迷宮


 自分よりも背の高い相手を担ぎ上げるのは、やはり結構な力が要る。エフィーは顔には出さないようにしたけれど、内心文句の一つでも言ってやりたい心地だった。リューサを投げれば良いとジュリアは簡単に言った。けれどエフィーにはリューサを辛うじて引っ張り起こして、立たせるのが精一杯なのだ。このまま彼を結構な深さと長さの溝の上に投げるなんて芸当、出来そうも無い。

「ほら、エフィーさっさと投げなさいって」

 やはり簡単に、出来るのが当たり前だろうとでも言いた気に、ジュリアが手招きする。

「いや、やっぱ無理だって。リューサ結構重いし……。とてもじゃないけど、そっちに行く前に落ちちゃうよ」

 もしこれが大股で渡れるような距離なら、エフィーだって根性出して頑張っている。しかし、溝の幅は助走をつけて跳んでようやく超えられそうな距離だ。だから、助走をつけるスペースなどの無いこの場所で、気を失った男を抱えて跳べと言うのは酷な話だ。

「エフィー、もたついてたってしょうがないでしょ? せめてリューサを叩き起こしなさいよ。それとも、私が冷水でも掛けてあげよっか?」

「いやっ、それは結構だから!! 僕も一緒に濡れるし」

 前に一度、幼少の頃を数えれば両の指を使っても足りないくらいジュリアに冷水を掛けられた経験があるエフィーは、それだけは勘弁と言う様に、必死に首を振った。そしてやはり、我が身が一番可愛いので、彼への配慮は捨て去ることにした。心の中で謝りつつリューサを再び地面に置く。
(ごめん。でも起きない君も悪いんだよ……)
 エフィーはリューサの幸せそうに眠る横っ面を数度、平手で張ってみた。
 乾いた音を立てて、リューサの頬は僅かに赤く染まる。しかし、遠慮がちに手を抜いたせいか、一向に起きる様子は無い。気は引けるものの、もう一度彼の肩を掴んで揺すってみた。うまい具合に、頭が地面の土にぶつかる様にして。かくかくと、リューサの首が力なく前後に傾き、後ろへ行くたびにそう硬くはない地面に頭をぶつける。

「……ん」

 流石にこれは効果があったのか、リューサはようやく起きるようなそぶりを見せた。
 これならきっと目を覚ましてくれるだろうと、調子に乗ってエフィーは更に激しく揺さぶってみる。

「リューサー。起きっ……」

「やめいっ!」

 のんびりした口調で起こそうとした言葉は、言い切る事無く途切れた。代わりにリューサの目覚めの挨拶が暗い廊下に響き渡る。ついでに、ごんっ! という、何か硬いものと硬いものがぶつかる様な音が続く。

「って……!!」

 勢いづいて起き上がったリューサの額と、リューサを起こそうとしたエフィーの顎が見事に衝突したらしい。二人は小さく苦しみの呻き声をあげて、お互いぶつかった場所を手で押さえる。
 その様を目前にし、ジュリアは呆れたように溜息を吐いた。

「いったー、折角人が好意で起こしてやったってのに……」

「阿呆っ。もっとマシな起こし方があるだろうが!」

 ようやく目を覚ましてくれたリューサは、片腕を地につけて半身だけ起き上がり、勢い良くそう言い放った。

「昨日手ひどい人の運び方してた奴に言われたくないよ」

 今朝のジュリアではないが、この男と話しているとつい、心からそう思っているわけではない冗談じみた憎まれ口が零れる。それは不思議と場の緊張感も、不安も木っ端微塵に打ち砕かれるような。そんな気がした。

「あ、あれは不可抗力! ……それよりも、ここは何処だ?」

「分からない。リューサが穴に落ちて行き着いた場所みたいだけど?」

 リューサは場所を確かめるためか、辺りを見回す。そして、先程のエフィーと同じように、自分の置かれている状況を把握すると、僅かに顔が青ざめた。

「ず、ずいぶんすごい所にいるみたいだなぁ、オレ等……」

 先程までの威勢は嘘の様に、リューサは小さく呟いた。

「本当、奇跡的な場所に落ちたわよね」

「何だ。嬢ちゃんもいたんか。って事は、後はあの金髪の兄ちゃんだけだな」

 はぐれた仲間のうち、ラーフォスだけ未だ見つからない。それでもジュリアと再会できた事は奇跡とも言えた。何せ、右も左も分からないような、真っ暗闇の回廊に突然投げ出されたのだから。

「ラーフォスね。あの人ならきっと大丈夫よ。何だかんだで逆境に強そうだし。それよりも二人とも、さっさとこっちに来なさいよ。いつまでそこに居る気なの?」

 半ば呆れながら、ジュリアは先程と同じように手招きする。
 リューサは少しばかり下を覗き込んでから、一瞬体を強張らせた。だが、すぐに崖っぷちから離れると立ち上がる。そして腰のベルトに結び付けてあった布袋から、何か縄のような物を取り出す。

「こんな幅開いとったら、渡るに渡れんよな。ほら、嬢ちゃん。この縄どっかに巻きつけてくれ」

 リューサは取り出した結構な長さの縄の片端を自身で握り、もう一方の丸め結わいてある縄をジュリアに向かって投げた。軽い縄は余裕で溝を超え、ジュリアの手元に届く。

「うん、分かった」

 言われたとおり、ジュリアは傍らにあった橋を支える柱に、渡された縄を結びつけようとした。しかしそれは突然地面から聞こえた不穏な音に、動きを止めざる得なかった。
 聞こえてきたのはエフィーとリューサのいる不安定な地面ではなくて、もっと硬質な何かにひびが入るような音。ぎょっとして、エフィーが音のしたであろうジュリアの足元を見やった。彼女の隣の橋と天井を支える柱は、暗闇へと続く橋の下にかけて、先程は認められなかったひびが走っていた。突然の出来事にエフィーは狼狽え、だけどもうまく言葉に出来なかった。ただ、危険だと伝えようとした時には、橋の亀裂は更に深く勢いづいて広がっていた。

「ジュリア、こっちに!」

 まだ助走をつけられるだけの距離があるのだから、何も無いが自分たちのもとへ来い。
 エフィーの言いたい事が伝わったのか、ジュリアは、咄嗟に走り出す。しかし、彼女が橋の際から足を離す前に、ビシッビシッと橋は更に亀裂を増やした。そして、ほんの一瞬。音は途切れ、時が止まったかのような静寂が訪れる。不思議に思ったジュリアが、走る足を止めかけた瞬間。亀裂を凌駕した崩壊の音が、大地の揺れと共に響き渡った。

「嘘でしょー!?」

 悲鳴じみた叫び声を上げて、ジュリアは崩れ落ちる床を蹴った。そして、縄を持ったままエフィーの元へと飛び上がる。

「ジュリア、危ないっ」

 必死に走ってきたのだろうが、とてもジュリアがエフィーの元に届きそうな気配は無い。エフィーは身を乗り出して腕を伸ばす。それにつられて、ジュリアも腕を伸ばした。ほんの僅か、あと少しで届きそうだった指と指。しかし無情にも、それが触れ会う事は無かった。
 危ないとか、駄目だと考えるよりも先に、エフィーの体は自然に動いていた。
 ぎりぎりまで踏み出していた足を、何も無い宙に一歩踏み出す。そして次第に遠ざかるジュリアの手を追いかけるように、更に腕を伸ばした。

「エフィー」

 聞きなれた少女の声が名を呼び、エフィーはその手を取った。
 その背後で、形作っていたはずの橋が轟音と共に崩れ落ちる。まるで、辛うじて崩壊に耐えてきた廃墟のように。一瞬の間も置かず亀裂は広がり、橋は形を失っていく。
 同時にエフィーとジュリアも、崩壊し崩れ落ちる橋と共に底知れない暗闇へ吸い込まれる。お互いの手を取り合ったまま。
 轟音に混じり、上からリューサの叫び声が聞こえた気がした。
 行く先々での不幸を抜いても、自分の不運には呆れたくなる。落ちる刹那そう思い、エフィーは何故だか笑ってしまった。けれど不思議と、このまま終わる気はしなかった。それが何処から来る自信なのかは分からない。
 眼前に広がるのは、ひたすら濃い闇。

「ごめん……」

 空気を切る音に混じって、小さな呟きを聞く。
 落下は止まらず、このまま地面へ叩き付けられればきっと無事では済まされない。
 それでも、エフィーは瞳を細めて、幼馴染に笑いかけた。

「大丈夫」

 落ちる事への恐怖は無かった。それが翼族だからだと言うわけではなく、心からそう思った。落ちる先で止めれば良いのだと、本能的に体が動く。先程とは違い、落ち行く空間は狭い。決して、翼など出せるはずも無い。けれど、地面へ激突を防ぐ方法は――、いや落ちる速度を歪ませる方法ならば知っていた。それは魔術でもなく、精霊の力を借りる類のものでもなく、己の持つ何か。それを使えば良いのだと、頭の中で自分ではない誰かが囁くよう。
 見えない何かに突き動かされるように、エフィーは空いていた片腕を闇へと向けた。
 そして空間自体に呼びかけるように、心の中で念じる。
(止まれ)
 空間はまるで命を持つ物のように、エフィーの音無き声に答えた。
 自然に、けれど明らかに不自然に、ゆっくりと時間が動きを緩めていく。
 やがて、空間を固めてしまったかのような、浮遊感と無重力感が身に纏わりつく。
 きつく瞳を閉じ、遅い来る痛みと死を恐れていたジュリアは、恐る恐る瞳を開く。そしてその翡翠色の瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれた。

「そんな……」

 時間が止まったと錯覚するほどに、エフィーたちは緩やかに場を落ちていた。
 重力を無視して、空間のあり方すらも不自然に、ゆっくりと舞い落ちる。その傍で、崩れ落ちた橋の瓦礫が、妙に早く落下する。その様は妙に現実的で、瓦礫が落ちる速度が普通なのだと理解する。そして、おかしいのは恐らく自分たち。ジュリアはエフィーの方を見た。エフィーは瞳を閉じたまま、深い闇に手を翳していた。気のせいか、彼の額の石が、ほんのりと光を帯びているように見えた。

「エフィー……?」

 普段の彼と違う気がして、ジュリアは不安に駆られる。
 返事は返らず、ゆっくりと時間だけが流れる。やがてそう遠くない場所から、瓦礫が地面に叩き付けられる音が耳を突く。
 ジュリアはエフィーと繋いでいる方とは反対の手を上げた。そして、暗闇を照らすべく、光を放つ力を持つ精霊を呼ぶ。暗いこの場所で、光の精を呼ぶことは地上よりも難しい。しかし、出来ないわけではない。ジュリアは遥か遠く、光のある場所で憩う精霊を呼び出すべく、小さく口の中でまじないを呟く。

「闇照らす光の精、我が呼びかけに答え、その白き力を解き放て……」

 すると精霊が答え、ジュリアの手元に白い光の幽体らしきものが浮かび上がる。ジュリアはそれを闇へと翳した。
 朧な光に照らし出されたのは、瓦礫の山と成り果てた暗い石の地面。そして、今までの殺風景とは違う、神殿のように洗礼された造りの廊下が見えた。
 頭から落ちていたジュリアはこのままではいけないと思い、体勢を変えるべく体をひねった。やはり、重力を放棄したような空間の中、それは容易くなされる。けれどエフィーが瞳を開く気配は無かった。
 やがて二人は静かに石の大地に足をつけた。そして、空間の理を無視していた体に、急に重みが戻る。
 すぐ傍では、何事も無かったように瓦礫が落ちて、石の地面に砕け続けていた。
 ジュリアは放心したように、あたりを見回した。何をどう理解すべきかも分からず、混乱する頭を振る。そして温もりを感じていた片手が急に、どさりと言う音と共に引っ張られた。
 ジュリアが視線を寄越すと、瞳を閉じていた幼馴染の少年が、気を失ったようにその場で力なく崩れ落ちていた。
 ジュリアは更に驚いて、一瞬だけ思考回路が途切れた気がした。






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