迷宮


 暗い迷宮。見渡す限りの闇に、微かに混じる異質な気配。
 浅い眠りの中にいる。そうエフィーは思った。けれど夢と現実の狭間を彷徨っているような感覚に、ただ困惑する。
 意識は確かにあった。しかし体の自由は利かない。まるで鉛にでもなってしまったように、酷く体が重く感じられた。しばらく目を覚まそうと努力してみたが、動けないと観念して、思考だけを巡らせる。
 瞳は閉じられ、辺りはただ闇ばかりが広がっていた。それは、目覚める前の瞬間に似ている。意識が現実に戻りかけて、それでもまだ目覚めない中間地点。薄っすらとした意識だけが存在する。
 ――早く目覚めなければ……。
 そう思っても、思い通りにいかない。
 静寂と暗闇の中、少ずつ何かが近づいてくる気がして、エフィーは耳を澄ませた。あるのは静寂。けれど、音無き何かが意識そのものに呼びかけるように、闇に紛れて何かを囁く。無音の世界の中、自分に呼びかける声を、確かにエフィーは聞いた。

『待っていた……』

 それは脳に直接流れ込む、音無き声。流水のように澄み渡る、子供の声に思われた。
(誰?)
 声にして答えようとしたけれど、口はやはり動かず、頭の中で答える。届くはずは無い。そう思いながら、以前にもこのような体験をした気がして、淡い希望のもと更なる声を待ちわびる。
 答えは、期待に答えるかのように緩やかに、返ってきた。

『前に一度、お会いした。あの時も、夢と現の狭間にて……』

 夢と現の狭間。それはエフィーにとって覚えの無い事柄だった。夢の中で、架空の人物と話をした事はある。けれどそれは夢で、意識あってのものでは無い。夢は夢。現は現。その見分けが出来ないほど、めでたい頭では無いつもりだ。
(僕は知らない)
 声の主を知らない。それでも、意識に呼びかけるこの声は、前に一度聞いた気がした。
 それがいつどこでだったのか、記憶の欠片にも残ってはいないのだけれど。だが、確かにこの声は始めて聞くのではないと、確信に似た思いを抱く。そしてより一層、不安を呼ぶ疑問が浮かぶ。

『そう。貴方は何も知らない。全てを知りえるのは、貴方の額に刻まれた石の記憶のみ。だけど、僕は貴方を待っていた……』

(僕を? ……何で?)

『貴方が、求める道を選んだから。……だから、僕が貴方を導いてあげる』

 何を、求めたと言うのだろうか。
 エフィーが今まで追ってきたものは、顔も知らない父と、存在すら定かでは無い神族。しかし、この言葉が嘘だとは思えなかった。様々な含みを帯びた言葉に、戸惑いは隠せない。だが、この言葉の中に、エフィーの望むものがあるのかもしれないと、微かな希望が頭を過ぎる。
(何処へ、導くの……?)
 目指すべき地は無い。あえて目指すものがあるとすれば、それは人には行けないと言われる神界だ。その場所へ、導いてくれるというのだろうか。

『僕のもとへ。そうすれば、全ての答えと道が見つかるから。エフィー』

 直接脳に響く声はやはり子供のように高く澄んでいるのに、その言葉は酷く穏やかだった。
(ああ、君のもとまで行くから、その方角を教えて)
 これが夢ならば、その言葉も偽りで構わない。だけどもし、この声が本当にエフィーを導いてくれると言うのならば、それに縋りたいと願う。終わりの見えない追いかけっこに終わりをもたらしてくれると言うのならば、その言葉を信じよう。
 エフィーはただ、返る言葉のみを待った。
 そして、声は躊躇う時間を置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

『目覚めて、真っ直ぐに進んで。立ち止まらないで、真っ直ぐに東へ……。きっと紅き守護者が迎えに来てくれるはずだから』

 気付くと、少しずつ闇が遠ざかっていっていた。辺りが白くぼやけ始め、目覚めを知らせる。
(待って。まだ聞きたいことが……)
 この声は何でも答えを知っている。確信に似たものを覚え、エフィーは遠ざかるその存在に呼びかけた。しかし、闇が遠ざかる速度は増すばかり。薄っすらとしていた意識は、覚醒しようと鮮明になっていく。暗闇が完全に去り行き、耳に痛いほどの静寂に、良く知る喧騒が混じる。

『待っているから……』

 その言葉を最後に闇は霧散し、エフィーの意識は完全に目覚めた。


◆◇◆◇◆


「いい加減起きなさいっ!」

 張り詰めた空気に響く、威勢の良い怒声と乾いた平手打ちの音。
 虚ろな意識は頬に走った痛みに吃驚し、はっきりと覚醒する。
 そして鮮明になった意識の中、前にもこんな事があったと、確信する。しかし、そんな事を思う束の間、再びジュリアの声が耳元で響いた。

「エフィー、エフィーエフィー」

 思わずやかましいと言い返したくなるような状況下、ようやくエフィーは瞳を開けた。頬がじんわりと悲鳴を上げて、自然に手がそこへ宛がわれた。痛みは軽く、痛覚は次第に消えうせるように静まる。

「……おはよ」

 予想通り、視界の先には幼馴染の少女がいた。彼女はエフィーを見つめると翠色の瞳をすうっと細めた。

「おそようよ。目、覚めた?」

「うん。どっかの誰かさんの手厚い介抱のおかげで、気分は最高だよ……」

 エフィーが呆れたように呟くと、ジュリアはおかしそうに笑った。

「それは良かった」

「ねぇ、ここは?」

 エフィーが体を起こして尋ねると、ジュリアは上を仰いだ。そして再びエフィーに視線を向けると、少しばかり驚いたような顔をする。

「覚えてないの……? 私たち、あの溝からずっと落ちてきたんだよ。エフィーが落下を緩めたみたいだったけど」

「僕が? ……全然覚えてないや。確か、ジュリアと一緒に落ちて……。それからは記憶に残ってない」

「……そう。記憶に無い、か」

 高い場所から落ちると、人は大地に衝突する前に意識を失うらしい。それは防衛本能が働くからであって、当然と言えば当然だ。しかし、ジュリアは気を失わなかった。痛みから逃れるために意識を手放すよりも早く、エフィーが危険を止めたからだ。しかし、危機を救ったはずのエフィーは全く覚えていないと言う。
 その不思議さに、ジュリアは困惑の視線をエフィーに向ける。エフィーは考え込むように、ぼんやりとしていた。その様子に、これ以上尋ねても無意味だろうと諦め、今度は別の話題を持ち出す。

「リューサは大丈夫かしら……? 上に残してきちゃったみたい」

 意識ここにあらずといった感じのエフィーを横目に、一人ごちにジュリアは呟いた。
 リューサはエフィーと共に居たはずだが、突然の出来事に動けなかったのだろう。今頃は崖の上の奇跡的な場所で、一人だけ残されている事だろう。この場所から、落ちてこいなどと言えるわけも無く、受け止める事も出来はしない。しかし、このまま放って置くのも気が引ける。確か、彼は縄を持っていた。けれど、その縄で下まで降りるには、少しばかり長さが足りないように思われた。橋は半壊以上に酷い有様であろうし、そうするとリューサは完全に取り残された事になる。
 見上げても、中途半端に拓いた崖が見上げられるだけで、その先は暗闇で覆われていた。
 とりあえず、エフィーを飛ばせて行かせられる状態でない事は確かだ。いつ、中途半端に崩壊した橋が落ちてくるかも分からないし、落ちてきた溝は幅も狭い。両翼を傷つけながら飛ぶのは無理だ。

「あの橋……随分と脆かったね。でもおかしいわ。だって、私が渡り始めたとき、全然大丈夫だったのよ? まるで誰かが小細工したみたいだわ」

 見えない何かの力が働いたかのようだ。ジュリアは魔術を操る事が出来るから、それに近い力が身近で動けば気付くはずだ。例え微弱な力だとしても、精霊の動きと言うものは自然に空気を通して伝わるのだ。精霊の動きと気配を読む。それは魔術を操る者の最低限の資質の証だ。
 しかし、今回ジュリアはその手の力を感じなかった。
 それにも関わらず、橋は突然崩壊した。けれど偶然で片付ける事は出来そうも無かった。何故なら、力の気配こそ感じなくとも、崩れた橋は確かに丈夫な状態だったのだから。突然崩れるなど、ありえるはずが無かったのだ。浮かぶ疑問は後を絶たないが、今はそんな事に構ってもいられない。答えなど、今この場では誰も出せるはずが無いのだから。
 ジュリアは考えを切り替えるように軽く頭を振った。

「エフィー、こうしててもしょうがないわ。リューサの事は気掛かりだけど、多分大丈夫よ。あの人もラーフォスも、一応旅慣れしてるみたいだし。こういう状況でも冷静に対処できるはずだわ。だから、とりあえず私たちは先に進みましょう? こんな場所にいつまでもいるわけにはいかないもの」

 ジュリアが普段よりも声色を柔らかくしてそう言うと、エフィーはようやく考え込むのをやめてジュリアを見た。ジュリアは何となく、微笑んだ。するとエフィーも、ようやく放心していた心を取り戻したかのように、苦笑いを浮かべた。
 エフィーはぼーっとした後で、こうやって苦笑いを浮かべる。それは考え事を悟られないための癖なのだが、ジュリアにはお見通しだろう。それでもやはり癖は抜け切らないものだ。慌ててフォローするように、エフィーはジュリアの言葉に答えるべく口を開いた。

「うん、そうだね」

 短くそう言い、エフィーは立ち上がった。そして、漆黒に塗りつぶされた廊下の先を見据える。道は真っ直ぐに一本だけ伸びていた。今までの閑散とした狭い回廊とは一変した雰囲気の廊下。冷厳な空気を放つ、壮麗な廊下に思われた。
 エフィーは隣を振り返って、未だ座り込んでいるジュリアに腕を差し出した。

「行こうか」

「うん」

 差し出された手を取り、ジュリアは立ち上がる。そしてそのまま、手を離さずに一歩前へと足を踏み出す。
 触れたジュリアの手が僅かに強張っていて、エフィーは心の中で驚く。
 思えば、彼女はエフィーとリューサに会うまでは一人きりだった。暗闇の中、それがどれほど心細かったかを考えると、その手を振りほどく事は出来なかった。労わりの言葉をかけてやるべきかとも考えたが、その考えはすぐに消えた。気丈に振舞う彼女に、そんな言葉を言えば、逆に怒られてしまいそうだ。
 あえて何も言わず、エフィーもジュリアの手を握ったまま歩き出した。

「ねぇ、エフィー。何か、頭とか変な場所は無い? どこか痛い場所とか」

 不意にジュリアがそう尋ねてきたので、エフィーは視線だけ少女に寄越す。
 別段、エフィーの体に異常は無い。いつも通りだ。気を失っていたためか、僅かに血圧が下がっている気がしないでもないが、それもすぐに元通りになるだろう。あれだけの高さから落ちたというのに、傷一つ無いのはおかしな話だが、それは覚えてないので聞き返しても仕方ない。エフィーは体の調子を普段と比べてみるが、やはり怪我などしていないし、おかしな部分も無い。

「別に、大丈夫だけど……、何で?」

 不思議そうにジュリアを見やる。
 ジュリアは何かを言いかけて口を開いた。しかし、その唇から声が紡がれる事無く、静かに閉ざされた。変わりに、ジュリアは首を横に振り、エフィーを見上げた。

「ううん、何でもないよ。ただ、怪我とかあるかなって思っただけだから」

 そう言って、ジュリアはぎこちなく笑った。
 エフィーは少女の様子に微かな疑問を持つが、更に問いだすのはやめておいた。
 しばらく二人は無言で道を進んだ。
 ジュリアが魔術で作り出したと思われる淡い発光球が、二人の少し前を漂い暗い道を照らす。
 廊下を進むうちに、エフィーは微かに頭痛を覚えた。脳の神経が痛みを伝えたというよりは、額が痛んだと言う方が合っている。けれどそれはすぐさま遠のき、一瞬の頭痛は消え去る。変わりに、エフィーの脳裏に先程の夢での言葉が蘇った。
 ――目覚めて、真っ直ぐに進んで。
 道は真っ直ぐに伸びている。もし、あれが夢であって夢でないのだとすれば、この先に何かがある。何故だか、そんな気がした。何の根拠も無い言葉と夢。だけども、それがただの夢ではないように思われた。自分に都合よく解釈しているだけなのかもしれない。それでも目覚めた先、体を起こして一番に目に付いたのは、真っ直ぐに伸びたこの道だったのだ。ただの偶然か、それとも何か意味があるのか。
 それはこの道が答えを出す。
 エフィーは歩く速度を僅かに速めた。隣ではジュリアも、エフィーに合わせて歩幅を広くする。そして沈黙を守ったまま結構な距離を進み、やがて二人は足を止めた。
 長い廊下に終わりが来たのだ。景色は変わらない。二人の周りは冷たい石の柱と、装飾細かな彫り細工の壁。そして無機質な大理石のタイルを散りばめた硬い石の床。
 けれど、二人の目前には聳え立つように立ちふさがる、一枚の巨大な扉が存在していた。
 扉は薄っすらと光を放っているらしく、回りの無機質な灰色では無く仄かに青味を帯びていた。鍵穴も、扉を開くための握りも見当たらない。廊下の幅を目一杯取り、高さは二人の背を遥かに越して、辛うじて視界の端に入るほどだ。扉は不思議な威圧感を持って、その場に佇んでいた。
 そして二人の歩みは扉を前に、自然に止まっていた。
 決して今まで見当たらなかったもの。長く続いた回廊の終着点。
 二人は息を飲み、呆然と扉を見上げた。






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