始まりの終わり


「さて、そろそろ行くか」

 立ち上がり、リューサが手を鳴らして二人を追い立てた。
 エフィーもこのままこうしているわけにはいかないと思っていたので、すくりと立ち上がる。同時に、背の翼を消した。ジュリアも何とか自分の足で立ち上がる事が出来た。少しくらいならば、歩けるだろう。だが、迷宮の最深部より地上を目指すのは、かなりの距離を歩く事になると予測される。それまで、ジュリアの体力がもつかが心配だった。

「とりあえず、上の橋は壊れちまってるからな……、別の道を探さねぇとな」

 リューサがそう言って手に持つ弓を肩にかけた所で、急に今までになかった音が遠くより響いてきた。三人は動きを止めて、耳を澄ます。徐々に近づきながら響く音は、足音に思われた。一歩一歩を妙にゆっくりと進む足音。一人ではなかった。僅かに歩調がずれて、もう一つ、しっかりとした歩みの重い足音が続く。
 次第にそれは鮮明に聴こえ、やがて扉の先で足音は止まった。
 扉は開かれている。けれど、近づいてきた足音は扉の影に隠れて、こちらの様子を窺っているようだ。
 エフィーは息を殺して一歩、扉へと歩み寄る。しかし、すぐにリューサがエフィーの肩を掴み引き止めた。振り向くと彼は首を横に振り、エフィーを追い越して扉へと近づく。彼の足音は全く無かった。姿こそ見えているけれど、リューサの気配は限りなく薄い。その姿を眼で捉えていなければ、そこにいるのかも分からないほどに、音も気配も完全に絶っていた。森に住まうエルフは、こうした隠密行動が得意なようだ。
 扉へと背を預け、リューサは弓を構えて矢を番える。ほんの一呼吸、間を置いて、リューサは素早く扉の影へと躍り出た。二、三歩の距離の間に矢を引き絞り、生まれつき持ち合わせる暗視能力を有する瞳で標的を見つける。琥珀のような色合いを視界の先に捉え、リューサは矢を突きつけた。と同時に、己に向けて真っ直ぐに伸びた赤いものに眼を見開く。
 同時だった。
 リューサは構えを解かずに、視線だけ相手と自身に突きつけられたものに向けた。リューサの鼻先辺りには、紅蓮の炎で構成された矢があった。同じく、矢が番えてある物はやはり燃え盛る炎で象られた魔術の弓。それを作り出した本人は、真っ直ぐにリューサを見つめていた。

「あんさんは……」

 見覚えのありすぎるその人に、リューサは驚きを隠せなかった。
 炎の弓を構えていた人物は、くすりと微笑んで魔術で作り出した弓を軽く手を振って霧散させた。リューサも威嚇する意味が無くなり、弓を下ろす。

「どうやら、ここが最深部のようですよ。陛下」

 扉を境に聞こえてきた声に、エフィーとジュリアは驚いた。
 聞き覚えのありすぎる音程の低い、それでもやはり中性的な声は忘れるはずも無い彼のものだ。二人は嬉々として、扉の先へと駆け寄った。

「ラーフォス!」

 涼しげな表情で、エフィー達に微笑みかける優麗な青年は、予想違わずラーフォスその人だった。

「無事で何よりです、皆さん。どうやら、ここまで辿り着いたのは、貴方達だけだったようですね」

 柔らかくエフィー達を見つめ、ラーフォスは二人を安心させるように笑いかけた。
 彼の後ろにはもう一人、背の高い人影があった。額には銀の冠を頂き、深く皺の刻まれた表情は優しくもあり、不思議な威圧感を持つ。確か、ラキアの砦で父王と呼ばれていた前王だ。彼は静かにエフィー達に視線を向けてから、部屋の奥へと無言のまま歩み進んだ。
 真っ直ぐに部屋を見つめ、祭壇の上に何も無い事を確認する。そして小さく息を吐いてから、ゆっくりと前王は振り返った。その表情は、残念そうであり、どことなく安堵している様に思われた。

「そなたの言う通りじゃったな。まさか、かつての戦争を引き起こした元凶が、我が国の地下に眠っていたとは……」

「ええ。でもお気づきにならないのは致し方ないことです。グレンジェナは、この地に封印されていた。その封印の力は、恐らく神話の時代より神々が施したもの。人の身でそれを見破るは至難の業ですから」

「だが、そのグレンジェナは、どうやら持ち去られてしまったようだな……」

 少しばかり残念そうに、前王は呟いた。

「あ……と、僕ら持ち去られるところに居合わせたんですけど、魔族に持ってかれちゃったみたいで……」

 申し訳なく項垂れてそう呟く。しかし、前王は振り返り、顔の皺を一層増やして穏やかに微笑んだ。

「良い。グレンジェナは、争いの元凶になる……。神話がそれを物語っているではないか。過剰な希望を与えるものなど、無い方が良いのだ。……魔族の狙いは、グレンジェナと言ったところか。奴らに力を与えるのは喜ばしくは無いが、何事も無く終わった事に感謝しよう」

 王と言う立場、力よりも兵や民の安全を第一に考えるのは当然の事。しかしグレンジェナが何であるかを知って、それに興味を示さない様は、何とも無欲な王なのだろうとも思った。エフィーは心のうちでこの高齢の王に尊敬の眼差しを向けた。
 前王は再び辺りを見回し、一人ごちに小さく薄い唇を開いた。

「しかし、このような地下迷宮があったとは……」

 エフィー達は比較的深部へと飛ばされ、割と苦労する事無く最深部へと辿り着けた。しかし、この迷宮は果てしなく広い。それこそ、一度迷い込めば、二度と光を拝めないほどに入り組み、人を迷わせる。それを知りえるラーフォスは、それが無限でない事も知っていた。
 ラーフォスは一歩壁際に歩み寄った。

「陛下、これは幻です。グレンジェナの力……いいえ、グレンジェナを封ずるための力が生み出したもの。本当は、地下迷宮など無いのです」

「どういう事?」

 ジュリアが不思議そうに尋ねると、ラーフォスはそっと扉に触れた。
 彼の指先は扉を透き通り、冷たいはずの石の扉は侵入してきた指を拒む事無くすんなりと受け入れた。それはまるで、澄んだ水に指先を入れたような感じだ。しかし、扉は水ではない。それにも関わらず、彼の腕は扉を突き抜け、部屋の中へ扉越しに姿を現す。

「今この場所に、グレンジェナは無いのでしょう? ならば、時期にこの幻は消え失せるはずです。封印されていたグレンジェナには、何の力も無い。でも、グレンジェナを封印するための力はとても強い。輝石を守るため、封印の力は迷宮という形で存在していた。だけど、守るべきものが失われた今、もうこの地には何の力も残らないでしょうから」

「そうなれば、我々はどうなるのだ? 迷宮には未だ彷徨い続けている者達が数多くいるであろう?」

 封印の力というものが、物質的なものではないのだとすれば、この迷宮は一体なんだというのだろうか。封印の力が完全に消えた時、この空間にいる者たちは何処へ飛ばされてしまうのか。もしくは、最悪の場合として、力と共に消えてしまうのではないだろうか。
 不吉な考えが過ぎり、エフィーは微かに表情を曇らせた。

「それは大丈夫でしょう。この場所はラキアの地下。陛下の熟知している城の地下は、一体どんなものでしたか?」

「……城の地下は、空洞だ。何も無い石壁の空間があり、その最奥の隠し扉からは、砦の地下へと続く道がある。今はほとんど使われてはいないがな」

「そうですか。なら、きっと帰れますよ。幻が消えれば、この場所は石壁の地下室に戻るでしょうから……」

 しっかりと根を下ろし、重々しく仁王立ちしていた扉は、少しばかり半透明になっているような気がした。初めは目の錯覚かと思っていたが、それは徐々に薄れ行く。
 不思議と、彼の言う通り事が運ぶ気がした。あと少しで、帰ることが出来る。淡い希望が射し、エフィーは心のうちでほっと息を吐く。
 ひと時の間を置いて、ふと疑問が思い浮かんだ。

「つまりそれってさ、封印の力とやらが完全に消えるまで、待ってるって事?」

 エフィーが遠慮がちに呟いてみると、ラーフォスはにこりと微笑んで頷いた。
 半透明になっている扉は、それでもしばらく消える様子は無い。帰れるという確信はあったが、それがいつになるのかは全く持って見当がつかなかった。
 今度はそのまま大きく、溜息を吐いた。






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