始まりの終わり
「さてと、目的は叶った。君達と遊ぶの飽きてきたし……、そろそろ終わらせようか」
瞳を細め、それが冗談などでは無いと誇示するように少年は嫌みったらしい嘲笑を消した。
片手には少年の親指程度のグレンジェナを大切そうに持ち上げ、空いたもう片方の手をおもむろにエフィー達へと差し出す。上を向く掌に、青白い光が灯る。光は次第に勢いを増し、青白いまま揺らぐ炎へと変化していく。
「君達には本当に感謝してるから、せめて苦しまないように一瞬で楽にしてあげるよ」
「何馬鹿な事言ってんのよ。あんたなんかに簡単に殺されるなんて、冗談じゃないわ」
軽く少年を威嚇して、ジュリアはさっと構えた。今すぐにでも詠唱に入れる体勢の彼女を見て、再び魔術を使うのだと予想したエフィーは、空の上から少年の様子を窺う。
今、少年の両腕は塞がれている。片手にはグレンジェナ、その反対側は魔術で生み出した炎。
もし、彼が片手に持つ炎を凝縮したような魔力の塊をエフィー達へ放ったとしても、もう片方の手はグレンジェナで塞がれている。魔術による一撃を凌ぐ事が出来れば、少年の動きを封じられるかもしれない。もしくは、グレンジェナを奪い返すか。
どちらにせよ一撃、何とか流せる事が出来れば、まだ勝機はある。どうやらこの少年は目的が叶ったと言っている割に、余興に興ずる事に夢中だ。予想でしかないが、彼はこのままエフィー達を置いて帰ったりなどしない。白黒をはっきりつけるまでは引き下がらないと言うように、子供らしい負けず嫌いな面を持つようだ。だからこそ、まだグレンジェナを奪い返す機会はあるはずだ。
そう判断し、エフィーは少年の背後へと移動すべく、羽ばたいた。
「まだ諦めないんだ。往生際の悪い女は嫌われるよ」
「うるさいわね。小生意気な子供も嫌われるわよ」
「へぇ、じゃあどっちがマシか勝負してみる?」
「勝負にもならないわよ。私のがまともな性格だし、いかれ気味でもないもの」
鼻で笑い、皮肉を込めてジュリアは少年をきつく見据えた。
しかし、内心ジュリアにそこまで余裕は無かった。魔術を連発したせいか、本当のところ立っているのも辛い状態なのだ。セレスティス大陸を出てから、魔術の勉強と鍛錬は出来る限り頑張っては来た。けれど、一日そこらで急に魔力が増えるわけでもなく、自分の限界は自分自身が一番理解している。あと一撃。それが多分最後の魔術だ。それで決める事ができないのならば、少年の言うとおり、楽に殺されてしまうだろう。
魔族の残虐性については、ジュリアは良く知っている。
相手が女だろうが子供だろうが関係ない。見た目こそあどけないこの少年は、それでも躊躇う事もせずに、静かにエフィーとジュリアに死を与えるだろう。
「そんなの、笑い話にもならないわ……」
少なくとも、エフィーは守ると宣言して村を出てきたのだ。彼だけは、何としてでもこの窮地を脱させなければいけない。
背に冷たいものが流れ落ちるのを感じながら、ジュリアは拳を握り締めた。
ジュリアが僅かに視線を上へと向けると、少年の後ろの空に回ったエフィーが確認できた。
もう一度、ジュリアの魔術とうまくタイミングを合わせて、少年に斬りかかろうとしているのだろう。
ジュリアが先に動くか、エフィーが先に動くか。
しかし、ジュリアは先に動けない。もし、ぎりぎりの状態で術を放ち、それが運よく少年の気を逸らす事に成功したとして、その後動けなくなる自分はどうなるのか。例えエフィーが少年に襲い掛かったとしても、比較的軽装な少年の動きは早い。一撃をかわされてしまった場合、彼の注意がエフィーに向かうとは限らない。どちらか一方を選ぶのならば、動けない方から潰すに決まっている。ジュリアが少年の立場ならば、確実にそうすると断言できた。そして、エフィーは魔術を防ぐ術を持たない。ならば、少年はジュリアを先に消そうと試みるはずだ。
だからこそ、ジュリアが先に倒れるわけにも、動くわけにもいかない。そうなれば、必然的にエフィーの動きが合図になる。
だが、エフィーはじっとしたまま動く気配を全く見せなかった。
ただ静かに、白い翼でもって空に漂いながら少年を見下ろしている。剣だけはしっかりと少年の方へ向けたまま、それでも微動だにしない。
エフィーの真意が読めず、ジュリアは僅かに眉を潜めた。するとエフィーがちらりとジュリアに視線を向けて、口角を少しばかり上げた。次に、視線を揺れ動く水面の床へと向けてから再びジュリアを見つめ、同意を求めるように小さく頷く。
彼の言いたい事が何となく伝わり、ジュリアは目で合図を送ってから再び視線を少年に移した。
「威勢が良い割に、保守的だね。じゃあ、僕から行こうかな」
「どうぞ。かかってきなさいよ」
精一杯の虚勢を張って、ジュリアは腕を前へと差し出した。同時に、口の中で素早く精霊を呼び寄せる言の葉を紡ぐ。
「言っておくけど、これは君の力じゃ防げない……。僕と君じゃ、持ち合わせてる絶対魔力の値が違いすぎるからね」
金と紫の瞳を細め、少年は手に持っていた青白い炎ごと掌を返して、揺らぐ魔力の炎を床へと落とした。ゆっくりと少年の手から離れた炎が、床へと向かって速度を上げる。そして床に衝突した瞬間、炎は急激に炎上し、地獄の唸り声を上げて踊り始めた。
少年とその僅かな回りだけを避けて、炎の化身は祭壇を飲み込み、ジュリアのすぐ目前まで迫る。火の粉を散らし、轟音と共に燃え盛る炎がジュリアを焦がそうと手を伸ばしたところで、ようやくジュリアは術を完成させた。
見えない何かを操るように、両の腕を後ろから前へと流れるように動かす。
彼女の腕の動きに合わせ、何かがジュリアの背後より姿を現した。透明な飛沫をあげて、部屋の床に満ちていた水が、彼女の意思に沿って炎へと体当たりをする。
「防護壁じゃ防げないから、水で相殺しようっていうわけ? 無駄だよ。この炎は冥界より呼び出した炎。普通の水じゃ消せない」
「それはどうかしら?」
少年の言葉通り、ジュリアと炎との間に割って入った流水は、はっきりと耳に届く蒸発の音と共に、水蒸気へと変わっていく。
炎に呑まれ気化していく水が、白い靄を霧散させる。
蒼い炎と白い蒸気が合わさり、部屋の中の視界は最低まで落ちる。少年は小さく舌打ちをすると、思考を切り替えて空に居るはずのエフィーを探した。まずは空にいる翼族の少年を床へと落とすほうが手っ取り早いと考えたのだろう。しかし、少年の視界は、高熱に焼かれた水の蒸気で霞がかっていて、ほとんど何も見えないと言っても過言では無かった。
「まさか、これが狙い……?」
少年が使おうとしていた魔術は炎属性。それと相反する属性の魔術をぶつける事で、相殺は出来なくとも視界を曇らす事くらいは出来る。たいした力量は無いと踏んでいた少女が、予期せぬ戦法と取った事に、少年は心の内で悪態をついた。同時に自分が傷つく事も厭わないともとれる行動が理解できず、むっと顔を顰める。しかし、そんな事を考える暇もないので、少年は一度宙へと舞い上がろうと魔術を操った。
刹那、鋭く風を切る音を間近で聞き取り、少年は咄嗟に横へ飛んで殺気を纏った何かを避けた。
びゅうっと空振りをする何かを垣間見て、それが棍であるのを確認する。剣ではない、杖代わりとしても術士に愛用される、シンプルな飾り石のついた青い棍。それは確か、エフィーと呼ばれていた翼族の少年ではなく、藍色の髪の少女が持っていたもの。
「はあっ!」
再び空を引き裂いて、白く霞む視界の中、細長い青が少年めがけて振り下ろされる。
寸前のところで身を引いて棍を避け、少年は最後の抵抗を試みる少女に声をかけた。
「水でうまく身を守ってるみたいだけど、そろそろ限界なんじゃない? この炎に水の守りはそう長く持たない。このままじゃ、君、焼死するよ?」
「っは、その前にあんたを気絶させてやるわよ。術者さえぶっ飛ばせば、こんな仮初の炎、熱くもないわ」
苦し紛れにそう言い放ってから、ジュリアは再び棍を一回転させてから薙いだ。今度こそ、少年が避けようの無いほどに深く踏み込んで、少年の胴の辺りを狙う。
「理解できない……」
少年は今度は右にも左にも飛ぼうとはしなかった。その場で強く大理石の床を蹴り、重力を操り身体を宙へと浮かす。そうする事で、ジュリアの渾身の一撃を軽々しく避ける。
取り残された少女が炎に包まれるのを予期して、少年は口元に微笑を浮かべた。
しかし、それまでだった。
別に彼の存在を忘れていたわけではない。宙で待ち構えているのは予想済みのはずだ。ただ、霞む視界と予想しなかった少女の行動が、少年の冷静な判断力と感覚を狂わせたのかもしれない。
棍が風を切り裂くよりも遥かに鋭利な風の音、冷たい金属の鈍い光を金色の瞳で捕らえたが、それでも少年は突然の事に反応が遅れた。
「……っ!」
白い霧の漂う空間に鮮血が舞う。
同時に、光り輝く何かが、きらりと光を零して床へと落ちて転がる。
少年の首筋から頬にかけて、一筋の赤い亀裂が生じた。鮮やかな銀色の髪は毛先を刎ねられて、はらりと数本漆黒の法衣へと落ちる。
傷は浅い。けれど、少年は信じられないものを目の当たりにしたかのように、恐る恐る、切り裂かれた頬に手を当てた。
滴る赤い液体が少年のほっそりとした指を伝い、雫となって零れ落ちる。
少年は静かに、自分を切り裂いた剣を少年へと突きつけているエフィーを、無感情な瞳で見つめた。
「やってくれたね……」
今までの高飛車な声色ではなく、歳相応であろう少年らしい声が凛と張り詰めた空間に響く。
「炎を消すんだ。……じゃないと、今度は本当に斬る」
鋭い視線を真正面から受け止めて、エフィーは少年に言った。剣先は少年の首筋にぴたりと当てられている。しかし、少年は顔色を変えることも無く、無言でエフィーの要求に答えた。
静かに片手を上げて、パチンと指を鳴らす。すると、大理石の床を舐めていた青白い炎が瞬時に消え去る。同時に旋風が巻き起こり、白い水蒸気もろとも全て吹き飛ばした。
露になった部屋の真ん中で、ジュリアは方膝をついて佇んでいた。服の裾が少しばかり焦げている気がしないでもないが、見たところ無事のようだった。多分、床の水を自身に纏わりつかせ、炎から身を守ったのだろう。エフィーはほっと胸をなでおろして、再び少年に詰め寄った。
「グレンジェナを、渡すんだ」
「残念。それは出来ない」
「君の負けだろ? おとなしくそれを渡すんだ」
「……グレンジェナを手に入れて、どうするつもり? 永遠の命が欲しい? それとも、嘘か真実かも曖昧な宝玉を夢見てる?」
片手に持ったグレンジェナを見せつけ、少年はエフィーに問いかけた。
「どっちもいらないよ。ただ、君はそれを悪用するんだろう? だったら渡せない」
「グレンジェナの悪用法があるとでも? グレンジェナには何の力も無い。ただほんの少しだけ、人に生命力を分け与えてくれるだけで、それ以上の力は無い。世間では不老不死を約束するだの、死んだ人を蘇らせられるだの言われてるけど、そんなのは全部浅ましい妄想に過ぎない」
「じゃあ、何でそんなものを欲しがるんだ?」
少年はその質問に先程と同じように、軽く笑った。
「だから、それは君達が知る意味は無いんだよ。ここで終わる人間に話したって、時間の無駄でしょう?」
満面の微笑を浮かべて、少年はエフィーの剣に手を伸ばした。
冷たい刃に指先で触れ、剣を突きつけられている立場の人とは思えないほどに、余裕に満ちている。
困惑した様子のエフィーの一瞬の隙をついて、少年はエフィーの剣先から逃れた。宙を軽やかに飛び、再びエフィーと視線が交差した時、少年の手には赤い光が存在した。それは魔術によって召還された紅蓮の炎。
「これで本当に終わりだ」
勝利を確信して、少年は炎を纏った腕を振り上げた。
「ああ、てめぇのな」
その言葉を言ったのは、エフィーでは無かった。
木の軋むようなくぐもった音が少年の背後から聞こえ、続いてびゅっと勢い良く風を切り裂いて何かが迫る。次の瞬間、背に先の尖ったものが突き刺さり、その鋭い痛みに少年は悲鳴をかみ殺したような呻き声を上げた。