始まりの終わり


 暗闇の世界で、アヴィスは手放していた意識を覚醒させた。
 無意識にじんわりと痛む肩に手を伸ばし、軽い頭痛を覚えながら記憶の糸を手繰り寄せる。上着は半分肌蹴られて、触れ慣れない包帯が傷口と思われる箇所に巻かれている。誰かが、知らぬ間に手当てをしてくれたらしい。それでも痛みを伴い白い布を侵食しながら滲む紅が、傷の深さを物語る。浅くは無い傷だ。しばらくは思い通りに肩を動かす事はできないように思われた。
 アヴィスは柔らかな寝台の上で、うつ伏せに寝かされていた。仰向けでは、傷口に触ると言う気遣いだろうか。それが誰の手によって行われたのかを想定し、無意識のうちに深く息を吐いた。
 悲鳴を上げる傷口を無視して、アヴィスは寝台から上半身だけ起こした。

「目覚めたか?」

 すぐ傍の深淵に何者かの気配を感じ、視線をそちらに向ける。
 光一つ無いその空間で、闇の向こうにいる人影はしっかりとアヴィスの暗紫の瞳に映っていた。暗闇の中でも、はっきりと目に映る白い色彩。それに、神々しいまでに鮮やかな朱の瞳。見覚えのありすぎる、天使のような悪魔がそこにいた。

「ルシェ様……」

 アヴィスが目覚めるのを待っていたらしいルシェールは、ゆっくりとアヴィスに近づいた。そして何かをアヴィスに手渡す。アヴィスは反射的に片手を差し出して、それを受け取った。
 豆粒ほどの大きさの、胡桃のような塊だった。しげしげとそれを見つめ、アヴィスは小首を傾げた。

「何?」

「魔力を回復させる力を増強する木の実だ。ティラがお前に渡せと、持たされたのでな」

「ティラ様が……?」

 いかにも苦そうな木の実を見つめ、アヴィス心のうちで全てが見透かされている事に気付く。
 今、アヴィスには自身の傷の治療を行うだけの魔力も体力も残されていない。
 ラキアの住民達を砦へと空間移動させるために、相当な魔力を消費していたのだ。魔力の浪費は、身体へ大きな負担をかける原因となる。本当ならば、あれだけの魔術を使用したのなら、その後は控えて休むべきであった。しかし現実は、休んでいられるほど暇ではなかった。心のうちで頼りにしていたルシェールが突如魔界へ帰ると言いだし、その後の傭兵達の相手とグレンジェナ探しを同時進行で行わなくてはいけなかった。それにはやはり、体力面に自信の無いアヴィスは魔術に頼る他道は無い。
 しかし、如何に魔力が高くとも、それを媒体として放つ肉体はまだ、十代前半の子供のもの。正直な話、かなり無理をしての強硬手段で乗り切っていたに過ぎない。しかし、最後の最後まで魔術を使い続けていたせいか、酷く身体が重く感じられた。肉体的な疲れもさながら、精神そのものが疲弊してしまっているようだ。普通の人間ならば、とっくの昔に気絶しているか命にすら障る、人々が古代魔術と呼ぶものを使役してきたのだ。その代償に、しばし魔力を回復させるために休まなくてはいけない。それでも、アヴィスは唯休むだけを良しとは思わなかった。ほんの一瞬も、今こうしている時間でさえ惜しいのだ。動けるうちは、我武者羅に彼の人の役に立たなくてはいけない。そういう概念だけが、脳内で渦巻く。

「……ティラ様はお怒り?」

 ポツリと、アヴィスが一人言のように問うと、ルシェールは暗闇の奥で微笑んだ。

「その逆だ。珍しく機嫌が良かったよ。お前の働きも褒めていた」

 予測していたものと違う答えが返ってきて、アヴィスは驚きに顔を上げた。

「本当に?」

「ああ。だからこそ、わたしにこんな物を持たせたのだろう」

 こんなものである小さな胡桃を見つめ、アヴィスは嬉しそうに頬を緩ませた。
 その姿は、やはり歳相応の子供で、ルシェールも知らず知らずのうちにつられ、普段では見せない優しげな表情になっていた。そして何かを思い出し、何も載っていない掌をアヴィスに差し出す。口の中で呪を紡ぎ、小さな何かを召喚する。
 光の粒子と共に掌に現れ出でたものは、親指ほどの大きさの小さな輝石だった。青い光を湛え続ける、永遠を約束する宝玉の一欠片。

「――グレンジェナ?」

 流石に驚きを隠せないのか、アヴィスは月の色と夕闇の色の瞳を零れんばかりに見開いていた。そして恐る恐るルシェールの掌から、そっとグレンジェナを受け取る。

「ティラが、お前に保管させるようにと言っていた。……他の者では信用できないようでな。それから、しばらくはそれを守る事に専念しろとの命令だ。余計な外出は避け、時が来るまで身を潜めよとな」

 片手に胡桃のような木の実、もう片方にはグレンジェナを持ち、アヴィスはティラの命令の真意を考えた。ここは魔界。清涼な水の香る暗きこの城は、水魔の領域。つまり、魔界でもっとも権力を持つ四つの一族の一つ、リラの名を持つ水魔達の世界だ。水魔の王の息子、ティラウィル・リラは、稀なる巨大な魔力と思慮深くも強固な意志と才を持ち、水魔の領域に住まう全ての魔族に畏怖され、同時に深い忠誠を誓われている。その水魔の領域の中で、ティラの所有物であるグレンジェナを奪う者などいないだろう。つまり、その命令は遠まわしに休養でも取っていろと、そういう意味合いに繋がる。

「……御意」

 ティラは四つのグレンジェナのうち一つを保有していた。
 そして今回の事で、アヴィスが青きグレンジェナを手にした事により、ティラの元には二つのグレンジェナが揃った。残るは二つ。それを見つけ出すまでの間、アヴィスにはグレンジェナを守れとの命令だ。
 あと二つ。それで全てが変わる。

「ティラ様のご命令、必ず守ってみせるよ」

 四つのグレンジェナは再び涙の形を取り戻し、そして血で血を洗う日々が舞い戻る。けれど、その先には必ず――。

「頼んだよアヴィセイル。お前の敬愛する『ティラ様』の為にも、この世の為にも……な」

 その声を境に、闇の向こうにいた人影は、音も無く闇へ紛れて消えていった。

「……あと二つ。それで、僕らの楔は消え失せるよ……兄様」

 ひっそりと静まり返った部屋の中で、アヴィスは小さく忍び笑いを零した。
 来たるべく日を思い描き、長い祈願が果たされるその時が近い事を心のうちで確信する。
 幼げな笑い声が消え、再び静寂が戻ると、アヴィスは手に持つ胡桃を口へ放り込んだ。固い食感の木の実らしい独特の苦さが口の中に広がり、思わず顔を顰める。けれど吐き出すわけにもいかないので、思い切ってそれを飲み込む。食道を固形のものが嚥下し、やがて胃の中に納まるとアヴィスは一息ついて愚痴を零した。

「……まずっ」

 口直しに何か甘いものでも探しに行きたい心地であったが、身体は思い通りに動かない。
 仕方なく、アヴィスは再び眠る事にした。眠れば味覚など無い。苦い木の実の味も忘れられよう。そう片付けて、アヴィスは毛布を肩まで被り、勢い良く寝台の真ん中へうつ伏せに倒れ込んだ。






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