始まりの終わり


 条件反射の如く、エフィーは風切り音のした方へ視線を走らせた。
 蒼く薄暗い部屋で唯一、仄かな光を運ぶ場所。開け放たれた扉の先には、黒い人影が見て取れた。記憶に新しい、漆黒の髪と、褐色の肌が特徴的な青年の姿。

「リューサ……?」

 見間違えるはずは無い。彼ほど特徴的な人物はそうそう見かけないし、彼と似た雰囲気を持つ者は砦にいなかった。ほんの少し前、突如橋が全壊した事によってはぐれたダークエルフその人が、扉の先にいた。
 割って入ったリューサは、真っ直ぐに少年を見据えていた。その手には矢を番えた黒塗りの弓が握られ、小さな刃先は少年に向けられていた。
 弓を向けられている少年は、床に膝を突き、矢の刺さっている後ろ肩を押さえていた。蹲るように身体を縮め込み、その呼吸は荒い。黒い法衣から滲む鮮血が数滴、無機質な床へと零れ落ちた。

「……誰?」

 ようやく顔を上げて、少年は部屋の入り口を睨み付けた。
 その表情に先ほどまでの余裕は無く、脂汗が蒼白な額に浮かんでいる。それでも威勢だけは失わない様は、相当な負けず嫌いを表しているようだ。

「人に名前を聞くときは、自分から名乗るもんだぜ、クソガキ」

 口角を上げ不適な笑いを浮かべて、リューサは弓を構えたまま部屋の中へ入り込んできた。

「残念だけど、君みたいな下郎に名乗る名前なんて無いよ」

「そりゃ随分と高慢な事で。まぁ、んなもんどうでもいいか。それよりもクソガキ、その手に持ってるもの、渡してもらおうか」

 己の身が傷ついたにも拘らず、少年はグレンジェナを大切そうに手で包み込んでいた。しかし、少年は先ほどと同じように、渡そうとする素振りすら見せない。石を持ったまま固く拳を握り締め、死んでも放すものかと言う勢いでリューサを見上げる。

「君みたいな輩が手にするものじゃないんだよ、この石は……」

「でもオレはそれが必要なんだ。渡さないなら……」

 リューサは番えた矢を引き絞る。漆黒に塗られた矢の先は、痛々しく肩から血を流す少年の額に向けられていた。
 己を魔族と称した少年。けれどその姿はあまりにも人と変わり無く、無邪気な言動は歳相応の子供と同じだ。何の目的があってグレンジェナを欲したのかは、エフィーには分からない。ただ、彼が必死にそれを守ろうとしているのは見て分かった。今度こそ本当に、命の危険すら在り得るにも関わらず、少年は掌を返す事は無かった。
 弓が弦の限界まで引き絞られる。木製の弓が月のように反り返り円弧を描いた。
 一矢放たれれば、恐らくそれで終わりだ。魔族は討ち取られ、グレンジェナはリューサの手に渡る。エフィーはこの面倒な騒動から解放される。それでも――。

「リューサ、駄目だ」

 それでもエフィーは、目の前で小さな子供が死ぬのを見たくは無かった。
 例え魔族だろうと、相手は子供なのだ。年端の行かない、まだ世間を学んでいるはずの子供。普通の少年ならば夢や希望を描いている無邪気な頃合。魔族の子供がどういう風に育つのかなど知らないが、それでも過ぎた悪戯を働いただけで、その命まで摘み取られるのはあまりにも可哀想だ。
 事実、この少年は誰も手掛けていない。大々的に迷惑な騒動を起こした事に変わり無いが、それでも死者が出たわけではない。邪魔をしたエフィーとジュリアは殺す気だったようだが、それも未遂に終わった。ならば、命まで奪う必要は無いのでは。

「リューサ、殺しちゃ駄目だ……」

 もう抵抗も出来ないであろう相手に、止めを刺す必要はあるのだろうか。
 エフィーの生まれて十六年間過ごした平穏な村で、殺人など起こったことは一度だって無い。犯罪など、一件だって起こった事はない。村人は血が繋がらなくとも、互いを家族のように思っていたし、殺意を抱いた事なんて無い。当然、悪人などいるはずも無く、人の命が奪われるなど常識外の世界で生きてきたのだ。しかし村の外では、人はすぐに殺しあう。同じ種族でありながら、時に憎み、殺意を抱き、罪があれば裁かれて当然。死んで当然。現に、フィーレの人間と封印の森のエルフはよくいざこざを起こしていた。そしてそれが命の奪い合いに発展していた事も知っている。翼族の村の外の世界が、そういったものだとエフィーは理解していたつもりだ。しかし、いざ目の前で人一人の命が失われると言うのは、黙認できる出来事ではなかった。例えそれが人々に忌み嫌われている魔族だろうとも。

「エフィー、殺さなきゃ……私達が殺されるんだよ?」

 沈黙を守り続けていたジュリアが、重苦しい空気を遮ってぽつりと呟いた。

「でも……、殺さなくても別に道はあるんじゃないのかな」

 エフィーを殺そうとしていた少年。あからさまな殺意を抱いていたわけではないようだが、確かに少年はエフィーの命を奪おうとしていた。リューサが割って入ってこなければ、恐らく考えたくも無い状況だったはずだ。しかし助かってしまった今、そこまで少年を憎む理由も無く、殺意を抱く事は出来そうに無かった。リューサやジュリアから見れば、その考えは甘いのだろう。だが、エフィーはどんな理由であろうとも、子供が殺されるのを見たくは無い。

「甘いね……。そんな風に考えてたら、早死にするよ。でも君、長生きしそうなタイプには見えない……けどね」

 苦し紛れの中、少年は口元に嘲笑を浮かべていた。けれどその顔色は随分と悪い。呼吸は先程よりも上がっているようで、言葉を発するのもやっとという感じだ。すぐにでも止血しなければ、そのうち過剰な出血により意識を失うだろう。もっとも、少年が見た目どおりの人と同じ身体の造りをしているならの話なのだが。

「石を渡して、大人しく引き下がってさえくれれば、僕らは君に危害を加えない」

 その言葉に、少年は双眸をエフィーへと移した。金と暗紫の鮮やかな眼と眼が合う。しかし、上空のエフィーを見上げる少年の感情を読み取る事は出来なかった。

「……本当に甘ちゃんだ」

 突きつけられた弓矢に臆する風を見せず、少年はよろけながら立ち上がった。

「動くな。死にたくなかったらな」

「死ぬ覚悟も無いのに、こんな事すると思う? ……僕を殺すならやってごらんよ。殺せるものなら、ね」

 激痛にあどけない顔を歪ませながら、少年は掌に魔力を集結させた。そして空気を飲み込み揺らぐ火の玉を作り出す。それを今まさに放とうと、少年が炎に命令を下そうとした瞬間、何の前触れも無く部屋の中に突風が吹きぬけた。

「……何っ!?」

 一陣の風が部屋の中を通り過ぎ、続いて更に激しい旋風が巻き起こる。
 唸りをあげる風に、ひらひらとした蒼い花びらのような物が混じる。目も開けていられないような風圧に、それと舞う蒼い花吹雪に全てが飲み込まれた。一瞬のうちに、少年の作り出した炎は風前の灯のように消え去った。同時に、少年に向けて放たれたリューサの矢は、風に煽られて部屋の隅へと飛ばされる。エフィーも上空で羽ばたいている事が出来ず、矢と同じように強い風を両翼に受けて壁際まで吹き飛ぶ。固く冷たい石の壁に背中から衝突し、小さな呻き声を上げてエフィーは床へ墜落した。
 背から脊髄伝いに走った痛みを堪え、薄く瞳を開き風の中心部を見やると、そこには闇が満ちていた。満開の花園が散華した如く吹き荒ぶ花吹雪の中、丁度少年のいた辺りだろうか。ぽっかりと空間を引き裂いて溢れる闇がエフィーの視界に入った。

「アヴィセイル……」

 凛とした低くも無ければ高くも無い声が、風の舞う部屋に響いた。
 空間を裂いて溢れた闇から、白い人影が覗く。ゆっくりと歩みを進め、闇から抜け出した人影は、蒼い花びらの舞い落ちる空間に姿を現した。
 雪のような人だと、エフィーは思った。銀髪の少年とは違う、似ても似つかない雰囲気を持つ青年だった。真っ白い薄布を重ねたゆったりとした衣服を纏い、その素肌は驚くほど色味に欠けている。長く癖の無い銀色の髪は、少年と似通っている気がしないでもないが、彼ほど邪気を感じる事は無かった。もし、絵空事と空想されている天使が実在するのならば、このような青年の事を言うのだろう。白い外見に、端正な顔立ちの美しい青年。一見優しげな雰囲気を持つように見えたが、その赤い瞳は何の感情も映し出してはいなかった。
 風がピタリと止み、吹き上げられていた蒼い花びらがゆっくりと舞い落ちる。

「ルシェ様」

 少年は闇から出てきたその人を見上げた。

「目的を果たしたにも関わらず、何故このような場所で遊んでいる?」

「……それは」

 少年は答えようと口を開く。しかし言い訳になる言葉が見つからなかったのか、曖昧な単語だけ呟き、再び赤みを失った唇を閉じた。

「アヴィセイル、これ以上の無駄は許さない」

「待って、ルシェ様。まだ……決着がついてない」

「何の決着だ? 私達がこの地へ赴いた当初の目的を思い出せ。お前はこんな場所でいつまでも遊んでいる気か?」

 白い青年は、少年に一歩詰め寄る。少年は血の気を失い蒼白になった表情を僅かに強張らせる。それでも精一杯の抵抗か、青年を上目に睨み付けた。

「……分かってる。でも、指図されるいわれは無いよ。僕は貴方の使い魔じゃない」

「口答えは許さない。それに、どの道お前はこれ以上無理だ」

 そう言って青年は、少年に向けて手を翳した。その掌から淡い光の粒子が零れ落ち、少年に降りかかる。
 少年は驚きに目を見開いたが、その瞳はすぐさま閉じられた。ふらふらとしていた少年の身体が揺らぎ、ドサリと重みのある音を立ててその場に崩れ落ちる。ピクリとも動かなくなった少年を、青年は抱え上げた。
 そして、呆然と成り行きを見守っていたエフィーへ振り返った。

「今、何を……?」

「眠らせただけだ。……どうやら、巻き込んでしまったようだな。勝手だとは思うが、悪かった」

 真っ直ぐにエフィーの瞳を見つめ、青年は小さく謝罪の言葉を述べた。
 エフィーはぐったりと動かない少年が、眠らされただけだという事に、心のうちで安堵した。見たところ、この白い青年は少年の仲間か何かなのだろう。エフィー達を見過ごして、少年を連れ帰ってくれると言うのなら、願っても無い事だ。
 少年を抱えたまま、白い青年は踵を返して裂けた闇に一歩踏み出した。

「待て。グレンジェナは置いてけ」

 青年がそのまま帰ろうとしている事に気付いたリューサは、慌てて呼び止めた。
 グレンジェナは気を失った少年の、固く閉じられた拳の中だ。最後まで手放そうとしなかったものが、未だ変わらずその手に包み込まれている。

「グレンジェナは我らのものだ。残念だが、お前に渡す事はできない」

 エフィー達に背を向け、青年は闇の中へと身体を沈めた。最後に一度、視線だけ振り返り、エフィーとリューサを見つめ、最後に藍色の髪の少女を見やる。幻でも見ているかの様子の少女は、ただ真っ直ぐに白い青年を見つめていた。一瞬、視線が交差したが、青年はすぐに首を振り、一言「失礼する」と呟いて、完全に闇の中へと消えていった。
 青年を飲み込んだ闇は、霧のように霧散し消え去った。後に残されたのは、風に撒き散らされた蒼い花びらだけだった。






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