白と黒の狭間


 「闇」が去り、ようやく場に静寂が戻ると、アジェルは小さく溜息を吐いた。
 気分転換のつもりで外へ出ただけだったと言うのに。見知った魔族に遭遇するとはついていない。アジェルとしては、魔族などとは極力関わりたくはないと願っているのに。
 しかも、実に無駄としか思えない口論を、リューサに見られてしまった。このような状況下で、魔族と精通しているなどと思われては厄介だ。見ず知らずの相手ならともかく、中途半端に知り合っていると噂が流れる危険がある。第一印象で決め付けてしまうのは失礼かもしれないが、リューサは口が軽そうで、同室のエフィーやラーフォスに今の事を告げてしまうかもしれない。
(それは困る……)
 知られたからと言って別段問題にはならないとは思うものの、魔族に知り合いがいるとは思われたくない。エルフである自分が、敵対しているといっても過言でない種族と関わりあるのは不自然だ。複雑な事情があるけれど、それを話す気はない。今の出来事は何もなかった事として、突き詰められる口実を摘んでおこう。
 釘を刺した所でどれほどの効果を出すかは分からないが、刺さないよりは良い。
 アジェルは一時の間を置いて振り返り、リューサに「今の事は見なかった事に」と言おうと口を開いた。
 けれど、そこでアジェルは動きを止めた。月明かりに照らされた仄かに明るい視界が黒く染まったような気がして、瞬く一瞬が更にぶれる。体中から力が抜けて、倦怠感と強烈な眠気がアジェルを襲った。気力を振り絞って耐えようと試みるも、己の生気が零れ落ちるかのようにアジェルはその場に膝を突いた。最後の抵抗に身体を支えていた四肢からも力が抜けていき、硬く無機質な石畳へと崩れ落ちる。
 耳元で、リューサらしき声が聞こえたが、それすらも次第に遠ざかり、全ての意識が混濁した暗闇へと落ちていく。
 何が起こったのかも理解できないまま、アジェルは意識を手放した。


◆◇◆◇◆


「あれー? 随分と早いお帰りだね。もう人間殲滅してきたの?」

 豪奢な扉を開いた先で、白銀の少年が薄ら笑いを浮かべながらラキアの王城の一室に入ってきた男に声をかけた。男は自分の家で寛いでいるかのような少年の様子に、うんざりと眉根を寄せる。だが、それもすぐに気にしなくなり、扉を閉め、少年の前まで歩いて行く。

「偵察するだけだと言っただろう。お前こそ、例の物は見つけたのか?」

 男がそう問うと、少年は満面の笑みを浮かべ、得意げに言葉を返してきた。

「勿論! 例の物はね、地下迷宮にあるみたいだよ」

 こう言う時だけは子供相応の無邪気な笑みを浮かべ、褒めてくれる事でも期待しているかのようにこちらを見上げてくる。それでも男は表情を崩さずに、いつも通り何の感情も込めない声色で聞き返した。

「取って来たのか?」

 必要なのは成果を上げた結果だけ。どんな努力をしようとも、男の住む世界――魔界では結果が全てなのだ。粉骨砕身して努力を注ごうと、相応の結実を示さなければ何の意味もない。権力者に取り入る事も無駄でしかなく、歯の浮くような美辞麗句も言い訳にしかならない。全ては出来たか出来なかったかの両極端な答えだけ。
 それを分かっているのか、理解していないのか、少年は当たり前のように答えた。

「まさか。あんな薄気味悪くて汚らしい所に僕が行く訳ないじゃないか。今、精霊たちに頼んで調べてもらってる所だよ」

 精霊、と言う単語に、男は僅かに興味を引かれる。
 普通、精霊は人に力を貸す事はあるけれど、決して魔族や闇に染まった者には力を貸さないとされている。男の場合、姿こそ白く天使のようだと評されるが、生れ落ちた時よりすでに魔に属している。当然の如く精霊魔術などに触れた事はなく、精霊は男を恐れ姿を隠す。それは、男が純粋な魔族であることを意味している。魔族と精霊は相克関係にある。魔族は精霊を厭い、精霊は魔族を恐れる。相容れない二つの種に、繋がりなどはない。
 この少年の場合、以前は闇人などではなかった。生まれは精霊に近い存在であったというが、今では立派な魔族として生きている。この少年がどういう経緯で闇人に成り下がったかまでは知らないが、それでも少年は人とは違う。
 精霊魔術は愚か、精霊と語らう事すらも出来ないはずなのだ。

「ルシェ様、何を考えてるか知らないけど、僕はまだ半分だけ人なんだよ。そんなに驚かなくてもいいじゃない?」

 両の色違いの瞳を瞬かせて、少年はおかしそうに笑った。
 確かに、言われてみればこの少年は魔族の証である金色の瞳は片方だけで、もう片方は深い菫色だ。それが、少年が完全に魔族ではない事を表しているらしい。

「別に驚いてなどいない。不思議に思っただけだ。何故、人であったお前が自ら進んで魔族になったか、とな」

「知りたい? ……まぁ、そのうち嫌でも分かると思うよ。僕の探し人が見つかればね」

 くすくすっと無感情な笑いを零し、少年は遠く夢見るように一言だけ、小さく呟く。

「敬愛してやまないレイル兄様を……ね」

 レイル、と言う名詞に、男は先ほどのやりとりを思い出す。
 男は先刻、こちらの邪魔をするであろう人間たちの動向を探りにラキアの砦へ行った。そこで、偶然に出会った人物。それは男の主であり、友である人が探していた記憶がある。どうせならば、と連れ帰ろうと誘ってはみたが、当然の如く断られた。しかし、その存在を確認できただけでもそれなりの成果はあった。今回ラキアに赴いた事柄とは無縁ではあるが、だからと言って見過ごすほど小さな出来事でもない。「上」に報告するべきは早い方がいい。
 それはつまり、ここを任された男か、含み笑いを絶やさない小さな少年かが一時この場所から去らなくてはいけないと言う事。他に、役に立つ者を連れてこなかったので、二人のうち一人が欠けるのはかなりの痛手だ。一々煩わしい所があろうとも、この少年は相応に役に立つし、言われた事くらいは容易にこなす。この少年を報告に行かせても、大丈夫だろうと思っていた。今の一言を聞くまでは……。
(兄、と言うことは……)
 先ほど出会った紫銀の髪の少年もレイルがどうとか言っていた気がする。もしかするとあのエルフは、この半魔族と成り果てた子供と関係があるかもしれない。しかし、似ても似つかない二人だ。兄弟と言うには少しばかり無理がある気がした。けれどそれに目を瞑って、予定通り少年に報告に行かせた時、この子供が何をしでかすか分かったものではない。「敬愛してやまない」と言った少年は、明らかに悪意に満ちていた。こちらの子供に、先ほどの事を教えるのはきっと得策ではない。あえて、難は避けるべきだ。
 そうなれば、出す答えは一つだけだ。

「……アヴィス。わたしはこれより一時魔界に帰る」

 己の淡い銀糸の髪を指に絡ませていた少年は、男の言葉に顔を上げ微かに驚く。

「何で?」

「急用が出来た。お前は城に残り、『グレンジェナ』を見つけ出せ」

「待ってよ。僕が探している間に人間たちが襲ってきたらどうするの? いくら僕でもそこまでまとめて相手するのは難しいよ」

 最もな意見が返ってきて、男は少し考える。
 確かに、この宝捜しは相当骨の折れる作業ではあるし、見つかるまでの労力も並ではない。そこに、更に追い立てるように邪魔が入るのはこちらとしては面白くない。だけども、今持ち場にいるのは男と少年の二人だけで、後は暴れるしか脳の無い獣が十数匹いるくらいだ。それだけでは、傭兵までも募ったラキアの兵に対抗できるか怪しい。一番良いのは、今までどおり、二人揃って己の役割を遂行する事だ。しかし、男には帰らなくてはいけない理由がある。

「……わたしも出来るだけ早くに戻るつもりだが、今は人手が足りないのだ。ティラの役に立ちたいと思うのなら、何とか一人で持ちこたえろ」

 残酷だと理解しながら、少年が唯一慕っている「上」の者の名を出して、まだ年端もいかない子供に言葉の刃を突きつける。
 少年は男から視線を外し、考え込むように口元に細い指を当てた。
 恐らく、勝算について計算でもしているのだろう。見かけは幼く頼り無げな子供だが、その深い洞察力と知識は男も一目置くほどなのだ。そして、何よりも負けず嫌いな彼だからこそ、考えている様は必死だ。
 少しの沈黙を挟み、ようやく少年は視線を男に戻した。

「分かったよ。何とかやってみる」

 いつも浮かべている余裕の薄ら笑いを消して、アヴィスと呼ばれた少年は小さく頷いた。

「ああ。それからもう一つ。出来る限り、人間たちを傷つけるな。被害は必要最低限に留めたい」

「……それも、ティラ様のご要望?」

 疑り深く聞き返す様に、内心「適わないな」と思いつつ、あえて本当のことだけを告げた。

「いや、これはわたしからの『お願い』だ」

 無駄な殺生も敵味方に出る被害も、出来る限り抑えたい。それが、魔界の第一皇子として生を受けた男、ルシェールの望みだった。普通ならば、魔族は人を殺し、その生き血を啜る事に快感と喜びを覚えるものだ。だが、ルシェールは幼い頃より、そう言ったものを極端に嫌っていた。悪戯に命は奪いたくない。綺麗事を並べているだけだと自覚していても、魔族らしからぬ理想は消えはしない。

「まぁ……僕も人間殺したいわけじゃないからね。ルシェ様の言う事、ちょっとは聞いてあげるよ」

 位の上ではアヴィスよりもルシェールのほうが断然上だ。けれどそれすらも気にしない、無礼な言葉の数々に、ルシェールは怒りを通り越して微笑ましく思う。決して誰にも屈せず、だけどたった一人、己を攫ってきたと言う魔族の男に無償の忠誠を誓う。一つだけを信じる子供らしい純粋さ。どんな虚勢を張っていても、まだこの少年は年端も行かない子供でしかないのだ。
 決して、甘やかすような真似はしないけれど、それでも多少の無礼には目を瞑る事にした。

「頼んだよ、アヴィセイル」

 一刻も早く魔界に戻り、様々な執務に追われている友に伝えなくてはいけない事がある。
 一つは彼の捜し求めていた存在を見つけたこと。それに、ラキアの砦で感じた異質な神族の気配。それはアジェルという少年に出会う前に感じた事。気配を探ろうと近付いても、まるで霧に覆われているかのように微弱な存在しか確認できなかった。しかし、それは紛れも無く天敵である者。それがあの砦に集う誰かなのかは分からないけれど、それでも神族に関わる事は急いで知らせるべきだ。
 一つ、心残りな事柄があったけれど、ルシェールはあえてそれを見ない振りをして、故郷である闇に帰るべく踵を返して部屋から出て行った。
 背後から、アヴィスの幼くも自信に満ちた声がした。

「任せてよ」

 どこまでが虚勢で、どこまでが自信なのかは分からないけれど、今は一時少年に全てを任せる。
 そして、ルシェールは王城の地下に開いた「ゲート」に向かって、足早に歩き出した。






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