迷宮


「良く晴れたなー。これなら、城まで快適に行けそうだな」

 大きく腕を振り上げ、背筋をぴんと伸ばし爪先立ちしながら、気持ち良さそうに体を伸ばしてエフィーはそう言った。
 部屋の扉を開いた先、廊下の窓からは眩しいほどの朝日が差し込んでいる。
 気持ちのいい、快晴の爽やかな朝だった。風は心地良い程度に頬を撫で付けて、気温も暑くも無ければ寒くも無い、丁度いい春に似た温度。心地良い眠りから目覚めた時も、いつもとは違い、億劫には思わなかった。むしろ、酷く体が軽く感じられる。それほど、気持ちのいい朝で、これから戦場へ向かうとは思えない程、清々しい一日の幕開けだった。
 とある人物を覗いては。

「あー、頭痛てぇ……。気持ち悪いー……」

 その人は、寝台の上でのろのろと身支度を整えていた。ぼさぼさっとした意外と長い黒髪に、くすんだ緑色の布を巻きつけて邪魔にならないように固定している。そして先ほどから、口癖のように決まった二言を呟き続けているのだ。「頭痛い」と「気持ち悪い」の二言を。

「昨日散々飲んだからでしょう? 自業自得よ」

 部屋の奥の寝台から、ジュリアが辛辣な言葉を投げかける。
 確かに、リューサは昨夜かなり飲んでいた様子だった。既に、昨日の時点で頭痛いと言っていた気がする。それが、延長して二日酔いになってしまったのだろう。ジュリアの言うとおり、自業自得だった。しかし、それでも行く気だけはあるらしく、しっかりと身支度を整えている辺り頑張るな、とも思う。一応、医務室で休むことも進めたが、本人はそれを硬く拒んだ。理由としては、「お宝」が待っているのに、てぐすね引いて待ち構えていたものを諦めるなんて嫌だという事らしい。それでも体調不良の年寄は、素直に静かにしていればいいのに、とも思う。もっとも、そんな事を口にすれば目尻を吊り上げて怒るのだろうけれど。

「そんな飲んだ覚え無いんだけどなぁ。あー、これもお宝にありつくための試練っちゅうことか?」

 確実にそれは違う。と心の中で彼の言葉に突っ込み、エフィーはぎこちなく笑い返しておいた。

「ま、オレ本番には強い方だし、大丈夫!」

「一々口動かさないで、手動かしなさいよ、手!」

 見かねたのか、ジュリアが先ほどからのろのろとしか作業しないリューサに葛を入れる。今この部屋の中で、支度が出来ていないのはリューサだけだ。集合の時間まではもう少しあるものの、それでも早くに集合場所についていたい。その方が、得する気がするからだ。
 エフィーは苦笑いを浮かべて、ふと視線を横に移した。そして、騒がしいリューサとジュリアの反対側。エフィーを挟んだ先の寝台の上では、未だ目覚めない少年がいた。その隣で、ラーフォスが静かに本を読みふけっている。ラーフォスがアジェルを起こす様子は無く、恐らく居残りさせる気なのだろう。普段、朝中々目覚めないアジェルを起こすのは、エフィーの役目となっていた。ジュリアでは過激な起こし方をしてしまうだろうし、ラーフォスは起こそうとしない。その為、わざわざエフィーが起こす羽目になっていたのだ。勿論、朝は機嫌の悪いアジェルに睨まれる事を承知の上で。
 そして今日もいつも通り、揺り起こそうとした所で、ラーフォスに止められた。
 いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、「自然に目覚めないのなら、置いて行きましょう」と告げられた。つまり、昨夜倒れたらしい少年への、ささやかな気遣いらしい。一緒に行けないのは寂しい気もするが、昨日の今日なので無理強いさせる訳には行かない。仕方無しに、このまま目覚めなければ置いていく、と言う事になるだろう。恐らく、誰かが起こしにかからなければ昼過ぎまでは絶対に起きないのだろうから。

「もー、何で髪の毛結うのにそんなに時間かかってるのよ!? 女じゃあるまいし、やる事が一々遅いのよ」

「喧しいわ。髪の毛を綺麗に結い上げるのはオレのポリシーじゃ!」

「んなポリシーどうでも良いから、さっさと終わらせなさいよ」

 妙な静寂と喧騒の間で、エフィーは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 遠慮と言うものを知らない二人がこれだけ騒いでも、目覚める気配すら見せないのだ。置き去りにするのは百パーセント決まっているようなものだ。

「あ、絡まった。嬢ちゃん、はさみ持ってないか?」

 ようやく髪の毛を結い上げたらしいリューサが、僅かにはみ出た髪の毛を服のボタンに引っ掛けたらしく、服を引っ張り上げてジュリアに訊ねる。

「そんなもの持ってる訳ないでしょ。その腰に巻きつけてる短刀で切ればいいじゃない」

 ジュリアは呆れた様に、リューサを見やり、もうどうにでもなれと言わんばかりの適当な回答を返す。

「ああ、これはダメなんだ。果物切る専用だから」

「あんた……。これ以上時間かける気ならアジェルと一緒にお留守番させるわよ」

「あ、解けた。ラッキー! やっぱ髪の毛もオレの体の一部だからな。切り離すのは勿体無いし」

「ちょっとは人の話聞きなさいよー!」

 先ほどからずっとこんなやり取りの繰り返しだ。エフィー自身、結構なマイペースだと思っていたのだが、リューサはそれの上を行くようだ。お陰で、ジュリアの怒気を含んだ声が止まない。しかしそれもようやく終わってくれるらしく、リューサは上着を手繰り寄せて腕に袖を通す。そして準備できたのか、ようやくその重たい腰を上げて、寝台から降りてきた。

「待たせたなー。準備できたぜ。そろそろ時間だし、行くだろ?」

 丈夫そうな鞣革の袋と小さな短刀を腰に結びつけ、漆黒に塗られた弓と矢筒を背負い、準備できたらしいリューサはエフィーに声をかけてきた。今までリューサとジュリアのやり取りを微笑ましく眺めていたエフィーは、ようやく出発する時が来たらしいと理解してから、つられたように立ち上がる。そして後ろを振り返り、ラーフォスに声をかけた。
 ラーフォスは読んでいた本にしおりを挟むと、ぱたんと本を閉じて顔を上げた。彼は誰よりも早起きで、準備は一行の中で一番に終わった。薄い布を重ねた動きやすすそうな法衣に 、いつも手放さない銀色の竪琴。これは邪魔ではないかと訊ねたが、ラーフォスは竪琴も武器として使うのです、と言い放ち、そのまま持っていくらしい。

「準備、出来ましたか?」

「らしいよ。じゃあ、行こうか?」

 最後に一度だけ、少しでも起きる気配を見せないかと、アジェルを方を横目で見やるが、しっかりと閉じられた瞼は開かれる事はなさそうだ。少しばかり寂しいが、今回ばかりは仕方がないと割り切ってエフィーは部屋の扉を押した。
 廊下は早くも賑わいだして、静寂に満ちていた昨晩が嘘のように明るく活気に満ちていた。ぞろぞろと広場へ集まろうと、刃渡り二メートルはありそうな獲物を得意げに担いで行く男や、重そうな鉄の鎧を纏い、ゆっくりと進み行く男などが後を立たずに廊下を流れて行く。
 エフィーとジュリアはそれに続き、リューサも二人の後を追って部屋から出て行った。
 そしてすっかり静まり返った部屋で、ラーフォスは眠る振りをした少年に声をかけた。

「大人しく、休んでくださいね。でないと……」

 言いかけた言葉は、沈黙を守り続けていた少年の声で遮られた。

「強制送還させる、だろ? ……分かったから、早く行きなよ。言われたとおり、大人しくしてるからさ」

 ラーフォスに背を向けたまま、アジェルはそう呟くように言う。
 しかしラーフォスの耳にはしっかりと届いていたらしく、彼は口元に安堵の笑みを浮かべた。

「ええ。それで十分です。……私はもう行きますから」

 返る答えは無く、ラーフォスは小さく嘆息を吐いた。
 ラーフォスが朝一番に目覚めた時、アジェルは既に目を覚ましていた。薄暗く静まり返った部屋で、この少年に忠告を言い渡した。反発こそしたけれど、先ほどの「強制送還させる」と言う一言で、アジェルは渋々ラーフォスの言う事を聞いた。ラーフォスとしては、アジェルの身を第一に考えての行動で、本人には悪いと思っていても仕方が無い。ただ、少年を幼い頃より知っているラーフォスは、彼の体があまり丈夫でないことも知っていた。だからこそ、無理させるべきではないと考えたのだ。
 ラーフォスは一時の間を置いて、踵を返して部屋を出て行こうと開かれた扉をくぐる。そしてそっと扉を閉めようとした所で、聞き取るのも困難なほど小さな囁くような呟きに動きを一瞬止めた。

「しっかり、見張ってってあげなよ。あいつら、頼り無いから……」

 ラーフォスは小さく微笑んだ。

「……勿論。ではまた後で」

 その言葉を最後に扉は閉まり、殺伐とした部屋に無音の世界が広がる。
 寝台の上で、毛布に包まっていたアジェルはもぞもぞと寝返りを打ち、仰向けになると両の腕を天に透かす様に上げた。骨ばっていて、お世辞にも綺麗とは言いがたい手。その手を見つめ、アジェルは小さく溜息を吐いた。

「やっぱり、人の体じゃ駄目か……」

 一人ごちにそう呟いて、翳した手で今度は顔を覆う。
 肝心な所で役に立てない自分自身に嫌気がさして、誰のせいでも無いと理解しながらラーフォスを恨む。本当は着いて行きたかった。ジュリアもリューサもあの様子では舐めてかかって痛い目をみるだろうし、エフィーはあの中で一番不安を誘う。自分がしっかりと着いてあげなければと、そう思っていたのだけれど。結局、無残にも倒れただけで留守番を言い渡されてしまった。倒れた理由は分かっている。だけども、それを言うのは躊躇われ、かと言って言い返す言葉も見つからず、最終的にはラーフォスに釘を刺されてお終い。
 一緒に行くくらいは出来たと言うのに。

「あー……。頭痛いな……」

 後頭部の辺りが酷く痛む。まるで、硬いものに何度もぶつけられた感じだ。疲れや病から来る頭痛と言うよりは、喧嘩でもして殴られた感覚に似ている。しかし、昨夜倒れる前の記憶の中では、頭など一度もぶつけていない。
 頭痛の理由がわからなくて、アジェルはもう一度、溜息を吐いた。






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