始まりの終わり


 緩やかに腕を振り上げ、少年は優美とすら思える微笑を浮かべた。
 少年が魔術を使うのだと判断し、エフィーは咄嗟にジュリアの手を引いてその場から飛び退く。
 予想違わず、エフィー達の立っていた場所に旋風が巻き起こる。容赦の無い、鋭く渦巻く風が唸りをあげて吹き抜けた。その余波を僅かに掠めたエフィーの髪の毛が数本宙に舞う。

「案外すばしっこいんだね」

 余裕の笑みを消す気配も無く、空に漂う少年は更に魔術を操った。
 エフィーがそれをかわすべく動く前に、今度はジュリアが一歩前へ乗り出し、短く精霊を呼び出すための詠唱を口ずさみ、掌を空へと翳す。
 少年が腕を再び振り下ろし、眼に見える火炎をエフィー達に向けて放つ。炎は盛る轟音と共に、二人に向かい勢い良く襲い掛かる。
 しかし、それはエフィーたちに害を及ぼす事無く、二人の前で掻き消えた。ジュリアの先の詠唱は、魔力の障壁をはるものだったらしい。見えない力の防護壁に守られて、少し余裕の間を作ったジュリアは、エフィーの肩を軽く叩いた。

「エフィー、おかしいと思わない? あの子、精霊の力を借りてないのに魔術を使ってるわ。いくら魔族でも、炎や風の術は精霊無しには使えないはずよ」

「どういう事?」

「普通なら、私たち術師は精霊の力を借りるの。だけど、あの子はそれをしてない。現に、私は精霊を呼ぶために詠唱を行う必要があるけど、あの子は詠唱なしで魔術を操ってる。ありえない話なのよ」

 確か魔術を使役するには、それ相応の言葉を紡ぎ精霊を呼ぶ必要がある。そして精霊に魔力を与え、命令を出して初めて術として完成するのだ。それは前にラーフォスからある程度聞いて知っている。
 ジュリアも魔術を使うときは必ず短かろうが長かろうが、詠唱の言葉を呟く。それが世間一般に知られる魔術の使用方法なのだ。しかし、この少年はそれをしない。つまりそれは、精霊の力を借りる魔術ではないと言う事になる。

「それじゃあ、つまり……?」

 それは一体どういう類のものなのか。
 そう問いかけようと口を開いたが、それよりも早く少年が動いた。

「――っわ!」

 再び放たれた炎の閃光が、ジュリアの作り出した障壁を貫き、エフィーの頬を掠めた。熱を持った小さな痛みにエフィーは眉根を寄せる。右の頬から一筋、赤い雫が滴った。

「つまらないね……。反撃もしないの?」

 残念そうにエフィーを見下ろし、少年は肩を落とした。
 勿論、エフィーもこのままではいけないと言う事は分かっている。けれど、まさか少年が空を飛ぶとは予期していなかった。ジュリアの魔術を当てられればいいが、詠唱の必要ない魔術を操る相手に、ジュリアの術は当てづらい。同時に術を放ったとして、先に次の術に移れるのは恐らく少年だ。エフィーは盾ぐらいにはなれるかもしれないが、それではリスクが大きい。
 ならば、方法は一つ。
 遠距離では無く、近距離戦に持ち込むのだ。それが出来れば、多分勝機はある。

「ジュリア、僕があいつを宙から落とす。そこを、魔術で狙うんだ」

 小声でそっとジュリアに囁き、エフィーは背負っていた剣を抜いた。
 白銀の刃が青い光に反射して、僅かに煌く。

「分かった」

 小さな返答を聞き届け、エフィーは背の翼を具現化させた。青白い部屋の中、純白の翼が広がる。ばさり、と調子を確かめるために羽ばたいて見せ、エフィーは標的を見上げた。
 白い翼を目の当たりにし、少年は動揺の色を隠しきれずに両の色違いの瞳を瞬く。

「……翼族?」

 小さく紡がれた言葉にエフィーは勿論、ジュリアも驚きの視線を向けた。

「知っているのか?」

 セレスティス大陸以外には存在しないと思われていた翼族。それを確実に証拠づける目に遭っているエフィーとしては、この魔族の少年が翼族を知っているとは思えなかった。例え魔族と言えど、容易くセレスティス大陸に立ち入る事は出来ないはずだ。

「まさか、こんな所で翼族に出くわすとは思ってなかったな……。どうりで、貴方から人間らしい気配を感じないわけだ」

「悪かったな。僕はもともと人間じゃない」

 翼を背に隠せば人間に見えると言うだけで、エフィー自身は決して人間では無い。
 今更驚かれても、別段なんとも感じない。
 未だ困惑した様子の少年の隙をついて、エフィーは翼を大きく羽ばたき、冷たい床を蹴った。
 宙へと舞い上がり、少年に向けてエフィーには少しばかり大きすぎる剣を振り上げる。
 少年は身を翻して、袖から短刀を取り出し、真正面から向かってきたエフィーの剣を受け止めた。
 しかし、その小さな体ではエフィーの剣の重さを支えられないのか、僅かな腕の震えが金属を伝わってエフィーに届いた。
 魔術に関してはかなりの自信があったようだが、エフィーの予想通り力はそれほど無いようだ。ましてや、エフィーの剣の半分位の刃渡りしかない護身用程度の短刀では、力でも上回るエフィーの一撃を何度も受け止められないだろう。
 そう確信して、エフィーは少年の短刀を弾き、再び横に薙ぎ払った。

「っち」

 少年は器用に短刀を返し、空いていた手を使ってエフィーの一撃を魔術の障壁で受け流す。しかし、無理な体勢にバランスが崩れ、少年は宙を蹴って後退した。そしてそのままエフィーの追撃を逃れるべく、重力を身に戻し大地へと降り立つ。

「そこまでよっ!」

 体勢を立て直せていない少年に向け、今度はジュリアがあらかじめ詠唱していた炎の魔術を放った。勢い良く燃え盛る炎の柱が、床に飛び散った水溜りを蒸発させて少年に襲い掛かる。
 大理石の床へ足をつけた少年は、はっと顔を上げた。すぐ目の前まで迫った炎を、左右違う色の瞳で見つめる。
 しかし、それ以上動じる様子は無く、少年はゆっくりと腕を炎に向け、聞き取るのも困難なほど小さな声で何かを呟く。少年の指先が仄かな光に包まれ、次の瞬間、透明な水に波紋が広がるように空間に歪みが生じる。
 エフィーが目の錯覚かと思い少年に目を向けると、少年を飲み込もうとしていた紅蓮の炎はたちまち消えた。
 掻き消えたのではなく、そのまま空間から消え失せたのだ。まるで、初めから何も無かったかのように。もしくは、異空間にでも存在ごと飲まれてしまったかのように。

「そんな……」

 信じられないと言いたげに、ジュリアは呟いた。
 絶妙なタイミングで術を放ち、それが確実に相手を仕留めると信じて疑わなかった。いくら詠唱なしに術を使う事が出来ても、一度術を使って次の術に移るまでには、相応の集中力と精霊を呼び寄せる間が必要だ。しかし、ジュリアはその間も相手に与えたつもりは無い。
 だが、少年は余裕で術を使った。つまりそれは、彼が使う力が精霊の力を借りる一般的な魔術で無い可能性を高める。

「残念。結構良い線いってたけどね。でも、一つ忘れてない……? 僕がどうやって君らをこの場所に移動させたのか」

 全く邪気を読み取れない微笑を浮かべ、少年は愛らしく小首を傾げてみせた。

「どうやってって、君が僕らを空間移動させたんだ、ろ……?」

 自分で言って、初めてエフィーは事を思い出す。
 そうだ。確かに、この少年の術にはめられ、迷宮へと飛ばされた。急に暗闇の世界へ飛ばされて混乱していたのか、その事を深く考えはしなかった。けれど、よくよく思い起こしてみれば、それは絶対にありえない事。空間を渡る魔術など、普通は使えない。自由に空間を渡るのを許されているのは、限られた一族のみなのだから。そして、その術を心得ているのは、人でも魔族でも無い。
 時空術と呼ばれる空間を操る魔術は、至高の一族だけが有する力。決して、簡単に扱えるはずの無い魔術だ。

「そうだね。だから、僕がその気になれば、こういう事も出来るってわけだ」

 悪戯を思いついた子供の表情でにっと笑い、少年は軽く床を蹴って体を浮かせる。そして、再び床に足が着く前に、少年の姿は闇に溶けて消えた。
 天井に近い場所にいたエフィーは、忽然と消えた少年を探した。そう広くは無い部屋の中、嫌でも目を引く銀色の少年の姿は見当たらない。
 不意に嫌な予感がして、エフィーは祭壇の方へ目を向けた。そして望んでも無い予想が当たってしまった事に気付く。少年は、音も無く祭壇の後ろ側の影から姿を現した。その気配を感じ取ったジュリアが振り向くと同時に、少年は祭壇に手を伸ばす。
 静かな光を湛えていた輝石が、少年の手に導かれる。少年は愛おしそうに、青きグレンジェナを両の手で包み込んだ。

「これで二個目……」

 猫なで声とすら思える優しい声色で呟く。そしてゆっくりと、少年は顔をあげた。






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