迷宮


 辺りに再び静寂が戻り、事の状況をようやく飲み込んだエフィーは、暗がりにぽっかりと空いた穴を覗き込んで、その中へと吸い込まれていった人の名を何度か呼んでみた。しかし返る答えはなく、空しいほどに自身の声だけが木霊して暗い回廊に響く。
 回廊の造りは頑丈そうとまではいかなくとも、かなりしっかりしていた。石畳に破損は無く、丁寧に四方八方敷き詰められていたし、廃墟独特の埃っぽい空気も無かった。明かりこそ無いものの、回廊自体の状態はかなり良い方と言えた。しかし、ぽっかりと開いた穴は不自然に場にあり、その大きさはかなりのものだった。気付いてみれば、辺りはほんの少し今まで歩いてきた道よりひらけていて、松明に照らし出された天井はドーム状に他より広く高く設計されていた。
 リューサが落ちてしまったのは、彼自身不注意だった事と、会話していたため前を見ていなかったからだ。そして、穴はつっかえるものも無いほどに大きく、リューサは咄嗟に何かにつかまることも出来ずに、暗闇の奥底へと飲み込まれた。その突然の現実を前に、エフィーはどうするべきか考える。
(返事無いんじゃ、そうとう深く落ちたかな……)
 もしくは、落ちた時に打ち所が悪く、返答できない状態にあるのかもしれない。最悪の場合はあまり考えたくは無いけれど、穴がどれほど深いかわからないので、何とも言えない状況だ。

「リューサー!」

 返事が返らないとわかっていながら、もう一度呼んでみる。
 エフィーの声が穴に吸い込まれ、反響して返ってはきたけれど、そこにリューサの音が含まれる事は無かった。
(駄目か……)
 せめて何か出来ることは無いかと、必死に思考をめぐらせる。
 今持ち合わせている道具といえば、暗い回廊を照らすための松明と、救急セットらしきもの、それに布と使い道の無い瓶詰めのアルコールくらいだ。今更ながら、紐か縄か、そういった物を持ち合わせていないことに後悔する。まさか、このような状況になるとは、露ほどにも思っていなかったのだ。

「リューサー……」

 彼が自力で這い上がってくるとは思いがたいが、もう一度、穴に向けて声を投げかけた。
 やはり答えは無く、そろそろ諦め掛けてきた矢先、期待していた返答があがった。

「エフィー!」

 叫びにも似た甲高い声が暗闇の底から聞こえ、エフィーは耳を疑った。
 それは今まで一緒にいた黒いダークエルフのものではなく、エフィーがもっとも耳に馴染んでいる声。聞き間違いでなければ、暗闇に飛ばされてから、離れ離れになっていたはずのジュリアの声だった。
 まさか彼女が答えるとは思っていなかったので、心のうちで驚きつつ、すぐさま条件反射のようにその名を呼び返す。すると、あちらも気付いたのか、先ほどよりもはっきりと強く呼び返す声が聞こえてきた。

「エフィー!? そこにいるのね?」

「ああ。いるよ、ジュリア。そっちは無事?」

 声の反響具合から見て、恐らく穴の深さはそれほど深くは無い。落ちたからといって、よほど運が無い限りは大事に至らないだろう。そう考えると、ほっと心の中で安心する。

「無事よー! でもエフィー、ちょっと大変なの。リューサが変な場所に落ちてきて、動けないみたいなのよ。そっちでどうにか出来ない?」

「出来ないよ。縄も何も持ってないんだ。ジュリアこそ、リューサを確認出来るならどうにか出来ないのか?」

「無理よ。リューサってば、気を失ってるみたいなの。私じゃ届かない場所だから、手も出せない」

 そう言われても、エフィーの視界に映るものは暗闇だけで、ジュリアの声のする穴の底は何も見えない。考える限りでは、どうにかする手段が無いのだ。

「でも僕じゃ、ここから降りられそうも無いよ」

 せめて紐か、縄か、そういったものを持っていれば何とかなったかもしれないけれど。
 現状にそれは存在しないのだから、エフィーには何も出来ない。

「何言ってるのよ!? あんたは飛べるでしょ。穴降りるくらい出来ないで、どうすんのよ」

 言われて初めて、エフィーは己の背にあるものを思い出す。
 新世界に来てから、人間として振舞っていたので忘れていたが、エフィーには人には無いものがある。鳥と同じように空を舞うための、風の加護を受けた一対の翼。
 エフィーは辺りを見回して、翼を広げられるだけの空間があるかを、軽く確かめた。
 エフィーの翼は決して小さくは無い。伸びやかに両翼を広げれば、エフィーを横に三つ並べるだけの場所を取る。羽ばたく事を考えるのならば、四人分だろうか。それほどの空間は存在するのか。
 しかし、幸いにも穴の開いていたこの場所は他よりもひらけた造りになっていて、穴の大きさも窮屈感は否めないけれど、ぎりぎりエフィーが舞い降りるだけの幅はある。つまり、普通の人でないエフィーならば、この場所から穴の底へと降りることが出来るわけで。

「あ、そっか……」

 単純な事も忘れるくらい、動揺していたのだろうか。とりあえず、今の状況を脱出できる術があったので、それを行使しない訳は無い。
 エフィーは最後に左右を確認した。人の気配は無い。もし、また誰かに見られ、面倒なことになるのは避けたいので、念入りに伺う。けれどやはり暗闇の奥底から誰かが近づく気配は無く、ほっと安心してからエフィーは普段背に隠している翼を具現化させた。
 翼をリューサに見られるのは得策ではないけれど、彼はダークエルフなので見られたとしてもそれほど執着はしないように思えた。何よりも、今彼は気絶しているはずなのだから、静かに事を運べば良い。

「今そっちに降りていくから、待ってて!」

 出来るだけ羽ばたかないで、ゆっくりと落下するだけの動きをすればいい。それは普通に空を飛んだり、風の軌道を捕まえるより難しい事だけど、エフィーにとっては苦手分野ではない。何せ今まで、ジュリアを抱えての飛行では、ゆっくり大地に下りなければいけなかったからだ。だから、こういうのには意外と慣れていた。

「よしっ」

 松明を片手に、もう片手には肩から背に紐で結わえ括り付け背負っていた剣を掴み、エフィーは翼を揺らして一歩、暗闇へと踏み出した。同時に、遠慮がちに縮めていた両翼を大きく広げる。風の無いの場所で、風に乗ることは出来ないけれど、空気の抵抗を利用して落下速度だけを緩める。時々小さく翼を動かして、勢いあまってリューサと同じ目にあう事だけは避ける。
 舞い降りる中で、松明の灯りが暗闇を徐々に照らし出して、落ちていく穴が不自然に作られたものだと理解する。まるで、光線にでも焼き抜かれたかのように、綺麗な円形に続く石の筒に思えた。それは自然に出来るものではなくて、けれど石の回廊をぶち抜くほどの力など予想も出来ない。
 結構な長さを降りただろうか。予想していたより長かった穴に終わりが見え、石ではない土色の大地が松明によって露にされる。
 そして、丁度エフィーが降り立つべき場所に、大の字になって伸びている黒いエルフを見つける。ジュリアの言葉通り、リューサは気を失っているらしく、仰向けになったまま瞳を閉じていた。けれどしっかりと息はしているらしく、規則正しく胸部は上下する。
 エフィーは呆れるべきか喜ぶべきか少し迷ってから、苦笑いを噛み殺してリューサの脇に足をつけた。

「リューサ、生きてる? ……って、その前にしまわないと」

 屈んでリューサを揺さぶろうとした所で動きを止めて、エフィーは背の翼をそっと音を立てないように折りたたみ、背の中へと隠すように存在を消す。
 一息ついてから、今度こそ仰向けになっているリューサの肩を掴んで揺さぶってみた。

「おーい、リューサ。起きろって」

 持ち上げて、首がかくかくするほど大きく揺さぶってみると、必要最低限の動きしかしていなかったリューサが、煩わしそうに身じろきする。

「んー、うっさいなぁ……」

 寝ぼけ半分の言葉が口から漏れたけど、リューサは一向に目を覚ます気配を見せない。

「エフィー。何生温い事してんのよ。ぶん殴っちゃいなさいよ」

 そう遠くない場所から、ジュリアの声が聞こえ、エフィーは辺りを見回す。視界と体が一周する前に、ジュリアの姿を見つける事が出来た。そして何故彼女がリューサに手が出せなかったのか理解する。ジュリアは橋の上にいた。そしてエフィーとリューサは、壁際に僅かに空いていた崖っぷちにも似た場所に、ぎりぎりの状態でいた。エフィーとリューサがいる場所は洞窟のように土の大地だったけれど、ジュリアのいる場所は綺麗に舗装された城の架け橋にも似た精錬された造りの、底の見えない地底の上に立てられた橋の上。エフィーとジュリアの合間には、底知れぬ深い地底が続き、落ちれば今度こそ一思いに逝けるだろう。
 エフィーは降りてきた上を見上げて、もう一度自分のいる場所を確認して、今更冷や汗が背に流れるのを感じた。

「ジュリア……。先に、この状態どうにかできない?」

 本当に際どい場所で、ぎりぎりの状態で屈んでいるエフィーと、半ばいつ落ちてもおかしくない状態で寝転んでいるリューサ。起こす起こさないは二の次の話で、それよりも先に脱しなければいけない状況がある。

「え……と。飛べない……かな?」

 問われたジュリアは、自分とエフィーとの間の溝を見下ろしてから天井を仰ぎ、曖昧にはにかんだ笑いを浮かべた。見上げた天井は、エフィーたちのいる場所だけ不自然に広く高く、ジュリアのいる場所は、然程高くは無く広くも無い。つまり、先程と同じように飛ぶのは難しい訳で、一難さってまた一難の状況に立たされる。

「飛べないね……」

「じゃあ、跳びなさいよ」

 翼が役に立たないと言うのなら、足で跳べということらしい。
(そんな無茶な……)
 心の中で突っ込みつつ、跳ばなければ今の状況を脱せ無いとも思う。
 けれどエフィーとジュリアの間の溝は決して狭くは無く、間違えば底知れない穴底に吸い込まれるだろう。そうなれば、次こそ助からない気がした。

「でもさ。僕だけ飛んでも、ね?」

「リューサは投げればいいでしょ。大丈夫よ、私も力貸してあげるから」

 そう言ってジュリアは、魔術を使うのだと誇示するように、腕をエフィーの方へと差し出した。
 エフィーは不安を感じながらも、それしか方法が無いと半ば諦め、一向に目を覚まさないダークエルフを引っ張り起こした。
(エルフって、どうしてこう目覚めが悪いんだろうな……)
 もう一人、なかなか眠りから目覚めないエルフを思い出し、エフィーは盛大に溜息を吐いた。






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