわるエルフは、呼吸をしてはいなかった。

「アジェル」

 まさか死んではいないだろう。そう切に願い、ジュリアは耳を心臓の辺りに当てた。
 水に濡れた布越しに、聞き取るのも困難な鼓動が伝わる。息をしていないと思っていたが、よくよく観察してみれば小さく息を吹き返していた。
 ジュリアはほっとして緊張を解いた。

「このままじゃ、不味いわね」

 冷たい水流に飲まれたのだ。放って置いても身体は乾くかもしれないが、その前に凍死してしまう。意識が無いのならば確実だ。
 魔術で炎を呼ぶのは簡単だ。だが、それを応用する術をジュリアは知らない。
 ジュリアが幼い頃取得した術は、破壊と癒しの二つだけだ。危険から身を守るための、極端な二つの魔術。それ以外覚える必要は無かったし、覚える暇もなかった。それは勿論、正規の教育のもと覚えたわけではない。必要不可欠だから、覚えたに過ぎない。
 ――生きるために必要な力。
 ジュリアの生まれ育った場所では、それだけが唯一価値のあるものだった。
 しかし今の状況で、それがどれほど役に立つだろうか。
 己の無力さを思い知り、ジュリアはきつく唇を噛んだ。
(このままじゃいけない)
 まずは、目覚めの悪いこの少年の目を覚まさせなくてはいけない。
 あまり暴力的な方法は用いたく無いが、この際仕方が無い。ジュリアはアジェルの肩を掴むと、力の限り揺すり始めた。

「目を覚ましなさい!」

 エフィーには遠慮なく平手打ちをしたジュリアだが、アジェルにまで同じ事をするのは気が引けた。
 叩いても良いのだろうかという遠慮が出てしまうほど、彼の雰囲気は特別なのだ。頬を平手で打ちつけるのは、あまりにも可哀想だ。それは、男が女を殴れない心情に似ている。
 立場が逆であるのに、ジュリアはアジェルを殴る気になれなかった。
(こいつ、よく見れば綺麗なのね……)
 このような状況で不謹慎だと思いつつも、ジュリアは眠るエルフを見つめた。
 出会った時はエルフと言う先入観があったため、アジェルの容姿については何とも思わなかった。
 ラーフォスは素直に美人だと思うが、彼はそれを自負している感がある。そもそも服装や装飾品などが限りなく中性的だからこそ、幻想的な美しさを持つように見えるのだ。
 だが、アジェルは中性的とはまた違う。けれど決して男性的とも言い切れない。
 普段は人形めいた表情をしているから大人びて見える。だが、こうして意識を失い、無防備な様を晒している時は、普段よりも幼く見えた。
(女の子みたい)
 背も決して高くは無い。そう背の高くないエフィーと並んでも、少し低いくらいだ。身体つきはエフィーよりも、いや、ジュリアと同じくらいと言ってもいいくらい細い。声も、男にしてはやや高い。しかしそれは女性のような高さではなく、どちらとも取れない声色だ。落ち着いた響きを持つ、歌うためにあるような声。紫銀の髪が腰に届くほど長いのも、彼を男だと思わせない要因だ。
 だが、先ほど胸に耳を当てたとき、柔らかな膨らみは感じ取れなかった。
(まさかね。何、馬鹿なこと考えてるんだろう……)
 本当に、時と状況を考えるべきだ。
 思わず自嘲して、ジュリアは再びアジェルを揺さぶった。

「ねえ、目を覚ましてよ」

 先程よりも力を込めたつもりだったのだが、アジェルは指一本動かすことは無かった。
 ジュリアはその様子を見て、本当に死んでいるのではないのかと杞憂する。しかし、呼吸はしっかりと繰り返していた。安らいだ様子を見ると、眠っているのだと言う事が分かる。

「目覚めたくないほど、良い夢でも見てるの……?」

 ぽつりと呟いて、ジュリアは己の言葉にある事を思い出す。
 このような場所へと迷い込む羽目になった元凶。赤い玉座に刻まれた文字。
 リューサにもラーフォスにも読み解けなかった、暗号のような文字。
 それは、ジュリアには慣れ親しんだもの。忌まわしいと思いつつも、決して記憶から除外されることの無い、遠い故郷の言葉。

「永遠に目覚めぬ眠りを約束しよう……」

 あれは偶然ではない。あの時、確かにジュリアは気付いたのだ。
 この場所が何なのか。何故、突如床に落とし穴が広がったのか。
 その理由は唯一つ。
(まんまと、術中にはまったって訳ね)
 アジェルは目覚めない。それは水に落ちたショックでも、呼吸困難による意識混濁でもない。
 そう確信して、ジュリアは天井を見上げた。

「見えてるんでしょ? 隠れてないで出てきなさいよ!」

 鋭い氷柱がびっしりと連なる天上を見つめ、ジュリアは声高々に叫んだ。






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