氷れる眠り


 長い氷の道を進み続けた。
 すぐ傍では清涼な水の流れる心地よい音色が耳を潤す。氷の世界は人体に及ぼす被害を抜かせば、酷く美しい。人工的でない氷壁は形が不規則で、一つとして同じものはない。それぞれ淡い光を帯びて、まるで幻想の物語にでも迷い込んだような錯覚を覚える。
 通路は長く続いていた。時折緩やかな曲がり角があったが、それを抜かせば一本道であった。
 氷自体がほんのりと発光しているため、光に困る事はなかったが、それでも通路の奥まで見通せるほどの明るさは無い。せいぜい歩くに支障がないほどの照明だ。
 先を行く灰黄色の外套を纏う男は、魔術を使えるらしいが光を呼ぼうとはしない。連れを探していると言っているが、エフィーにはただ歩いているだけにしか見えなかった。
 勿論、それはエフィーも同じだ。だが、魔術を使えないエフィーは、ジュリアのように光を呼ぶことが出来ない。松明の用意はしているが、それは運が悪い事に城の広間に置いてきた荷物の中だ。まさか落とし穴に落ちるとは予期していなかっただけに、何の準備も無い。唯一の持ち物と言えば、未だ扱いなれない剣を背負っているだけだ。
 扱えないといっても、素振りの練習などは毎日欠かさずにやっている。それでも両手で持つ用の大振りな剣なので、軽々と振り回すには至らない。だが、以前のように勢い余って転ぶ事は無くなったはずだ。剣に振り回される事も少なくなった。けれど、いざ実戦で扱うには、まだまだ力量不足といえた。
(ジュリア達は無事かな……)
 水路に流されていってしまったジュリアとアジェルを思い出し、エフィーは溜息を零した。

「ディア……?」

 前を歩いていた男が、唐突に口を割った。
 エフィーが視線を向けると、男は何かを見つけたのか、ぎこちなく歩みを止めている。
 不思議に思ったエフィーは、男の横から通路の先を見つめた。

「あれは……?」

 見慣れない人の姿が、通路の先に存在していた。どうやら壁にもたれ掛かっているらしく、男に名を呼ばれてもその人は動かなかった。

「ディア」

 一度名を呼び、男は動かない人影に向かって駆けた。滑りやすい氷の上も気にせずに、軽い走りでそこへ向かう。何となく気に掛かり、エフィーは男の後を追った。

「おい、どうした」

 壁に寄りかかる人は、妙齢の女性だった。男のようにフードを深く被っていない。乳白色の防寒具を着込み、ぐったりと壁に身体を預けて、女は硬く瞳を閉じていた。微かだが単調な吐息が零れているので、恐らく眠っているか気絶しているかのどちらかだろう。
 男は女の肩を掴み、力任せに揺すった。
 だが、完全に意識を手放しているのか、女は起きる様子を見せない。

「その人が、君の連れ?」

「そうだ。おい、ディアっ! こんな所で寝ぼけてるんじゃねぇぞ」

 男は遠慮なく女の耳元で大声をあげ、目覚めを促す。しかし、女は眉間に皺を寄せたものの、眼を覚ます素振りは無い。男は舌打ちをすると、女の肩を解放した。再び壁にもたれ掛かる女の額に、先ほどエフィーにしたのと同じように手を翳す。
 仄かな紫電の光が掌から零れ、女の全身に纏わりつく。光は一瞬目も眩むほどの輝きを放つ。少しの間を置いて、光は消えた。

「……ん?」

 身動き一つしなかっ女が、小さく口を開いた。薄く瞳を開き、放心したように虚空を見つめる。
 男は女の視線の先に移動して、女の瞳を覗き込んだ。

「夢に捕まってたか?」

「え? 私は……」

 目覚めたばかりで記憶が混同しているのか、女は考え込むように目線を落とす。

「夢……。そう、あれは夢なのね。いつの間に眠っていたのかしら、私」

「俺が水路に落ちるまでは現実だろ」

 呆れるように嘆息して、男は女の前から一歩引いた。

「ああ、思い出したわ。あなたが橋で滑った私を助けようとして、代わりに落ちちゃったのよね。すぐに探しに行こうと思ったんだけど……。どうして私眠ってるのかしら?」

 腑に落ちないといった様子で、女は不思議そうに小首を傾げる。

「知らねぇよ。そもそも、あんたが疲れただの何だの抜かさなければ、こんな城に来ることもなかっただろうが」

「あらごめんなさい。でも前の町で、一晩も休まずに進もうって言ったのはどこの誰よ? 私はあなたと違って繊細に出来てるのよ。第一、最近あなた先走りすぎよ」

 やや怒気を含む男の言葉に、女は負けじと強い口調で言い返した。
 二人のやり取りを背後から眺めていたエフィーは、二人がこの場所に迷い込んでしまったのだと気付く。まさかこのような山奥に迷い込む人がいるなど思っていなかっただけに、偶然もあるものだと感心する。
 そんなエフィーを完全に無視して、二人は更に罵詈雑言混じりの言い合いを続けた。

「俺は急いでるんだ。こんな場所でもたもたしてる暇は無い」

「だったら、私を抱えて飛ぶぐらいの根性見せなさいよ。徒歩でとろとろ行くよりずっと早いし、私も疲れないわ」

 『抱えて飛ぶ』。
 その言葉にエフィーは反応を示し、疑問が浮かぶ。
 抱えて飛ぶと言う言葉で思いつくのは、エフィーがジュリアを抱き上げて空を飛ぶ場面だ。翼族は生まれつき翼を持っているので、誰かを抱えて飛ぶ事はあまりない。だが、人間であるジュリアを連れて空を飛ぶ場合、どうしても抱える必要がある。それは翼を持つ人が、翼を持たない、もしくはまだ自力で飛ぶ事のできない者と共に空を飛ぶ場合だ。
 彼は翼を持つ一族なのだろうか。
(まさか、それは無いよな)
 ありえない話だと否定する反面、それ以外の事情が思いつかない。
 抱えて飛ぶ事とは、一体どのような意味合いなのだろうか。

「君は……?」

 疑問を声に出して問おうとするが、エフィーの声は次第に激しくなる言い合いに虚しくかき消された。

「あ――! 分かった。飛べば良いんだろ」

 ぎゃあぎゃあとやかましいほどにうるさい口論は、男の声で一時終わりを告げた。
 面倒だと言わんばかりの動作で腕を振り上る。女の寄りかかっているのとは反対の氷壁へ焦点を合わせ、男は無言のまま掌を翳した。仄かな光を纏う指先に集中し、男は思い描いていた術を完成させる。
 次の瞬間、男の指先から強い光が放たれた。
 眼も開けていられないほどに眩く、それは轟音を撒き散らしながら真っ直ぐに氷壁を突き破る。光によって吹き飛ばされた空気が、鋭い風圧を纏い吹き抜けた。
 耐えられず腕で顔面を保護し、エフィーは瞳を閉じた。
 しばしの時を間に置き、やがて轟音が止んだ。

「ちょっと……。少しは手加減なさいよ! この力馬鹿」

 女の高くは無い声が響き、男はだるそうに振り返った。

「これぐらいやらねぇと、地上まで出れないだろうが。少しは感謝しろ」

 エフィーが閉じていた瞳を見開くと、光の突き抜けていった壁の無残な姿が目に映る。光の通った場所はぽっかりと穴が開き、氷は割れ、氷中に存在していた壁は崩れている。先ほどまでの幻想的な美しさは打ち壊され、まるで廃墟のような姿を晒していた。
 男の言葉を聞く限りでは、どうやら地上まで大穴を明けたらしい。薄暗いトンネルの先には、白い空間が広がっていた。

「これは……」

 どこかで見たような風景だ。
 詠唱もなしに放たれた魔術。石の壁すら容易く破壊する強大な力。それに男の声。初めて聞くにしては、新鮮味が無い。前に、どこかでこの男に会っているだろうか。それとも、ただの気のせいだろうか。
 エフィーが記憶を辿っているうちに、男が動いた。ゆっくりとした動作で女に近づく。深く被ったフードはそのまま、男は外套を捲り上げてマフラーのように首周りに巻きつけてしまう。

「ほら、さっさと行こうぜ? こんな格好で飛ぶのがどれだけ寒いか、あんたには分かんねぇだろうけどな」

 ばさりと柔らかく質量のあるものの広がる音。エフィーには動作の一つとして、当たり前のように聞きなれている音が、エフィーの耳に届く。
 まさかと思っていた事が、現実に起こる。
 振り返ったエフィーの視界に飛び込んだのは、汚れ一つ無い純白の羽。人一人が空を飛ぶために、十分すぎる大きさを持つ一対の翼が広がっていた。

「翼……」

 セレスティスを出て、エフィー以外の翼持つ人を見たのは、いつだっただろうか。
 詠唱無しに魔術で破壊活動をした人を見たのは、どこだっただろうか。
 やや高飛車な態度で、短く会話した人は、どのような人物だっただろうか。
 様々な記憶の欠片が脳裏を過ぎり、エフィーは呆然と男を見据えた。

「そうやって周りの目を気にしないから、いつも大変な目に遭うのよ? 後ろの子、驚いてるじゃない」

 絶句して立ち尽くしているエフィーをちらりと見やり、女は男の手を取って立ち上がった。

「ん? ああ、まだいたのか。ディア、こいつはただの迷子だそうだ。見られたって別に構わねぇだろ」

 けろりたした様子で、背に翼を具現化させた男は翼を動かす。
 立ち上がった女は、細身ではあるがかなり背が高く思えた。男と変わらないか、少し低い程度。エフィーと同じ目線だ。黒に近い茶色の瞳と目が合う。女は興味深くエフィーを見つめていたが、すぐに男に腕を引かれた。

「行くぞ。こんな所で無駄足を食ってたら、追いつく前に船に乗られちまう」

 せっかちなのか、男はやや強引に女を抱え上げた。そしてエフィーの前を通り過ぎて、光でぶち抜いた穴の前に立つ。緩やかな斜面を描きながら上へと向かうトンネルに一歩踏み出す。
 そこでようやく、エフィーは我に返る。
 男はそのまま翼を羽ばたいて行ってしまう気だ。何故だか引き止めなければいけない気がして、エフィーは動揺する心を押さえつけて、声を張り上げた。

「待って!」

 だが、男はエフィーの声には反応を示さなかった。
 男は大きく翼を振りかぶり、勢い良く大地を蹴って空へ羽ばたく。男に抱え上げられた女がエフィーを振り返った。だが、エフィーは男に呼びかけるのに夢中で、それに気付かなかった。
 ぽつりと残されたエフィーは、次第に遠ざかる男の背を見つめ続ける。
 白い翼。古代魔術と呼ばれている、詠唱を必要としない魔術。
 何故気付かなかったのだろう。フードに隠れて、顔が見えなかったからだろうか。
 違う。
 エフィーはもともと、『彼』の顔を見ていない。知らないのだ。会ったのはたった一度。相手はエフィーを覚えてはいないだろう状況下、エフィーは確かに『彼』に出会った。
 自らを光狼と称した、背に翼を持つ少年。それは、エフィー達が追っている人ではないのかと、常日頃思っていた人物だ。

「レイル……」

 捜し求めてきた人物。
 ラキアで聞いた情報では、連れが一人いたらしい。彼の外見の特徴は分からない。
 だが、翼を持つと言う事と、古代魔術と呼ばれる神々の秘術を使う場面を見てしまった今、彼が探し人なのだと確信に似た感情を抱く。
 追うべきだろうか。
 エフィー一人ならば、人を抱えて飛行する彼に追いつくのは、然程苦ではない。
 だが、彼を引き止める術を、エフィーは持たない。
 同郷のアジェルか、知り合いらしいラーフォスか。どちらかと対面させなければ、彼は留まってくれないように思われた。そして、その片方はジュリアと共に行方が知れない。
(探さなくちゃ……)
 ここでエフィーが男を追っても、何かが変わるわけじゃない。見込みの無い行動を起こして、水路に流された二人が取り返しのつかない状況に陥ってしまっては、全てが手遅れだ。
 先にジュリアとアジェルを探すべきだ。
 エフィーは遥か遠くまで行ってしまった男と女を見つめ、空色の瞳を細めた。
 迷いを振り切るように頭を振り、エフィーは水路の先へ向き直った。

(まずは二人を探そう)

 もし、先ほどの男がレイルならば、フェルベスに向かうはずだ。
 ルーン大陸で、フェルベスより先に道は無い。ただ広大な海だけが広がっている。
 彼らが船で別の大陸に移動するにしろ、その時はまた記録と情報を追えばいい。今までだってそうだったのだ。少し、見つけるのが先延ばしになるだけだ。
 そう判断して、エフィーはやや早足で通路を歩き出した。






back home next