始まりの終わり


「ジュリア、もう少しだからさ。寝るのは部屋についてからにしてよ」

 長い階段を上りながら、エフィーは背負った少女に声をかけた。
 しかし返事は無く、小さな吐息だけが単調に繰り返される。肩から垂れ下がった腕に力は入らず、小柄な少女の身体はエフィーの背に張り付くようにぐったりとしていた。
 話しかけてみたものの、ジュリアの意識は既に無いようだ。
 エフィーは仕方が無いと思いつつ歩みを止め、ずり落ちかけた少女を背負いなおした。
 エフィー達が砦に戻る事ができたのは、夕刻を過ぎた夜中の事だ。
 ラーフォスの言った通り、グレンジェナとグレンジェナを守ろうとしていた封印は、時間と共に消えうせた。迷宮そのものは、陽炎のように次第に空気と同化していった。そして、仮初の地下迷宮は本来の姿を取り戻したのだ。
 ふと気付いた時には、広く暗い地下室に、砦にいたはずの傭兵達がいた。彼らは迷宮で最後まで彷徨い続けていたらしく、酷く疲れきっているように見えた。光の無い闇に包まれ、前も後ろも分からないような回廊を歩き続けていたのだ。精神的な打撃は相当なものだろう。
 エフィー達と共にいた前王は、一度砦へ戻る事を決めた。そうしてようやくエフィー達は、ラキアの地下より続く砦への隠し通路を通って帰還する事ができた。
 砦までは何とか自身の足で歩いてきたジュリアだが、長い階段を上る体力は残されていなかったようだ。普段では考えられないほど口数も減り、ふらふらとした足取りで歩く様は危なっかしく思われた。見かねたエフィーがジュリアを背負い、ラーフォスらに断り、先に部屋へと戻る事にした。
 傭兵達は皆、広間へと集まっている。王がこの事件を説明し、それがどう解決されたのかを伝えなくてはいけないからだ。しかし、エフィーは理由も結末も知っている。そんな事よりも、ジュリアを休ませてやる事が今一番優先すべき事だ。

「後ちょっとだ」

 返事は期待できないと思いつつ、独り言に呟く。廊下はしんと静まり返っていて、エフィーとジュリア以外の人影は見当たらない。
 長い階段を上り終え、一晩過ごした部屋を探して廊下を進む。部屋と廊下の間には木製の扉こそあったが、半分以上の扉が開かれていた。朝、この場所を出てきた時も、ほとんどの扉は閉じられていなかった。恐らく盗られて困る荷物など、残してはいないのだろう。唯でさえ風通しの悪い部屋だ。閉め切っていては、空気も悪くなるとでも思ったのだろうか。
 なので扉の開かれていないエフィー達の部屋は、あっさりと見つけることが出来た。開かれない理由は、この部屋に一人眠っている人物がいるはずだからだ。
 そっと木製の扉を押して開くと、暗い部屋が覗けた。蝋燭に火は灯されていない。真っ暗なままの部屋だ。エフィーは廊下の壁に設置された燭台を取り、部屋へと入っていった。

「……まだ寝てるんだ」

 一番端の寝台でぴくりとも動かずに眠るエルフを見つけ、エフィーは呆れたように呟いた。
 とりあえず、ジュリアを寝台へ寝かせようと思い、エフィーは空いている寝台に近づいた。そっと出来る限り動かさないように、ジュリアを背から寝台へ降ろす。すっかり意識を消失しているらしく、ジュリアは起きる素振りを見せなかった。それほど疲れているのだろう。毛布を肩までかけてやり、エフィーはようやく一息ついた。
 部屋を出て行こうと思ったつかの間、引き止めるように背後から物音が聞こえた。咄嗟に振り返ると、小さな生き物が寝台の影から姿を覗かせていた。

「ミスト?」

 緑色の子竜は名を呼ばれ、嬉しそうに小さく鳴いた。構ってくれる者も無く、退屈に過ごしていたのだろうか。はしゃぐあまり、ミストは寝台に飛び乗り、小さな羽をぱたぱたと動かす。そして先程よりも大きな声で鳴き始めた。

「しー……! 寝てるんだから、静かにしないと」

 慌てて子竜の元へと歩み寄り、口元に人差し指を添える。意思が通じたのか、それとも分かっていないのか、子竜は可愛らしく小首を傾げた。ひとまず大人しくなったミストを横目に、ジュリアとアジェルが目覚めていないかを確かめる。しかし、エフィーの杞憂も無駄に終わり、二人は寝返り一つ起こさなかった。
 ふと、アジェルの方を見やると、ミストが遊んでいたのか、毛布が床へ半分以上落とされていた。エフィーは足音を立てないように近づき、毛布を掛け直してやろうとする。
 しかし、その手は伸びてきた手によって阻まれた。

「いいよ、ケイ。もう起きるから……」

 相変わらず体温の低い冷たい手が、毛布をかけようとしたエフィーの手を掴む。
 驚いてエフィーがアジェルを見やると、彼は薄く瞳を開けていた。

「ああ、帰ってたの?」

 久々にその声を聞いた気がして、エフィーはほっと安心する。
 約丸一日、目覚めた彼を見ていない。朝、アジェルが目覚めていた事をエフィーは知らないし、声を聞く事も無かった。だから余計に、長い間会っていなかったような錯覚を覚える。

「うん。今さっき、帰ってきたんだ。気分はどう?」

「ちょっと、頭痛いかもね。まぁ、一日休ませてもらったから、もう大丈夫」

 上半身を起こし、アジェルは頬に掛かった長い紫銀の髪を掻き上げた。
 いつもと変わらない淡白な表情で、アジェルはぼんやりとエフィーを見つめる。その様子から見て、どうやら朝置いてきぼりにされた事を怒ってはいないようだ。エフィーは心の内で安堵する。

「そっか。でも今度はジュリアがダウンしちゃったみたいだ」

 苦笑いを浮かべて、エフィーはちらりと視線をジュリアに向ける。アジェルもつられてそちらを見ると、疲れ果てた少女が深い眠りについていた。

「何かあった?」

 不思議そうに尋ねられて、エフィーは事の始まりを思い出す。

「うん。色々とあったよ」

「……これは魔族にやられた?」

 アジェルは不思議そうにエフィーを覗き込んでから、そっと片方の手でエフィーの頬に触れた。触れられた頬から、微かな痛みが走り抜ける。確か、魔族の少年の魔術に焼かれて出来た傷だ。血は止まったものの、傷口は未だ塞がる様子は無かった。
 エフィーは長話になると思い、そっとアジェルの寝台に腰を下ろした。

「そうなんだ。僕の不注意でやられちゃってさ。魔術のせいかな、中々血は止まらなかったけど、あんまり深くないから大丈夫」

「魔術によってつけられた傷は、治りにくいって知ってる?」

「え?」

 血は止まったものの、未だに瘡蓋にまで至らない傷口に触れて、エフィーはほうけた様な声を出した。
 しかし、アジェルは至極真面目な表情で、エフィーの傷口を見つめる。

「魔術の傷は物理的な傷よりも危ないんだ。この程度だから良かったけど……。深い傷を負うと、まず助からないよ」

 そう言って、アジェルは寝台の横に置いてあった自分の荷物から何かを取り出した。小さな小瓶のようなもので、蓋を取ると中には乳白色のクリーム状のものが入っていた。恐らく薬か何かだろう。アジェルはそれをエフィーに差し出した。

「そうなんだ……。じゃあ、危なかったんだな」

 魔術の一撃二撃くらい大した事無いだろうと思い込んでいた。だが、それは甘い考えだったようだ。エフィーに魔術に関しての知識は、全くといって良いほど無い。魔術は精霊の力と己の魔力を使役して扱う便利なものだと、気軽に思い込んでいた。しかし、魔術による傷が命取りになると知り、今更寒気が襲ってくる。ジュリアが向かい来る魔術を避けるのではなく、防護壁で防いでいた理由が分かり、エフィーは思わず苦笑した。そして渡された小瓶を指差し、何かと尋ねる。

「放っておくと傷口は傷んでいくから、薬で手当てしないと。魔術の傷は普通の傷とは違うから、自然治癒は期待できないんだ。一応それ、精霊の力が込められた魔法薬だから、痛みはすぐに引くと思う」

「へぇ。ありがとう」

 不思議そうに乳白色のクリームを見つめ、小さく相槌を打つ。小瓶の薬を人差し指ですくい、傷口へ薄く塗る。触れた途端少しばかり針で刺されたような痛みを感じたが、それはすぐに和らいでいった。

「魔族と会ったの?」

 アジェルはそう問いかけ、今度はガーゼと紙テープを取り出し、エフィーへと渡す。その手際の良さに感心しながら、エフィーはそれらを受け取った。

「どうも。うん、魔族には会ったよ。って言うか朝、砦の広場に来たところで、いきなり魔族に襲われてさ。変な魔術で迷路みたいな場所に飛ばされたんだ。で、右も左も分からないまま彷徨ってたら、運良く最深部に辿り着いちゃったみたいでさ。一番奥の部屋には、リューサの言ってたグレンジェナがあったよ」

「グレンジェナが?」

 流石に驚いたのか、グレンジェナという単語に反応を示す。普段崩れない表情も、微かに困惑の色を含んでいるように見えた。それもそうだろう。リューサより聞いた、城に眠るグレンジェナの噂等、欠片も信じていないに等しい。エフィーもこの目で見るまでは、リューサの戯言だとしか思っていなかったのだ。アジェルも本当にグレンジェナがあるだなんて、露ほどにも思っていなかっただろう。

「うん。本物かどうかは僕には分からないけど、すごい綺麗な石だった。ひし形の親指くらいの大きさだったかな。祭壇みたいなところに安置されてたんだ」

 思い出せる限りを説明して聞かせながら、アジェルより渡されたガーゼを傷口に当てる。

「それじゃあ、魔族の狙いはグレンジェナって事?」

「そうみたい。相手は子供の魔族だったんだ。僕よりも四つくらい年下かな。後から、もう一人魔族が来たんだけど、その人は子供の方を連れてさっさとどっかにいっちゃった。グレンジェナも持っていかれてさ、本当、踏んだり蹴ったりな一日だったよ」

 そう言って、エフィーは少し大袈裟に肩を竦めて見せた。
 思い出せば色々と面倒な一日ではあったが、口で言うほど嫌な事ばかりでは無かった。
 グレンジェナは持ち去られてしまい、結局は魔族の一人勝ちな結果となった。しかし、全てが円満に収まったのも事実だ。目立った犠牲も無く、皆無事に帰還できた。少なくとも、彼らは民達を傷つけるつもりは無かったように思われる。
 例えば、グレンジェナを奪還する事に成功していたとする。仮定でしかないが、それを聞きつけた誰かと争う事になっていたかもしれない。人々はグレンジェナというものに、夢を見ている節がある。だからこそ、グレンジェナは争いを呼ぶ。それは、目で見なくとも分かりきった現実だった。誰でも永遠の命は欲しいものだ。
 そう考えると、グレンジェナは持ち去られて良かったのかもしれない。リューサには残念な結果となってしまったけれど、この結果に満足している自分が存在した。

「そう。お疲れ様」

 静かにそう呟き、アジェルは頬に当てたガーゼを紙テープで止めてくれた。
 グレンジェナには驚いてこそいたが、それ以上追求してくる様子は無かった。

「ありがとう。慣れてるね」

 珍しく優しい態度のアジェルに驚きつつ、エフィーは素直に礼を述べた。
 アジェルはふとエフィーから視線を逸らし、少しばかり気恥ずかしそうに口を開いた。

「……手のかかる弟がいてね。いつも馬鹿の一つ覚えみたいに怪我ばっかりして帰ってくるから、こういうのは得意なんだ」

 そう言って、小瓶とガーゼの残りや紙テープを回収し、小さな布袋へと詰めていく。
 エフィーは手当てされた頬にそっと触れた。痛みはほとんど感じられなかった。

「そうなんだ。僕は怪我してもジュリアがいつも治してくれたからな。こういう風に手当てされると新鮮だ」

 そう言って、エフィーは照れたような笑みを浮かべた。
 会話が途切れたところで、エフィーは前々から疑問に思っていた事を思い出す。プライバシーに踏み込むのは迷惑だろうと思い、今まで知らん振りをしてきた。それでも気に掛かり、言うべきかを迷ってから、思い切って尋ねてみる。

「なぁ、アジェル。ケイって誰?」

 短い名がエフィーの口から紡がれると、アジェルはぴたりと動きを止めた。

「……何でその名前を?」

「いや、アジェル寝ぼけてる時、いつも僕の事そうやって呼ぶからさ。さっきも。自覚無かった?」

 エフィーは毎朝、目覚めの悪いエルフを起こす役目を負っていた。そして揺り動かして起こそうとすると、時折彼はエフィーを別の名で呼ぶ。最初は寝言かと思っていたが、何度も繰り返されると気になってくるものだ。
 アジェルは表情を緩め、困ったように眉根を寄せた。

「ごめん。エフィーとケイってちょっと似てたから……。ケイは、何て言うのかな。エフィーにとってジュリアみたいな人、かな」

「へぇ。じゃあ、幼馴染ってこと?」

 重くなってきた瞼ををこすり、エフィーは嬉しそうに問いかけた。
 エフィーにとってジュリアは家族であり、幼馴染であり、友達だ。近い年頃の友人がいなかった翼族の村で、ジュリアだけが同年代の子供だった。アジェルの目に、エフィーとジュリアがどのように映っているかは謎だが、エフィーにとって彼女は親友と呼べる相手だろう。

「少し違うけど、似たようなものかな」

 そう言って、アジェルは口元を僅かに綻ばせた。
 つられたようにエフィーも口角を上げるが、噛み殺しそびれた欠伸が口を開かせた。

「……エフィー、もう遅いからそろそろ眠った方がいいんじゃない?」

 長い遠征とは程遠いが、エフィーもこの一日はそれなりに緊張していた。けれど、何気ない会話のうちに緊張が解きほぐされ、どっと疲れが溢れてきたような錯覚を覚える。随分と厄介な一日だった事は覚えている。迷宮を彷徨い、転落して、戦闘して、ようやく帰還。疲れていないと言えば嘘になる。しかし、珍しくアジェルが自分の事を話してくれているのが嬉しくて、つい会話を続けたいとも願ってしまう。
 それを見通してか、アジェルは寝台を降りてエフィーに場を譲る。

「ほら、明日はラキアに行くんだろ? 今のうちに寝入らないと、身体がもたないよ」

「うん。じゃあ、お言葉に甘えて休ませてもらおうかな……」

 折角の親切を跳ね除けるものなんなので、エフィーは素直にその厚意を受ける。
 うまい具合に、会話の方向を曲げられてしまった気がしないでもないが、眠たいのも事実だ。寝台に横になり、毛布に手をかけると、堪えてきた眠気が一気に溢れてきた。

「ラーフォスには話しておいてあげるからさ」

「ありがと……、アジェルも病み上がりなのに悪いな」

「俺も昨日は迷惑掛けたからね。それじゃあ、おやすみ」

 耳に心地よい声に安心して、意識は睡魔に侵食されていく。エフィーは最後にアジェルへと笑いかけて、ゆっくりと瞳を閉じた。

「うん、おやすみ」

 ようやく静まり返った部屋で、アジェルはそっと燭台の灯火を消した。
 部屋に暗闇が戻る。少しの間を置いて、エフィーは扉を開き出て行く足音を聞きいた。続いて小さな小動物の移動の音を最後に、静かに扉は閉じられた。
 やがてエフィーは眠りの世界へと意識を投げ出した。






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