氷れる眠り


 ジュリアの姿が水面下から消えた。
 エフィーは急ぎラーフォスと共にリューサを引き上げる。見た目は細身で、女性のような柔和さを持つラーフォスは、それでも力は決して弱く無かった。リューサの腕を引く背筋力は、エフィーよりも強いとすら思われる。リューサもただ引っ張られるだけでは悪いと思ったか、必死に角ばった氷に足をかけ、橋の上へ戻ろうと努力する。三人分の力が合わさり、リューサは無事橋の上へと引き上げられた。ちゃっかりと、突き刺さっていた細身剣を抱えながら。
 苦しそうに咳き込むリューサを残し、エフィーは水面を食い入るように覗き込んだ。
 さらさらと流れる水は透明であるのに、ジュリアとアジェルの姿を映さない。波紋は既に流れに飲まれ、二人が水路に落ちた名残は消えていた。

「……浮かんでこない?」

 まさかと思いつつ、エフィーは狼狽える。
 泳ぎに関して、ジュリアの右に出るものはいないとエフィーは知っている。言うなれば、それは天性の才。翼族の村の中心を流れる川で遊ぶ時、彼女は魚のように緩やかに、しかし力強く踊るように泳ぐのだ。エフィーは追いつくのもやっとで、よく深みにはまっては助けてもらった記憶がある。水の中で暴れる人を助けるのは、相当な泳力が必要だ。それをやすやすとやってのけたジュリアは、やはり泳ぐのが得意なのだろう。彼女もそれを自負して、泳げないと判断したエルフを救うため飛び込んだ。しかし、そろそろ浮かんできても良い気がするのに、二人は姿を現さない。まさか、流されたのでは無いだろうかと言う不安が脳裏を過ぎる。水の流れは緩やかとは言えない。しかし決して早くもない。ジュリアが流されたとは思いがたかった。
 それでも不安は募り、エフィーはじっと水面を見つめた。

「悪い、オレが引っ張ったみたいだ……」

 むくりと起き上がり、リューサはエフィーへと謝罪を述べる。
 アジェルが落ちたのは、慌てたリューサに引っ張られたかららしい。
 突然の事にアジェルも、対応が出来なかったのだろう。
 リューサが悪い訳ではない。先に剣に興味を持ったのはアジェルだし、剣を見つけたのはエフィーだ。原因を突き止めて誰かを責めても、虚しいだけ。そう思い、エフィーは首を横に振った。

「事故だ。それに、ジュリアは泳ぎが上手だから、すぐに浮かんでくるよ」

 この溝がどれほど深いかは分からないが、ジュリアは無事だ。身動きの取れない底なし沼に落ちたのでなければ、絶対に彼女は沈まない。それにいくら泳げないとしても、あのアジェルがじたばたもがいている様は想像できない。じっとしている相手を運ぶのは、ジュリアとしても苦ではないはずだ。
 きっとすぐに浮かんでくる。そう願い、エフィーは己を落ち着かせる。

「その剣、何だろう」

 気を紛らわせようと、エフィーはリューサの手にした剣へ向き直った。
 リューサは細身の剣を目の高さへ持って行き、それを鑑定する。柄の部分の装飾は秀麗だが、刃の方はすっきりとしてシンプルだ。すらりとした刀身は長く細いが、脆弱な印象は無く、むしろ切れ味も鋭いように見える。突く事にもなぎ払う事にも適した造りのようだ。

「エルフの剣に似てるな」

 落とし物にしては勿体無いほどの値打ち物だと付け加え、リューサは剣をエフィーに渡した。
 渡された剣を手にして、その見た目を裏切っての重みにエフィーは驚く。繊細な装飾を持つ剣だが、重いのは刃の方だ。エフィーの持つ両手用の剣には劣るが、それでもしっかりした重みがある。まんざら飾りのための剣では無いらしい。

「へぇ」

 エルフの剣と言われても、エフィーはエルフが剣を振るう姿を見たことが無い。リューサは弓を使っていたし、アジェルは武器自体あまり使わない。エルフは細身剣と弓を好むと聞くが、実際細身の剣を見たのは、これが初めてだ。

「エフィーさん、あれを」

 ラーフォスがエフィーの裾を引いて、水面下を指した。
 静かな、それでもいつもと違う響きを持ったラーフォスの声に、エフィーは振り返る。そして橋の上からちらりと見えたものに驚き、空色の目を見開く。呆然と、それを見下ろした。
 浮かび上がったのは、ジュリアでもアジェルでもない。
 けれどしっかりと見知ったものが、絶望を告げるように静かに流れていく。

「そんな……」

 流れていくのは、小さな靴。地の青に白い飾り模様が可愛らしい、趣向の凝ったもの。一足が先に流れ、氷壁の壁に開いたトンネルへ吸い込まれていった。少し遅れて、もう片方がゆっくりと水面上に顔を覗かす。
 見間違うはずは無い。それは翼族の村で、彼女のために作られた世界でたった一つの靴。小柄な少女に合わせて、標準よりもやや小さめにこしらえられたもの。彼女を溺愛する村の女達が、丁寧に作り上げた靴だった。
 見紛う事なきジュリアのそれは、冷ややかな水に流されていく。

「探してくる!」

「待って! エフィーさん!」

 まさか二人が溺れるはずは無い。
 たまたまジュリアの靴が流されただけだ。あの靴は丈夫だが、履き脱ぎは楽と言う特徴がある。悪く言えば、脱げやすいのだ。水を蹴る途中で脱げ落ちてしまっただけなのかもしれない。
 深く考えるよりも先に、エフィーは動いていた。ジュリアの飛び込んだ水面へ、勢い良く足を踏み出す。水に濡れれば、防寒用の外套はただの重荷になるという事も、頭の中から消えていた。細身の剣を置く事すらも忘れ、エフィーは水面へと飛び込んだ。
 冷たい水面に叩きつけられ、エフィーは水面下へ潜り込む。
 ぞっとするほど冷たい水は、すぐに身体全体を凍えさせる。中に着ていた服は水気を吸い、べったりと皮膚に纏わりついた。体温が急激に奪われるのを感じながら、それでもエフィーは懸命に水を掻いた。
 上から覗いていたときは気付かなかったが、水流は思いのほか早い。
 恐る恐る開いた瞳に映ったのは、深い溝の底だった。
(何だ、流れが……)
 奥へと進むにつれ、水の流れがより速くなっている気がした。それは気のせいに終わらず、急にエフィーの身体が水に浮く。己の意思とは反対に、流れに乗せられているのだと気付き、身を捻る。一度水上へと上がろうと試みたが、それは叶わなかった。
 緩やかと思っていた流れは、怒涛の如くエフィーを打ち流す。思わず口を開いてしまい、冷え切った氷のような水が喉元を過ぎた。慌ててエフィーは水を蹴り、水上を目指す。徐々に上へと向かってはいたが、既にエフィーは橋から遠く流されていた。
(駄目だ……)
 抗いがたい水の流れと、身を蝕む冷たい水。たっぷりと水を吸った衣服と外套は、錘となってエフィーを水底へと導こうとする。
 そこでようやく、何故ジュリアが浮かび上がってこられなかったのかを知る。
 急激な流れの変化。恐らく泳ぐ事ができなかったアジェルを連れ、この流れを乗り切るのは、それが泳ぎの名手だとしても無理だ。ジュリア一人ならばこの窮地を脱する事が出来たかもしれない。しかし、不幸な事に彼女はそこまで薄情ではない。
(このままじゃ、流される)
 水面は遠くない。だが、頭上を掠めた影に、エフィーは己がトンネルを越えてしまったと気付く。どうにかしなければ、流される。
(息が……)
 肺に送られるべき酸素が失われ、息苦しさにエフィーは顔を歪めた。
 水面へ出なければ。急ぐ心がエフィーの身体に鞭を打ち、水面目指し水を掻き分ける。
 水面に近づきながら、先程よりも流れが強まっている事に気付く。水路の幅は十分にあったはずだが、今は一人がぎりぎり泳ぎ抜けられる程度だ。水幅が狭まり、それによって水流が急激に早くなっている。
 あまりの苦しさに、エフィーは勢い良く水を蹴って、水上へと顔を出した。

「――ぷはっ!」

 勢い良く冷たい酸素を吸い込み、再び水の中へ飲み込まれる。
 水路の脇の通路を確認したエフィーは、そちらへと泳ぎ近づく。
 そしてもう一度水面から胸部まで飛び抜け、氷に包まれた通路に手を伸ばす。既に指先に感覚は無く、掴んだ氷はエフィーを滑らせる。流れに飲まれ、再び水面へ引き戻されそうになり、エフィーは己の片方の手に握られていた物を思い出す。
 無我夢中で水に飛び込んだため、リューサから預かった剣の存在を忘れていた。
 エフィーは勢い良くそれを氷りに突き刺し、水の流れから逃れようと奮起する。
 しかし、冷え切った身体は思うように力が入らない。氷に突き刺した剣に縋るような形で、エフィーは水の流れに耐えた。
(ジュリアとアジェルは……)
 己の窮地よりも、先に流されていった二人を案じ、エフィーは苦しげに呻く。
 冷たい水の中、感覚は麻痺して行き、やがて身体から力が抜けていく。まさかこのような状況に陥るなど、欠片も予測していなかった。ここで終わるのかと諦め始めた頃、水温とは違う音がすぐ傍で聞こえた。それが足音だと分かり、エフィーは希望を取り戻す。
 流れたジュリアとアジェルが通路に上がっていて、エフィーに気付いて戻ってきた。そう考え、エフィーは剣を握る腕に力を込めた。

「こんな所で何している?」

 投げかけられた声は、高いジュリアの声でも、落ち着いた響きのアジェルの声でもなかった。

「えっ?」

 エフィーは動揺を隠し切れず、知らない声に顔を上げる。視界の端に映ったのは、記憶に無い人だった。
 声色から男と判断するその人は、視線をエフィーの掴む剣に注いでいる。

「その剣は……」

 心当たりがあるのか、彼はエフィーに近寄る。いや、正確には、エフィーのしがみついている剣に。装飾美しい細身の剣を見つめ、男は口を開いた。

「これは俺の剣だ。お前が見つけたのか?」

「あ、うん」

「礼を言う。……悪いが、返して欲しい」

 剣を取り戻そうとした男は、エフィーが剣を離さない様を見て、訝しむ。
 エフィーも剣の持ち主にそれを返すのは大歓迎だが、状況がそれを許さない。
 剣を離せば、エフィーは再び水流に飲まれてしまう。

「その前に、助けてください……」

 今にも流されそうなエフィーを男は冷静に見つめる。そしてエフィーの状況を把握したのか、「ああ」と小さく相槌を打つ。
 本気で気付いていなかったのかと、エフィーは心の内で呆れた。

「ほら」

 男が腕を伸ばしエフィーの腕を掴む。エフィーはその手を掴み返し、懸命に水を蹴って通路に乗り上げた。冷たい水よりようやく救い出され、エフィーはぐったりと横たわる。
 震えが全身に広がり、抑える間もなく、大きくくしゃみをする。何とか上半身だけ起き上がり、エフィーは自分を助けてくれた相手を見た。
 背格好はエフィーと同じくらいだろうか。淡い灰黄色の外套で全身を包み、深くフードを被っているのでその顔は判別できない。声と口調から、まだ若いという事は分かるが、それ以上は何ともいえない人物だ。
 男はエフィーから返してもらった剣を腰の鞘に収めた。本当に彼の所持品だったらしく、灰銀の鞘はすんなり剣を受け入れた。

「で、お前は誰だ?」

 冷ややかとも取れる声色に、相手が好意的でないと感じ取る。それでも変に警戒させるよりはましだろうと、エフィーは普段よりにこやかに受け答えた。

「僕はエフィー。助けてくれてありがとう。見ての通り、しがない旅の者だよ。仲間もいるんだけど、ちょっと事情があってそこの水流に飲まれてはぐれたみたいなんだ」

「ようするに迷子か」

 きっぱりと言い切られ、内心そうではないと訴えながら、エフィーは曖昧に頷いた。

「君は?」

「俺は連れを探している。どうやらこの地下で迷ったらしくてな」

(なんだ、似たり寄ったりの状況か)
 もしかしたら彼も、偶然この辺鄙な城に迷い込んでしまったのだろうか。
 しかしここは雪山の道から逸れた場所にある城だ。誤って迷い込んだにしては、偶然が過ぎる気がする。だが、互いに仲間を探していると言う点では、一応目的は同じだ。
 そこまで考え、再びエフィーは盛大にくしゃみをする。
 衣服はすっかりと水浸しで、冷たい水のせいで身体は熱を失っていく。本当ならば濡れた服を脱ぎ、火にでも当たりたいところだが、状況的にそうも言ってられない。そもそもジュリアかラーフォス無しに、氷だらけのこの場所で火は呼べないのだ。

「風邪引くぞ」

 今にも氷りつきそうなエフィーを見下ろし、男が忠告する。

「でも僕、魔術とか使えないから……」

 今の状況を脱する術を、エフィーは持たない。
 やや間を置いて、呆れたのか男は溜息を吐いた。

「……まあ、剣を届けてもらったしな」

 それだけ言って、男は片腕を外套から出す。男性にしては少し色素の薄い指先が覗き、エフィーは顔を上げる。男の手が目前に翳され、エフィーは微かに身を強張らせた。
 男の掌がほんのりと光を帯びて、次の瞬間エフィーは身体が温まるのを感じた。頬に張り付いていた栗色の髪から水気が消え、ぐっしょりと湿っていた服が温かみを帯びて乾く。凍り付いていた指先に熱が戻り、麻痺していた感覚も解きほぐされる。まるで、ぬるま湯にでも浸かっている気分だった。身体の芯から温まったような気がする。
 男の指先から光が消えると、柔らかな温もりも消えた。変わりにさっぱりと渇いた服と髪が残る。

「今のは?」

 不思議そうに水気の抜かれた服を見つめ、エフィーは問いかけた。

「さっきのままじゃ凍え死ぬだろ」

 男なりの親切心だと受け取ったエフィーは、素直に礼を述べた。






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