白と黒の狭間


 冷え込む風が廊下に面する扉から入り込み、ジュリアは僅かに身を強張らせた。
 懐かしいとすら思える何かを感じ、ふらりと一人扉に誘われるように近づき、軋む木製の扉を両の手で押す。キィっと小気味悪い音がして、茶色の視界が遠ざかり、廊下が見渡せる。無機質な灰色の石畳と石煉瓦の暗い廊下。見渡す限りは何も存在していないはずなのに。何故か気になってジュリアは更に辺りを見渡した。けれどやはり目に映るのは暗い廊下と、外から入り込んだ冷風に揺らめく蝋燭の灯火の影だけだった。

「気の、せいか」

 何かを期待していた訳ではないけれど、何故か心寂しさを感じる。ジュリアは小さく溜息を吐いて、視線を床に落とした。そして無機質な石畳の上に、不自然に見覚えの無い物を見つけ、拾い上げた。

「ジュリア、どうしたんだ?」

 背後から気遣うような声が聞こえ、ジュリアははっとしたように拾い上げた物を掴んだまま手と共に背に隠し、振り返った。

「ちょっと、寒いなって思っただけよ。それよりも、アジェルとリューサ遅すぎない?」

 話題を別の方向へ持っていきたくて、先ほどから気にかけている二人の名を挙げてみる。
 エフィーは今まで読んでいたラーフォスから借りたらしい本に自分の羽から取ったしおりを挟み、「そう言えば遅いよなー」とのん気に言葉を返す。二人が戻ってこないまま、今は真夜中になりつつある時刻だ。いい加減、戻ってきてもおかしくは無いのだけど、未だ戻ってきていないのが現状だ。探しに行こうかとも思うが、わざわざそうする必要性も無いため、放って置いたまま今に至る。

「そろそろ戻ってきても……」

 と、ジュリアが再び視線をエフィーから廊下に戻し、わざとらしくきょろきょろする。
 妙にそわそわしている気がするのは、多分気のせいではない。
 不思議に思ったエフィーが、ジュリアに近付こうと立ち上がった時、再びジュリアが言葉を発した。

「あ、エフィー。戻ってきたみたいだよ」

「どっちが?」

「ん、リューサかな。あれ……? アジェルもいるみたい」

 次第に暗がりから近付く人物を見極め、ジュリアは驚きの声を上げた。

「何あれ!」

「え?」

 ジュリアの声に反応してエフィーも扉までやってくると、二人して廊下の先からよろよろと近付く人物に注目する。蝋燭の灯火に照らし出されて浮かび上がるのは一人の男。黒い風貌のリューサだ。しかし、妙によろよろとした足取りで、こちらに歩いてきている。まるで大きな荷物でも背負っているようだ。そうエフィーが思ったつかの間、ジュリアがエフィーの肩を軽く叩き、リューサの後ろを見ろと言わんばかりに指差した。

「ん?」

 つられて目を向けると、そこにいたのは文字通り引きずられている見覚えのある何か。リューサが妙によろよろしていた理由が分かり、エフィーは納得したように頷いてから、事の重大さに気付く。

「って、リューサ!! 何引きずってんだ!」

 示され目を向けた先には、リューサに両足を抱えられて、無残にも頭を石の床にぶつけながら引きずられている、見覚えのある姿。うつ伏せでないのが唯一の救いと言った所だろうか。

「お、エフィー、いい所に来た。頼むから手伝ってくれよ」

 手伝うも何も、リューサに声をかけられる前にエフィーはリューサともう一人、引きずられているアジェルのもとへ駆け寄った。そして引きずられてぶち切れていると思っていたエルフは、不覚にも瞳を閉じて死んだように眠っていた。何故こんな事になっているのか理解できずに、とりあえずエフィーは眠る少年の両腕を引っ張り上げて、リューサと共に部屋に運ぶ。二人掛りのためか、リューサは先程よりもしっかりとした足取りで前を行く。

「なぁ、リューサ。何でアジェルが寝ててリューサに運ばれてるのとかはあえて置いておいて、普通人を運ぶ時って、背負うか抱き上げるかしないか?」

 ジュリアを抱きかかえながら空を飛ぶ事が普通になっていたエフィーは、こんな人の運び方を見た事無い。確かに相手が男なので横抱きにしろとは言わないけれど、いくら何でもこの運び方は酷いと思う。リューサは体格的にもエフィーと同じか、背は少し高いのだから、線の細い少年一人担ぎ上げられるだろう。

「いやー……、野郎を抱きかかえたって面白くないからなぁ。それにオレ自慢じゃないが腕力に自信ないんだわ」

 だからと言って、あんな遠慮なくずるずる引きずるのはどうかと思う。心の中でそう思いながら、エフィーは呼吸すらもしているのか分からないアジェルを見下ろした。普段から睡眠時間を人一倍とっていた彼だけれど、まさかわざわざ野外で眠るほど不精ではない。
 無事部屋まで運び寝台に寝かしつけると、ラーフォスが慌ててこちらに走り寄ってきた。

「何か、あったのですか?」

 疲れたと言わんばかりに腕をほぐすように振り回していたリューサは、ラーフォスの質問に小首を傾げた。
 後ろで、ジュリアが扉を閉めてエフィーの隣までやってきた。

「何か知らねぇけど、突然倒れたんだよ」

 リューサは先ほどの様子を思い出す。アジェルを見つけたとき、彼は激しい運動をしていたようには見えなく、かと言って眠そうと言う訳でもなかった。ただの貧血か何かだろうと、リューサは踏んでいた。
 一つ、気がかりと言えば宙に浮いてアジェルと話していた白い男の事だ。だが、そこまで話すと自らの失態まで明かすことになりそうなので、リューサはあえてそれに触れない事にした。それに見ていた限り、二人は険悪なムードながら喧嘩をしていた訳ではない。恐らく、あの男は関係無いと思われる。

「何処で?」

 エフィーが訊ねると、リューサは完結に答えを返す。

「屋上」

「貧血?」

「そうじぇねぇの? こいつ、血少なさそうだし」

 言われてみれば、確かにアジェルは見た目的に丈夫そうではない。体術を心得ている割に力はそれほど強くないし、起床時はふらふらしている。決してか弱いとは思えないけれど、血が足りていなさそうなのは納得できる。「あぁ」とエフィーは相槌を打って再び自身の寝台に腰掛けた。心配ではあるが、今騒いでも仕方が無いのだ。明日の朝あたり、目覚めた時に事情を聞けばいい。
 他の者も同じ事を思ったのか、ジュリアはエフィーの隣の寝台に腰を下ろし、なにやら壁の方を向いたままぼんやりとしている。リューサは言っていた通り疲れたのか、すぐさま寝台に飛び込んで掛け布を被った。もう眠るには丁度良すぎる時間だし、明日の事を考えればさっさと寝てしまうべきだ。

「あー、ちょっと飲みすぎて頭痛い……」

「まさか今までずっと飲んでたのか?」

 リューサと食堂で別れてから既に一刻は当の昔に過ぎている。ずっと飲み明かしていたのだとしたら、相当飲んだと判断できる。エフィーは呆れた様にリューサを見やった。

「まーな。……ああ、酒の味も分からんお子ちゃまには、理解できないか」

 実に馬鹿にしたような声を上げてリューサは笑った。
 確かに、長命種であるリューサから見れば、エフィーなどまだまだ子供なのだろう。
 エフィー自身、お酒よりもジュースの方が好きだと思う年頃なので、あえて言い返すのはやめておいた。

「明日は早いんだろ? さっさと寝ちまえよー」

 一番に布団にもぐりこんだリューサが最後にそれだけ言って、寝台の上で動かなくなった。

「ああ、おやすみリューサ」

 エフィーもそれに習って、丁寧に靴を脱いでそろえた後、自らも布団の中に入り込む。最後に横目でアジェルのほうを見ると、ラーフォスが心配そうに眠るアジェルを見下ろしていた。

「ラーフォス? 大丈夫だって。貧血って、ちょっとの疲れでもなるらしいからさ。一晩眠れば元気になるって」

 ラーフォスは振り返って「そうですね」と小さく呟き、はにかんだ笑みを浮かべた。
 そしてそのまま彼もリューサの隣の寝台に向かって歩き出す。
 しばらくすると、部屋の中は今までの喧騒が嘘のように静まり返った。
 エフィーも意識こそ留めていたが、すでに瞳を開けてもぼんやりとした薄暗い部屋しか見つける事が出来ず、心地良い眠りに入ろうと仰向けにしていた体を横にする。視線の先にはこちらに背を向けたまま、横になっている少女の姿。
 そう言えば、いつも騒がしい彼女がおやすみの挨拶無しに寝入ったのは酷く珍しい事柄だ。それでも、そんな事を一々深く考える前に、エフィーは睡魔に襲われ、意識を安らかな夢に誘わせた。

「青い花……か……」

 少女の小さな呟きを最後に、部屋は完全な静寂に満たされた。
 誰にも悟られないように、ジュリアは扉の前で拾った手のひらに収まる程小さな花をそっと掻き抱いた。不意に懐かしい何かを思い出した気がしたが、すぐに考える事をやめて自らも眠ろうと瞳を閉じた。






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