氷れる眠り


 急激な落下はすぐに止んだ。
 硬く冷たい感触の床に落ちたと理解したのだが、そこで落ちる事自体は終わらなかった。
 つるりとした冷たい床は急な斜面になっているらしく、身体を起こす間もなく、そのまま回転しながら滑り落ちた。反射的に腕を伸ばし、せめて何かに縋りつこうとする。しかし周りに掴まれるようなものは存在せず、手は虚空を握った。結局何の抵抗も出来ないまま、エフィー達は長い斜面を滑り落ち続ける。視界が動転し、目くるめく瞳に映るものが変わりゆく。回転しながらの急速落下で冷えた硬質の床に身をぶつけ、知らず知らずのうちにエフィーの口から呻き声が零れた。
 やがて転げる速度が鈍くなり、エフィーは最後に四回横に転がって、ようやく先の見えない滑り台から解き放たれた。

「いたたた……」

 冷ややかな感触と驚きに跳ね上がった鼓動を残し、落下は終わりを告げた。
 腰に下げていた様々な道具の詰められた布袋に腹部を圧迫され、エフィーは苦しげにのたうつ。すぐ傍でどさりと人が転げる音がして、続いてやはり痛みを訴える声が上がる。エフィーが視線を寄越すと、黒髪の青年が頭部を抑えていた。

「一体何だってんだって……うぇっ!」

 リューサが身体を起こそうとした刹那、斜面より滑り落ちてきた何かが彼の上に人が乗りかかる。その重みに耐えかねて、リューサは再び冷たい床に頭をぶつけた。

「あらら、すみません」

 こんな時でも落ち着いた、悪く言えば緊張感の無い低い声が、リューサへ謝罪を述べる。リューサの上にはラーフォスが足から滑り落ちてきていた。運悪くラーフォスの膝がリューサの腹部に蹴りを入れ、勢い良く転げてきたらしいラーフォスは彼に被さるようにして乗りかかっている。悪気の無い膝蹴りを食らわされ、リューサはものも言えずくぐもった悲鳴を上げた。

「きゃー!! どいてどいて!」

 続いて甲高い少女の声が響き、ジュリアが勢い良く滑り落ちてくる。更にタイミングが悪い事に、彼女はリューサの足につまずき、ラーフォスの上部へと飛び上がった。咄嗟に身体を捻り、ラーフォスが倒れこんだジュリアを受け止める。背にかかる重力が増し、リューサは悲鳴を上げた。

「ぐぇっ」

 リューサは止めの一撃を受けたとばかりに痙攣を起こし、ばたりと力なくうなだれる。
 ジュリアはラーフォスの胸の上にうつ伏せで倒れ、小さく呻いた。

「何なのよこれ」

 二人をクッション変わりにしたジュリアは身体を起こし、ラーフォスの胸にぶつけたらしい鼻先を押さえる。ジュリアに押し倒された形になるラーフォスは、困ったように柳眉を潜め微笑んだ。

「建設ミスにしては、少々性質が悪いようですね」

「これが建設ミスだったら、私は設計者全員を訴えるわ!」

「検証はいいから、さっさと退けよ……」

 二人分の体重を全身で受けているリューサは、苦しげに呟いた。
 下から聞こえた声に吃驚し、ジュリアは咄嗟に眼下を見下ろす。

「やだ、リューサ何で下にいるのよ!」

 慌ててジュリアが飛び退き、ジュリアに遠慮していたらしいラーフォスも速やかに彼の上から身体を離す。ようやく重圧から解放され、リューサは塞き止められていた息を吐いた。

「……二人とも、減量した方が良いぜ」

 その言葉に反応し、ジュリアはむっと眉を吊り上げる。それをちらりと垣間見て、リューサはわざとらしい苦悶の表情を浮かべ、腰をさすって見せた。ジュリアが文句を言おうと口を開いたところで、再び彼に災難が訪れる。まるで、ジュリアの気持ちを代弁するかのように。
 エフィーが転げ落ちてきた斜面に視線を向けると、もう一人、足先で滑る勢いを調節しながらバランスを保ち落ちてくる人影が見える。それはやはり、未だ横に転がっているリューサに向かって落ちてくる。勢い良く斜面を滑るその人は、下を確認する余裕など無いらしく、リューサが気付く間もなく真っ直ぐ彼に直撃した。

「どわっ!」

 全く予想していなかったリューサは、勢い良く蹴り飛ばされる。短い悲鳴を上げ、彼はエフィーの方へと転がってきた。反射的にエフィーはそれを避ける。何の障害も無く、リューサは壁際まで転がり、再び頭をぶつけた。

「何か蹴った……? ああ、リューサか。悪いね」

 一番最後に滑り落ちてリューサを勢い良く蹴り飛ばしたアジェルは、落ちた先での惨劇を目の当たりにして、やや罰が悪そうに謝罪する。アジェルのすぐ傍で、ジュリアが笑いを堪えていた。

「……あんさん砦で引きずった事、根に持ってるだろ?」

 不幸を一身に受けたリューサは、脱力しつつぽつりと呟いた。

「何の事?」

 リューサの言葉に覚えの無いアジェルは、不思議そうにリューサを見据える。
 彼が何の事を言っているのか知っているエフィーは、慌てて二人の間に割って入った。リューサがラキアの砦でアジェルを引きずった事は、本人には秘密にしてある。物静かな割りに怒りやすい一面を持つアジェルの事だ。それを聞けばリューサに仕返しをする可能性もある。リューサはリューサで黙って怒られるを良しとはしないだろう。そんな二人にこのような場所で喧嘩されては、後々面倒だ。

「そんな事はどうだっていいからさ、今の状況をどうにかしよう」

 突然床に異変が起きて、落下した事は分かっている。しかし、それが何故突如起きたのか、エフィーには理解しかねた。それを考えるべく全員揃った事を確かめ、話題を切り出す。
 周りの状況を確認してみると、床はひんやりと冷たく透明に澄んでいる。見た限りでは氷の床か何かに思われた。暖かいとは言えなくても、それなりに寒さは防げていたはずの城の広間とは打って変わり、この場所は冷凍保存庫のように凍てついている。風も無いのに服の合間を縫って入り込む冷気は、この場所の温度がどれほど低いかを表していた。本来は石であっただろう壁は分厚い氷に包まれている。空間を覆う氷壁は、地下の温度を冷ややかに保っていた。
 吐く息は白く霞み、一呼吸の間に肺に入り込む冷気は、身体を内側から震えさせた。

「ここは氷の地下室ってところでしょうか?」

 薄暗い地下だったが、暗闇に包まれてはいなかった。氷と思われる冷たい床は、朧な光を放ち仄かに発光している。上の暗闇に比べれば、魔術で光を呼ばなくとも視界は鮮明にものを見止める事が出来た。
 エフィー達が斜面を滑り落ち行き着いたのは、通路のような場所だ。上の斜面の先は幾重にも枝分かれし、最終的にはこの場所へ落ちてくるよう作られているらしい。侵入者対策か廃棄口のために作られたような場所に思われた。

「氷の地下室か。まぁ、ここが何処だって言うのは問題ねぇな。それより、どうやって上に戻るかだ」

 珍しくリューサが至極真面目な表情で、そう告げる。
 エフィーも同じ事を考えていたが、解決策は思い浮かばなかった。
 見上げる斜面は急で、とてもよじ登れそうにはない。かと言って、この地下に城の一階へ続く階段があるとは限らない。侵入者対策で作られた場所ならば、こちらから上へ行く道は塞がれていると考えるのが普通だ。脱出する事など出来そうも無い。

「うーん、どうしようか? そう言えばジュリア、さっき玉座に書いてあった言葉、何だったんだ?」

「え?」

 話題を振られたジュリアは、ぎくりと身体を強張らせた。
 落ちるほんの少し前、彼女は玉座の文字を読み解いた。ラーフォスにもリューサにも解読できなかった記号のような文字。それが何かの鍵になるのではないかと考え、エフィーは尋ねる。
 しかしジュリア翠緑の瞳を伏せ、首を振った。

「あれは……多分、関係ないと思うわ。それよりも、一刻も早くこの場所を出なくちゃ」

 先ほどと言っている事が異なり、違和感を感じ再びエフィーが口を開く。しかし、エフィーが言葉を紡ぐよりも早く、辺りを見回していたアジェルが立ち上がった。

「ねぇ、こうしててもしょうがない。あっちの奥から、水の流れる音が聞こえる。もし水路があるなら、どこかに出口があるのかも」

「そうだなぁ。オレもさっきから聞こえとったから気になってたんだ。行ってみる価値はあるんじゃねぇか?」

 常人よりも優れた聴覚を持つエルフは、エフィー達には聞こえない流水の音を聞きつけたらしい。長く尖った耳に手を当てながら、アジェルはエフィーの後ろを指差した。

「あっちから聞こえるみたいだ」

 エフィーも耳に手を当てて澄ましてみたが、常人並みの聴力しか持たないエフィーに、流水の音が聞こえる事は無かった。しかし、アジェルとリューサがわざわざ嘘を吐くはずもない。エフィーは素直に頷いた。

「行ってみよう」

 エフィーの声を合図に立ち上がり、五人は水の音の聞こえる方へと歩き出した。
 斜面を滑り落ちた先は、一つの部屋のような空間だった。その場所を出ると、氷に包まれた短い通路が存在する。通路の壁には手すりが設けられ、それらは全て分厚い氷の中に包まれていた。それはまるで、この地下が全て何らかの方法で、氷らされてしまったかのようだ。いくら寒々しい雪山にある城とはいえ、地下がこのように氷りに包まれているのはおかしい。

「滑るわね……」

 氷りついた床は異様に滑らかで、走ろうものならば派手に転ぶ事が出来るだろう。一歩一歩慎重に歩みを進め、エフィー達は真っ直ぐに進んだ。
 途中からエフィーにも流水の音が聞こえ、それが次第に近づいている事を感じ取る。突き当たりに行き、左折したところで通路は途切れた。
 流水音の根源は、水路だった。氷りついた溝を流れる、透明な水。水路の先は氷に包まれた壁があり、水の通る場所だけがぽっかりと開いている。壁と壁の合間に存在する水路には簡素な橋がかけられ、向かい側の方には別の通路が存在していた。

「これって地下水路って奴かしら?」

 見たままの感想を述べ、ジュリアは興味深げに流れ続ける水流を覗き込んだ。澄んだ水だが、底が見えないほどに溝は深い。急激とは言わなくても、水の流れはかなり速かった。

「水路ってことは、どこかに上に続く道があるんじゃないかな」

「そんじゃ、あっちの通路に行ってみるか? こっち側は行き止まりだったしな」

 反対側の通路を指し、リューサは橋の方へと歩き出す。
 軽い足取りでリューサは橋を渡り、エフィー達を手招いた。ラーフォスが同じように橋を渡り、エフィーも渡ろうとしたところでふと足を止める。

「ちょっと待って。そこに何かある……」

「何?」

 エフィーが立ち止まり、人一人しか通れないだろう橋の後ろから、アジェルが何事かと声をかける。エフィーは氷りついた橋の隅に光る銀色のものを指差す。つられてジュリアとアジェルが同時にそちらを見た。際どいところで橋に引っかかっていたのは、一振りの細身の剣だった。十字を象った鍔と柄に繊細な銀の装飾が施され、両刃の刀身は細く鋭利。柄の先端には紅玉のような真紅の宝玉が埋められている。華奢な造りの美しい外観の剣が、橋の氷に突き立てられていた。

「これは……」

 アジェルが身を乗り出して、突き刺さった剣に手を伸ばした。しかし、あと少しというところで、届かずに指先が震える。

「無理だって。届かないよ」

 これ以上手を伸ばされては、そのまま橋の下の凍えるほどに冷たい水の中へ落ちてしまう。そう危惧し、エフィーはアジェルを制止すべく肩を抑える。エフィーの言いたいことが伝わったか、アジェルは手を伸ばすのを止めた。

「頑張れば取れると思うぜ?」

 いつの間にかエフィーの背後に移動していたリューサが、細身の剣へ腕を伸ばす。アジェルよりも背の高い彼は、僅かな差だが腕も長い。自信があったのだろうか、先程のアジェルよりも大きく身を乗り出す。

「あと少し……」

 褐色の指先が剣の先端に触れ、それでも掴めずに空振りする。リューサは意気地になって更に身を乗り出した。同時に、渇いた何かが擦れるような音がする。
 途端、彼の身体が急に傾いだ。橋の端ぎりぎりまで踏み出した右足が、氷に滑り宙を踏みしめる。体重のほとんどを支えていた足が宙に投げ出され、リューサは完璧にバランスを崩した。

「……っわ!」

 底知れず深い水面へ誘われるように、リューサの身体が前のめりになる。落ちると判断した彼は、伸ばしていた方とは反対の腕を振り上げた。誰かが掴んでくれればと期待を寄せたのだが、素早く振り上げられた腕は空振りをする。しかし、誰かの服に指先が触れ、リューサはそれを掴んだ。同時にエフィーがリューサの防寒具のフードを捕まえる。

「待っ……!」

 エフィーのすぐ傍で、動揺を隠しきれない声が聞こえた。
 次の瞬間、何かが豪快に水面へ叩きつけられる音と共に、派手な水飛沫が上がった。
 エフィーの手は、リューサのフードを掴んだままだ。彼は辛うじて落下を免れた。危うく落ちかけたリューサはフードを引っ張られ、苦しげに呻いている。しかし、飛沫の上がった水面は、誰かが落ちた証だ。冷たい水飛沫はエフィーとリューサに降り注いでいた。
 リューサは落ちていない。ならば誰が落ちたというのか。

「何て事するのよ――!」

 エフィーの背後から、ジュリアの悲痛な叫びが上がった。橋の先から、ラーフォスがこちらに走り寄ってくる。すぐ背後からはジュリアの声。リューサはエフィーの腕の先。ならば、誰が落下したのか。見下ろした水面は大きく波紋を描き、中心に小さな泡が上っている。澄んだ水面下より腕が伸ばされて、次第にそれは沈んでいく。

「まさか……」

 エフィーは背後を振り返った。そこには血の気が失せたかのように蒼白なジュリアが、流水によって流された波紋の場所を見つめている。
 エフィーの横から誰かの手が差し伸べられ、リューサを引っ張る力に加勢する。エフィーは薄い衣服の袖から覗く手が誰のものであるか、しっかりと確認した。そして絶句する。

「アジェル?」

 この場にいない存在の名を呟き、エフィーは呆然と水面を見つめた。
 まさか何故彼が落ちるのか。わけも分からずエフィーは狼狽する。そして水を掻き、水面上へ姿を現さない彼に、嫌な予感が沸き起こる。
 まさかそんな馬鹿な事は無いだろう。森を守護するエルフが。まさか……。
 しかし、リューサを引き上げながら待っても、アジェルは浮かんでこない。ようやくリューサの腕を取る事が出来た所で、ジュリアが白いコートを脱ぎ捨てた。

「あの人、泳げないんだわ!」

 それだけ早口に述べ、ジュリアは橋の上から水面へと飛び込んだ。
 再び豪勢な飛沫が上がる。エフィーが視線を下へ向けると、ジュリアが流れる水の底へ潜っていくのが見えた。その姿は次第に薄れ、深い水底へと飲まれていく。






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