氷れる眠り


 磁石の示す北へ進むにつれ、降り積もる雪は深くなっていく。一歩を踏み出すのも大変な有様で、歩くたびに膝丈までのブーツは半分以上埋もれた。手袋をしてはいるものの、指先の感覚は既に無くなり、吐く息は白く凍えている。
 防寒具はいらないと言ったラーフォスは、いつもと変わらない薄い布を重ねたようなローブだけで前を進んでいる。本人は魔術で冷気を遮断していると言っていたが、それを見ている者は寒々しく感じた。

「こんな調子で、本当に山頂につくのかしら……?」

 雪に沈んだ右足を必死に引っ張りながら、ジュリアはぼそりと呟いた。
 辺りは白い雑木林ばかりが広がる。それ以外の存在は、吹雪く雪に視界を遮られ見止める事は出来なかった。空は変わらずどんよりと曇り、昼なのか夕刻なのかも判断しかねた。

「ラキアで聞いた話じゃ、半日歩けば山の中間地点に着くって言ってたけどな」

 中間地点には無人の簡単な木造の休憩所が設けられているらしい。そこまで辿り着く事を目標にしていたのだが、一向に休憩所らしきものは見当たらない。そもそも、道を外れていないのかも怪しいところだ。磁石は真っ直ぐに北を示しているが、道が真っ直ぐ北に続いているとは限らないのだ。リューサの誤った道案内のおかげで、恐らく――いや確実に本来辿るべき道から外れて進んでいる。そんな中、北へ進むだけで山を越える事ができるのだろうか。
 歩いていくうちにそういう考えが浮かび上がったが、口にするのは躊躇われた。本当にそうかもしれないという疑惑があるからこそ、冗談でも言う気になれなかったのだ。

「かなり歩いてきたわよ。そろそろ休みたいわ」

「うん、そうだね。でもこんな所で休んだら、それこそ凍死しちゃうよ」

 刺すように冷たい空気は、氷点下超えているのではないだろうか。辺りは冷え切っていて、息をするだけで身体が震える。
 凍死は大袈裟だが、とても休める環境でないのは確かだ。
 せめて洞穴か何かがあれば、一休み程度は出来るのだが、残念ながらそれらしきものは見当たらない。

「少なくとも、上に向かって歩いてりゃ、いつかは頂上に着くさ。ほら、止まってねぇで歩け」

 歩みが鈍るエフィーとジュリアの肩を押して、リューサが二人を追い立てた。
 少し先を行くアジェルとラーフォスは黙々と進み、エフィー達もそれを追う。

「エフィー、フェルベスに着いたら、ホットチョコレートが飲みたいな」

 横を歩くジュリアが、白い息を吐き出しながらそう呟いた。

「僕はクリームシチューの方がいいな」

「それも良いわね」

 単調な山登りに飽きてきたのか、ジュリアは次々と欲しい物や食べたい物などを上げていく。それにエフィーも便乗し、ろくに前を見ずに話しながら歩いていく。それをリューサが微笑ましく見つめつつ、時折遅れがちな二人を後ろから追い立てた。
 しばらく進むうちに、大分距離を離していたアジェルとラーフォスが歩みを止めて、エフィー達を待っていた。ある程度近寄ったら再び歩き出す二人であったが、今はエフィー達が完全に追いつくのを待っているようだ。
 何かあったのかと思い、エフィーは小走りで二人に近づいた。

「どうかし……」

 今までと様子の違う二人に言葉をかけるが、それは言い終わる事無く途切れた。
 エフィーは二人に近付くにつれ、視界に入ってくる影に驚き、それを呆然と見つめた。

「何、あれ?」

 吹雪く雪によって遮られ、近くに来るまで見止められなかった存在が、はっきりと視界に映りこむ。
 それは一言で言えば城に酷似した建物だった。しかしラキアの王城のように、石と煉瓦を積み重ねて造られた堅固な城ではない。それは城の形こそ保っていたが、今にも崩れ落ちそうな印象を持っていた。城の壁は白く、僅かな骨組みを残してほとんどが硝子張りの窓で構成されている。然程大きな城ではないが、寒色を主とした色取り取りの硝子窓が印象的な城だった。それは城の形を装った、硝子細工の建設物のようにも見え、少し先の盛り上がった白い丘の上に佇んでいた。

「地図に無いはずの城ですか、ね」

 ラーフォスがエフィーの問いに答え、振り返った。やや困ったようにな笑みをエフィーに向ける。

「どうしてこんな場所に?」

「さあね。……で、どうする?」

 後ろからようやく追いついてきたリューサとジュリアに向き直り、アジェルが問いかけた。
 意味合いを取り間違えたのか、ジュリアは不思議そうエルフの少年を見つめた。

「どうするって?」

「あそこに行くか行かないか」

 完結に答え、アジェルは分かりやすいように硝子の城を指差した。
 エフィーは困ったように首を捻った。確かに、リューサのでたらめな道案内のせいで、遭難しかけているのは事実だ。しかし、このような不自然な場所の城に足を踏み入れても大丈夫だろうか。こんな雪山の奥深くに、誰かが住んでいるとは思えない。そのような場所で、道など聞けるのか。
 悩むエフィーの横から、ジュリアが返事をした。

「行っても良いんじゃないかな。時間だってそろそろ夕刻じゃない? 一晩くらい、休ませてもらえれば嬉しいわ」

 まさか眠らず休まず歩き続ける訳にもいかない。それを考慮すれば、城にお邪魔するべきなのだろう。けれど、明らかに人が足を踏み入れないであろう山奥に存在する城に、違和感は拭いきれない。同時に、どことなく沸き起こる不安も隠せない。

「じゃあ、行ってみる?」

 再び問われ、エフィーは考えを脳内でまとめた。
 このまま歩き続けても、休む場所が見つかるとも限らない。この気温と吹雪では野宿など論外だ。やはりジュリアの言うとおり、寒さを防げる場所で休ませてもらえれば、それに越した事はない。
 そこまで考えが行き着くと、ようやくエフィーは頷いた。

「うん。せめて道くらいは聞きたいからな」

 やはり拭いきれない不安を無視して、エフィーは城の聳え立つ丘へ歩き始めた。


◆◇◆◇◆


 硬質な不透明の硝子で作られた扉を数度ノックし、反応を待ったが、返事は無かった。
 城門まで来たは良いが、いくら扉を叩いても、その白い硝子の扉が開かれる事は無い。

「無人なのか……?」

 扉を叩くのを諦め、エフィーは隣に答えを求めた。エフィーの横では扉が開かれないかと、ひんやりとしたした硝子に耳を当てているジュリアがいた。

「うーん。だめ。中から何の音もしないわ。誰もいないって事かしらね」

「どうする? 無人なら、少し休憩させてもらう?」

 困り果ててエフィーが問うと、ジュリアは首を横に振った。

「それじゃ不法侵入よ。もしかしたらこんな時間だし、中の人眠ってるのかもしれないじゃない」

 入るか入らないかで迷う二人を退けて、リューサが扉へ近付いた。拳を固め軽く扉を叩くが、反応が無いと分かると、遠慮なく握りを引いた。扉に鍵らしきものはかけられていないらしく、厚い硝子の扉は滑らかに開いた。

「ちょっと、リューサ。何勝手に開けちゃってるのよ?」

 流石のジュリアもこれには驚き、リューサを不振そうに見上げる。
 ジュリアの心情を理解していないのか、リューサは笑顔で振り返った。

「大丈夫さ。多分この城、無人だぜ? どんな城でも、夕刻には広間に蝋燭の一本や二本灯すもんだろ?」

 覗いてみろ、と言わんばかりに開け放った扉の奥を指差す。リューサの指に引かれて、エフィー達は城の中を覗き込んだ。真っ白い柱と、硝子に彩られた外壁があまりにも鮮やかで目を引くので、てっきり城内も明るいと予測していた。しかし、リューサの指差す城内は暗く、蝋燭の明かりすら見当たらない。しんと静まり返った空間に、人が生活していた空気は感じられず、外と同じくひんやりとしている。
 リューサは扉をエフィーに押し付けて、城の奥へと足を踏み入れる。いつの間にか魔術で光を召喚したジュリアも、リューサの後に続いた。

「どう?」

 奥へと入り込んだ二人に声をかけると、ジュリアがまだ外にいる三人に手招きをした。

「大丈夫みたい。誰もいないわ」

「本当?」

 半信半疑になりつつ、エフィーも扉をくぐる。後ろからアジェルとラーフォスが入り、最後のラーフォスが扉をそっと閉めた。
 儚げな外装とは打って変わり、中は荘厳な雰囲気を持っていた。
 ジュリアの召喚した光を反射して、壁に埋め込まれた硝子は色とりどりに輝く。柱や壁には繊細な文様を描いたタペストリーが掛けられ、大理石と思わしき床には真紅の絨毯が布かれている。天井は高く、透けたステンド硝子の上に雪が積もっているのが見えた。
 扉をひらいてすぐに目が行くのは、玉座を連想させる巨大な椅子だった。
 広間の最奥の中央、床よりも子供一人分高い場所に、黄金の細やかな装飾の豪奢な椅子がぽつりと存在している。椅子の上には誰もいない。しかし、床や絨毯の上には埃一つ塵一つ見当たらなかった。

「本当に、誰もいないのかしら?」

 恐る恐るジュリアが前に進み、注意深く辺りを見回す。ジュリアの高い声と、硬質な床に踵を打ちつける音だけが広間に響いた。

「……誰もいないみたいだね」

 背後から歩み寄ってきたアジェルが、ぽつりと呟く。リューサはそれに相槌を打つ。
 暗視能力を持つらしいエルフが二人、そう言っているのだから間違いないだろう。事実、ひんやりと冷えた空間からは、人の生活していた雰囲気を感じさせない。こんな雪山の奥深くに建てられた城だ。よっぽど変わり者でなければ、住もうとは思わないだろう。もしくは、暖かい季節になってから、別荘として使われている場所なのかもしれない。どちらにせよ、エフィー達が一晩休むには好都合だった。

「じゃあ、一晩だけ休ませてもらおうか?」

 ほっと安心して、エフィーは手にしていた荷物を絨毯の上に下ろした。

「ねぇ、あれってもしかして地図じゃない?」

 エフィーの服の裾を引き、ジュリアが奥の壁を指差した。
 ジュリアの声を聞いた回りの者は、彼女の指差す方へ視線を移す。ジュリアの指先は、玉座らしきものの更に奥の壁を示していた。白い壁に茶けた色合いの横に長い紙らしきものが、小さなピンで留めて貼り付けられている。遠くからなのではっきりとは見えず、エフィーはそれに近付いた。
 壁に近付き、紙らしき物が布である事がわかった。それはジュリアの言うとおり、地図のようだ。山の細やかな道や休憩所の位置、この城と思わしき場所の名前などが綿密に記されていた。

「どう?」

 右隣からジュリアが地図を覗き込む。反対側では、アジェルが地図を見つめていた。

「ん、地図みたいだ」

「ここの地図よね。多分これがこの城でしょう。だったら、後ちょっとで下りの道に行けるじゃない?」

 ジュリアがヒューヴェル城と書かれた場所を指差し、その少し先の道まで辿る。ジュリアの指先が下山の道を辿り、やがて山の麓を越え、大陸最北のフェルベスまでなぞる。もしこの場所がヒューヴェル城ならば、明日のうちには下山出来るだろうと予測する。それを確認し、遭難は免れたと分かり、エフィーは安堵の息を吐いた。

「おーい、ここになんか変な書置きがあるぜ?」

 少し離れた場所にいたリューサが、地図を見つめる三人に声をかけた。背後より届いた彼の声に、エフィー達は振り返る。何か珍しいもので見つけたのか、リューサはラーフォスと共に玉座を覗き込んでいた。何事だろうと興味を惹かれ、エフィー達はそこに駆け寄る。
 黄金の装飾で縁取られた真紅の玉座の背もたれに、見慣れぬ文字が綴られていた。
 共通語ではない、エフィーの知らない文字だ。優美な流書きが特徴的なエルフ語でも無い。記号のようにも見える角ばった黒い文字が、機械的な綴りで描かれていた。

「古代ルーン文字ですかね?」

 ラーフォスが文字を見つめ、指先を顎に当てて腕を組む。
 ラーフォスにも解読できないらしく、リューサも難しそうに首を捻る。アジェルもラーフォスと似たり寄ったりの行動に出て、その文字が何なのかを考えているようだ。見知らぬ文字に考え込む三人を横目に、ジュリアが口元に手を当てた。信じられないものを見たと言うように、翠緑の瞳に戸惑いの色が浮かび上がる。
 黒く浮かび上がった文字の羅列を目で追い、ジュリアは誘われるように小さく口を開いた。

「氷…ノ呪縛ニ……導カレシ者ヘ、永遠ニ……目覚メヌ眠リ…ヲ約束……シヨウ」

 途切れがちにジュリアがそう呟き、その場にいた全員が彼女を振り返った。

「ジュリア?」

 エフィーがジュリアの様子がおかしい事に気付き、問いかけた。
 ジュリアは文字を読み終えると、顔を上げた。酷く恐ろしいものを見てしまったかのように、口元に手を当てたまま後退する。

「駄目よ、ここ。入っちゃいけなかったんだ……」

「っえ?」

 エフィーが何の事かを問おうとジュリアに近寄る。しかし、そこまでだった。
 皆が動きを止め、大広間に静寂が訪れた刹那、異変が起きた。
 急に足元をすくわれ、浮き上がった気がした。しかし、気のせいではなく次の瞬間、固いはずの床の感覚が完全に消え失せていた。

「っわ!」

 咄嗟に下を向くと、存在していたはずの紅い絨毯の床が、意思を持った生き物の如く床を滑り、遠ざかっていく。その下に存在していると思っていた大理石の床は跡形も無く、足元は奈落へ続くのではないかと思うほど暗い空間が底知れず続いていた。何かに捕まる間もなくエフィーは身体が暗闇へ引き擦り込まれるのを感じた。
 そして真紅の玉座を囲っていた五人は、暗い闇に飲まれて消えた。






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