迷宮


 閉ざされた視界の中、瞳に映るのは果てしない暗闇だけ。
 快晴に照らし出されていた明るい広場の情景は全て黒い色に飲み込まれ、未だ慣れない暗闇を見渡す。しかしその瞳には何も映りはしなかった。吸い込む空気は少しばかり冷えていて、春のような温かい空間が嘘のよう。
 けれど、今存在しているこの場所は確かに何処かの「空間」で、決して空間の狭間でもなければ、異空間でもなかった。新世界に来る時に使った空間移動をした装置ともまた違う。一瞬の内に、広間にいた人々は文字通り別の場所へ「飛ばされた」のだ。
 ようやく事の状況が飲み込めて、エフィーは驚きに座り込んでいた体を起こした。
 辺りは濃い闇に包まれていて、視界に映るものは何も無い。

「ジュリア……?」

 エフィーのすぐそばにいたはずの少女は、同じ場所に飛ばされただろうか?
 未だ引きつる声色で、そばにいるはずのジュリアの名を呼ぶ。けれど返る答えは無く、暗い空間にエフィーの声が静かに響くだけだった。
 暗闇の中で、たった一人きりだと理解したエフィーは、急に孤独感を感じえずにはいられなかった。
(どうしよう……)
 暗闇を厭うジュリアならば、すぐさまお得意の炎の魔術で火を起こし、暗闇を照らすだろう。しかし、エフィーは魔術など使えないし、暗闇を照らし出す方法も無い。かと言って、このままこの場所で助けを待つのも情けなくて気が引ける。
 エフィー自身、自分のいる場所がしっかりと把握できていないのだ。もしかしたら、この暗闇に何かが潜んでいるのかもしれない。そう思うと、じっとしている訳にはいかなかった。
 だが、暗闇の中を無闇に歩き回るのはやはり危険で、何かに足をとられるかもしれないし、落とし穴などがあった場合は後の祭りだ。ひとまず、暗闇を照らす物はないかと、エフィーは持参してきた小さな布袋に手を伸ばした。

「そう言えば……松明持って来たんだっけ」

 いらないと思いながらも、傷薬だけでは物足りなかったので、袋に入れた物を思い出し、エフィーは慎重に袋の中を漁った。そして目的の物の感触を感じ、それを掴み取る。
 ひとまずその場に再び腰を下ろし、手にした火打石と乾いた布、それから瓶詰めにしたアルコールを取り出し、用意周到に入れてあった棒切れに布を巻きつける。真っ暗なので、何も見えないが、適度と思われる量のアルコールを浸して即席の松明を作ると、エフィーは火打石に手をつけた。
 こんな初歩的な方法で火をつけるとは思っていなかっただけに、火打石同士を打ち合わせても中々火はつかない。
 同時に、暗闇に石を打つ音が響き渡り、エフィーは僅かに狼狽える。
 もし、望まない「何か」がこの音を聞きつけて、駆け寄って来たら。暗闇の中で、見えないそれは酷く不安を煽り立てる。しかし、焦っている為か、火は一向に灯る気配を見せず、虚しい音だけが遠く響き渡る。
(案外、難しいのな……)
 想像していたよりもずっと難しいそれにてこずって、エフィーは遠くから聞こえる不自然な足音にぎりぎりまで気付く事が出来なかった。

「あー、つかないなぁ」

 完全な独り言だと理解しているものの、声を出してでも自身の存在を知らしめなければ、この鬱蒼とした闇に飲み込まれてしまう気がして、エフィーはぽつりと呟く。
 しかし、それが禍したのか、暗闇の奥底にいた「何か」が、エフィーの存在を感じ取り、足音を隠す事無く走り寄る。気のせいかと思っていた音が次第に近づき、エフィーははっとしたように火打石を持ったまま立ち上がった。
 暗い空間の中、壁にでも反響しているのか四方八方ら足音が聞こえてくる気がして、エフィーは叫びだしたい心地に襲われる。
 そして近づく足音がいよいよ手を伸ばせば届くほどだと感じた時、生ぬるい何かがエフィーの首筋を掠めた。

「うわぁぁ――!」

 喉元に堪えていた声が一気に口を裂いて飛び出して、更に木霊して跳ね返ってきた自分の声に驚く。

「な、何だっ!?」

 感じたのは、温かく熱をもった生き物の何か。
 咄嗟にエフィーは身を翻して逃げ出す気満々でその場を去るべく、一歩踏み出そうとした時、再び後ろから腕をつかまれた。そして、暗闇の中での事だったので、更にもう一度叫びをあげたいと切に思いながら、何とかそれを堪え、恐る恐る後ろを振り返った。

「あんさん、エフィーか?」

 エフィーの腕を掴んだそれは、冷静に考えれば人の手のようなもので。微妙に体温を持つからこそ、それは生きた人ということ。
 そして、背後から聞こえてきた声は、聞き覚えのある明朗とした声だった。

「り、リューサ……?」

 何も見えない暗闇の中で、エフィーは張り詰めていた緊張感が溶きほぐれた気がした。
 エフィーが動きを止めると掴まれた腕が解放され、エフィーは真正面に立っているであろうリューサを想像する。

「ああ。オレだ。急に真っ暗闇に放り出されて、どうしようか迷ってた所で石を打つ音が聞こえたんでな、きてみたらあんさんがいたみたいだ」

 どうやらエフィーと似たような場面に立たされていたらしいリューサは、エフィーのように松明の準備はしていなかったようだ。もっとも、そんな準備など大抵の者はしていないのだろうけれど。

「そうなんだ。僕も一人っきりで、この場所にいて……。とりあえず明かりが欲しくてさ。松明に火をつけようとしたんだけど、中々つかなくってさ」

 見えはしないだろうけど、エフィーは火打石と松明を掲げてみせる。
 すると、リューサの腕が伸びてきて、エフィーの手から迷わず火打石を取った。

「あんさん、用意良いのな。ほれ、それ立てて。オレこういうんは結構得意分野だから」

「え? あ、うん」

 リューサが何をするか理解して、エフィーは手に残った油を染み込ませた布を巻いた棒を立てる。数回、何も見えない暗闇に、火打石を打ち合わせる音と共に赤い火花が散る。それを数回繰り返すと、エフィーがどんなに頑張っても中々灯らなかった火が、松明に燃え移る。

「慣れてるね」

 勢い良く燃えた松明の炎に目が眩み、一瞬瞳を細める。
 しかし、徐々に光に慣れ、暗闇だった場所が視界に映る。

「まぁな。これくらい出来なきゃ、一人旅はやってられんからな」

 対の火打石を軽く放り投げエフィーに返すと、リューサは口元に笑みを浮かべた。
 次第に暗闇は晴れて行き、エフィーは自分が今どういう場所にいるのか把握する。暗い石の回廊だった。砦の廊下の作りと良く似た、密閉された空間。砦と違うのは、少なくともあちらには窓があったということと、天上が結構高かった事だ。しかし、見渡す限りこの場所は細い回廊で、窓も出口も見当たらない。真っ直ぐに伸びた石煉瓦の道だけがある。

「ここ、何処だろ?」

「さぁな。まぁ、ラキアの王城にしては陰気臭いな。それに、地上でも無いみたいだ」

「え?」

 確かにきな臭い場所ではあるけれど、それだけで地上ではないと決め付けてしまうのは判断が早すぎる気がした。だが、リューサの方は冗談のつもりで言った訳ではないらしく、注意深く辺りを観察している。

「あー、そっか。あんさんら人間には精霊が見えないんだよな。ほら、オレこう見えても一応純粋なダークエルフだし、精霊とも語らえるんだぜ?」

 言われてみれば、彼はエルフなのだ。多少の暗闇も、彼らにとってはそれなりに見えるらしい。現に、エルフであるアジェルがそうだったのだから、リューサの言葉に素直に納得する。同時に、別の疑問が浮かび上がる。

「そっか。でもエルフなら、松明持って無くても、魔術でどうにかできるんじゃないのか?」

 彼は現れたとき、迷わずエフィーの方に来たけれど、明かりは灯していなかった。
 魔術と言わなくても、精霊を呼び出す事の出来るエルフならば、炎の精霊を召喚して明かりでも何でも作れただろう。それをしないでいた彼に、ふとした疑問が呼び起こる。

「あー、ちょっと無理。オレ精霊術苦手なんだわ。使えないことも無いんだけどな。やっぱ無理。それに炎系の術は極力使いたくないしなぁ」

「エルフだから?」

「っそ、エルフだから。それにな、「無能者」とまで言わなくても、オレ魔力あんま高くないんだわ。どうでもいい時に多用して、肝心な時に使えなくなったら大変だろ? だから、必要最低限しか使わないようにしてるんだ」

 つまり、暗闇の中でもある程度なら見える彼は、明かりは不必要な物らしい。松明に火を灯してくれたのは、暗闇では何も見えないエフィーためだろう。
 納得がいき、意外と先の事を考えてるらしいリューサに心のうちで感動する。
 ジュリアやエフィーは、やたら後先考えずに行動する事が多いので、彼の言うとおり肝心な時に役に立たなくなる。
 考えていなさそうに見えて、しっかりと考えているらしいダークエルフは、得意げに笑った。

「アジェルはその『無能者』らしいから、てっきりリューサもそれかと思ったけど違うんだ。まぁ、確かに言われてみれば体力も魔力も温存するに越した事は無いよな」

 見た目を裏切って、魔術は扱えないと言い放った少年を思い出し、エフィーは苦く笑った。
 今頃、一人取り残された事に気付いて、ふて寝でもしているのだろうか。

「あいつが『無能者』?」

 驚いたように、リューサはエフィーの言葉に疑問を返す。

「うん。本人が言ってた」

 するとリューサは指を顎に当てて考え込む素振りを見せた。確かに、あちらのエルフが術を使えないと言っても、そうは見えないだろう。何せ、武器はいつも隠し持っているし、まるっきり丸腰に見えるからだ。リューサが考え込むのも理解できる。

「それよりもさ、早くこの状態をどうにかしないと。って言うか、リューサが無事だったなら、きっとジュリアもラーフォスもどこかにいるはずだ。早く、合流しないと」

 このようような訳の分からない場所で立ち往生するのは時間の無駄だ。
 まずは外に出るべき道を探すことと、同じように飛ばされたであろう仲間を探すことが先決だ。
 エフィーがそう言うと、リューサは考えるのをやめ、小さく頷く。

「そうだな。話なんて歩きながらでも出来るしな。ひとまず、嬢ちゃん方を探そっか? オレの来た方向、行き止まりだったぜ? だから、とりあえずこっちに進むしかなさそうだな」

 果てしなく続く暗闇の回廊を見つめ、リューサはそう言う。
 エフィーも松明をそちらに向けた。冷たい石の回廊がどれほど伸びているのか想像はつかないが、とりあえず前に進むしかない。

「うん。じゃあ、行こうか」

 火打石を腰の布袋にしまいこみ、エフィーは現状を脱するべく一歩、前へと歩き始めた。






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