始まりの終わり


 ひんやりとした感触の冷たい大理石の床。そこに飛び散っているのはジュリアの操った水と、風に吹き上げられ、舞い落ちた蒼い花びら。
 闇が消えて、薄暗い空間は喧騒を忘れ沈黙に満ちる。
 ようやく我に返って言葉を漏らしたのは、先ほど乱入してきたばかりのリューサだった。

「……どういう事だったんだ?」

 いまいち状況を飲み込みかねているらしい。リューサは答えを求めてエフィーを振り返った。

「さぁ……。魔族がグレンジェナ欲しさに度の過ぎた悪戯をしたって事か?」

 青い輝石は持ち去られてしまった。それに関しては悔しいが、何事も無く済んだ現実に安堵する自分がいた。エフィーは気が抜けたようにその場に座り込んだ。冷え冷えとした部屋の空気が、激しい運動によって火照った身体に心地良い。不意に、熱を持ったままの頬に手を当てる。少年の魔術によって傷つけられた頬から、未だに赤い血が流れていた。

「本当、迷惑な話だなー……。しかもグレンジェナも手に入れられんかったし。踏んだり蹴ったりって、こういう事言うんだな」

「そうだね」

 残念そうに肩を竦めるリューサに、エフィーは笑いかけた。
 そして視線をその横のジュリアへと移すと、彼女はやはりエフィーと同じように座り込んでいた。小さな背がいつもよりも疲れて見えるのは、気のせいではないはずだ。あれほど魔術を使ったのだから、疲労していない方がおかしい。彼女は自身の肩や頭にも降ってきた蒼い花びらを、一枚一枚除けているところだった。

「それにしてもさっきの魔族、昨晩砦に来てたな」

「え? 子供のほう?」

 子供の方がエフィーたちをこの迷宮へと飛ばしてくれたのだから、一度砦を訪れていてもおかしくはない。それを偶然リューサが見つけたのだろうか。そう考えリューサを見つめるが、彼は軽く首を横に振った。

「いや、後から来た白い方。あいつ、あんさんらの連れと何か話してたみたいだったけどな? 知り合いじゃないのか?」

「連れって……アジェル? それともラーフォス? ……僕は知らないけど」

 今回出会った魔族とは全く持って面識など無い。そもそも魔族に知り合いなど一人だっていない。もっとも、魔族を知らないのは当然と言えば当然だ。セレスティス大陸では、魔族 にお目にかかる事なんてほとんど無いのだから。そうなれば、ジュリアもアジェルも可能性的に無いだろう。ならば、必然的に連れとはラーフォスという事になる。しかし昨夜、彼はエフィーたちと一緒にいたはずだ。矛盾が生じ、エフィーは分からないというようにリューサを見つめた。

「アジェルって方。知り合いって感じでも無かったけどな。ただ、昨日見たからさ」

「昨日……から?」

 我関せずと沈黙を守っていたジュリアが、リューサの言葉に反応を示す。

「ん、ああ。何かよく分かんねぇ話してたみたいだな。今回の事とは関係なさそうだったけど。それよりも嬢ちゃん、花、頭にも刺さってるぜ」

 リューサは自身の左後頭部のあたりを指で小突いて見せる。釣られたジュリアが、己の後頭部に手を伸ばすと、水に濡れてぺたりとした髪に、柔らかい感触を感じ取る。柔らかく、強く握れば儚く潰れてしまうであろうそれを、そっと引き剥がした。

「……こんな所にも」

 呆れたように呟き、ジュリアは苦く笑った。手にした花は、散った他の花びらとは違い、綺麗な形のままだった。ジュリアの髪の色とは違う、淡い水色の花。花びらの先が、僅かに緑がかっているのが特徴的だった。

「それよりもさぁ、これからどうすんの?」

 リューサは部屋を見渡してそう呟いた。
 グレンジェナの無い部屋は光源を失い、ただでさえ薄暗い部屋を余計に暗く見せていた。
 その視界が僅かにぶれた気がして、エフィーは瞬いた。しかし気のせいだったようで、暗い視界に石の壁と大理石の床がしっかりと映る。

「どうするって、とりあえず砦に帰るんじゃ……?」

「どうやって?」

 言われて初めて、自身の考えの足りなさに気付く。
 この場所へは、少年の操る魔術によって飛ばされた。空間を移動する魔術など、普通の人には使えるはずも無く、ジュリアも体力的にもう魔術は使えない。右も左も分からない迷宮の最深部で、戻るべき道を探すのは果てしない事。
 ようやく現実を思い出し、エフィーは口をぽかんと開いて絶句した。

「考えてなかったんかい」

 リューサは呆れて溜息をついた。

「それにしても、あんさんすごいもん持ってんなー」

 結論など出ない話題を切り替えて、リューサはエフィーを興味深げに見つめた。
 エフィーはリューサの言葉に反応し、己の身を顧みた。少年の魔術によって切り裂かれた頬以外、普段と変わるものは無い。服装はやや乱れたが、そんなのはジュリアもリューサも同じだ。手に持つ剣は昨夜からリューサも見ていたはず。普段と変わらないものなど無い。

「何が?」

「それ」

「どれ?」

 リューサはエフィー自身を指差すが、指されてもエフィーには思い当たるものが無い。
 訳がわからず、頭で考え込もうとした矢先、突然ジュリアがエフィーに向けて大きく目を見開いた。

「エフィー! 羽っ翼っ。しまってない!」

 大慌てでジュリアが駆け寄ってくる。
 エフィーはやはり言われてから自身の背に生えた翼を思い出した。あれほど危惧して、慎重に動いてきたつもりであったのに、少し気を緩めた途端これだ。自分自身の注意力の無さにはほとほと溜息が出る。
 恐る恐る、リューサに視線を戻すと、彼は興味津々といった感じでエフィーを見ていた。正確には、彼の翼を。その漆黒の瞳が写すのは、純粋な好奇心。少なくとも、エフィーにはそう思えた。ラドックとは違う、欲など感じさせない子供のような眼だ。

「もしかしてさ、天使とか?」

「いや、ちょっと違うかな。僕は人間と大差無いから」

「じゃあ何だ? ……あっもしかして絶滅したって言われてる風人だったりするか?」

 知らない単語を聞き、エフィーは首を傾げた。
 彼は地上界でも比較的長命であるエルフだ。長い時を生きる彼らは、人よりも古い知識を保持している。人間達に忘れ去られたものでも、彼らは記憶している場合があるのだろう。彼の言う風人とは、自分に酷似しているのだろうか。僅かに興味が沸き起こる。

「あれが存在してたんは、もう随分昔だからな。それにまさか今でもその末裔が生きてるとは思えんしなぁ……」

「ねぇ、風人って何?」

 エフィーの思いを代弁するように、ジュリアがリューサへと疑問を投げつけた。

「ん? ああ、風人ってのはな、まだ世界が天と地に分かれて無かった頃、風神が生み出した種族だって言われてる。その背には空を自由に舞う白き翼があり、天空を制する一族と歌われてたな。今ではもう絶滅したんじゃないかって言われてるんだぜ? 人間達じゃ、その存在すら忘れちまってるけどな」

「僕と似てるの?」

「いや、悪いけど知らねぇ。オレは見た事無いからな。何せ、風人が滅んだのは、何千単位の大昔だ。残念な事に、聞き知ってるだけさ。お前は自分がどういう種族なのか知ってんか?」

「うん、まぁ。僕の大陸では普通に存在してる種族だから……。翼族って言うんだ」

「翼族か。聞いた事無いな……。じゃあ嬢ちゃんも翼族なのか?」

 話題を振られたジュリアは、一瞬きょとんとしてから、慌てて首を振って否定した。

「私は普通の人間よ。翼族なのはエフィーで、エルフなのはアジェル。私達の住んでいた大陸は、この三種族しかいないのよ」

「へぇ。それじゃ辺境地に住んでるってことか? 道理で浮世離れしてる訳だ」

 エフィーを面白そうに眺めて、リューサは口元に微笑を浮かべた。
 異端のものを目の当たりにしても、暗い感情の滲まないリューサの態度に安堵して、エフィーも微笑み返す。見ず知らずの世界で、エフィーを認めてくれたような、そんな気がした。

「でも誰かにこの事言わないでよね? 売り飛ばされそうになった事もあったんだから」

「ああ、分かってるよ。種族間の偏見は未だに消えないもんな。あんさんみたいな特殊な奴は結構苦労もするだろ。こう見えても、オレはあんさん等みたいなのの味方だぜ?」

 白い歯を覗かせて笑うリューサは、細かい事は気にしないと付け足す。そう言えば、彼は種族間に隔たりのあるらしい白いエルフのアジェルにも、他と変わらない態度だった。それだけ彼は心の広い人なのだろう。世の中にはラドックの様に欲に駆られる悪人もいれば、リューサのように平然と受け入れてくれる人種もいる。悪い事ばかりでもない。その現実が嬉しかった。

「あれ、これ何だろう?」

 話を聞いていたジュリアが、エフィーの傍の床に視線を下ろす。エフィーも釣られて目を向けると、そこには半透明に輝く何かが落ちていた。手を伸ばしてそれを取ってみると、それは何かの飾り石のようだった。

「何、これ。ピアスかな……?」

 細長い円柱の青い石に、湾曲した針のような金属が繋がっている。石は青玉よりも色素が薄く、仄かな光を纏っているように見えた。エフィーはピアスなどしていないし、ジュリアもしていない。リューサは金の輪のピアスをしているが、この石とは全く違う。
 エフィーは記憶の糸を手繰り寄せ、ピアスの持ち主を思い浮かべる。

「あ……もしかしたら、さっきの子のかも。僕が一度切りつけたとき、何かが飛んだ気がする」

「言われてみればこんなのしてた気がするわ。何か高そうな石だし、グレンジェナの変わりに貰っちゃいましょ」

「うん」

 石がどんなものか分からない限り、価値があるのかは不明だが、ひとまず預かる事にした。あの少年がつけていたのは間違いないだろうが、似たようなデザインのピアスをエフィーは何処かで見ていた気がした。ラーフォスは着飾るための装飾品を数多く持っている。よくひっかえとっかえ着けているから、その中に似たような物があったのかもしれない。そんな些細な事が気に掛かり、エフィーはピアスらしいものを無造作に右のポケットへ放り込んだ。






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