白と黒の狭間


 ひっそりと静まり返った砦の廊下を歩いていたリューサは、不意に何かの気配を感じ取り、振り向いた。背後には、小さな灯火に照らされながらも暗く静まり返った石の回廊が続き、感じたはずの気配の主は存在していなかった。暗がりに隠れていても、闇エルフと呼ばれる彼には、ある程度の暗闇なら暗視の力で見抜く事が出来る。けれど、どんなに目を凝らしても気配の主は見つける事が出来なかった。
 不思議にこそ思ったが、それ以上は考えず、大人しく部屋へ戻ろうと再び歩を進めた。
 恐らく、小さなねずみか何かの気配と間違えたのだろうと自分に言い聞かせ、その場を後にする。
 今まで寝酒と称し酒瓶二本を空けて飲み過ごしていた食堂は砦の一階にあり、宛がわれた部屋は三階にある。階段は長すぎる事は無いが、酒を飲みすぎたためか眠気が襲ってきて、思うように段を上がる事が出来ない。まるで老人のようによったよったと慎重に、確実に上へと向かう。
 ようやく三階に辿り着く頃には、すっかり目が据わっていた。
 思わず込み上げてきた欠伸を噛み締め、部屋へと続く廊下に足を踏み出そうとした時、足元に何か奇妙なものがいた事に気付き、リューサは躊躇い無くそれを持ち上げた。生暖かい感触が手の中で動き、小さな呻き声が聞こえた。獣とは違う、可愛らしい鳴き声。目線まで持ってくると、それは緑色の普通よりもかなり大きなトカゲに似た生き物だった。

「あれ? お前、確かあの嬢ちゃんと一緒にいた奴だな?」

 見れば見るほど奇妙な生き物をじっくり観察し、記憶の中で同室の少女と戯れていたこの生き物の事を思い出す。はっきりとは憶えていないが、確かこの生き物はジュリアと呼ばれていた少女に最も懐いていた気がする。なのに、こんな夜中とも言える時間にもなって、何故部屋を出ているのだろうか。

「迷子か? ん?」

 からかうように、顎の下あたりを人差し指でくすぐってみると、小さな生き物は小動物らしい高い鳴き声を上げて、喜んでいるのか嫌がっているのか分からない動作で、リューサに掴まれたまま暴れた。

「しょうがねぇから、部屋まで連れてってやるよ」

 トカゲに似たその生き物を肩に乗せると、リューサは再び廊下を歩き出そうとした。
 だが、肩の重みが一瞬増して、すぐその後に軽くなり、振り返ると小さな生き物はリューサが向かう場所とは正反対の方向に走り去ろうとしていた。向かった先は丁度、屋上へ続く階段あたりだ。

「こんな時間に外出るなんて、何したいんだあいつ」

 小動物に文句を言っても仕方ないと感じつつも、折角人が好意を示して連れて行ってやろうとしたのに、それを跳ね除けてまで去っていった生き物に不満を感じ、リューサはその緑色の生き物を追いかけた。
 小さな生き物は階段を一気に上りきり、月明かりに照らされた淡い暗闇の世界へと吸い込まれるように消えた。リューサも負けじと持ち前の身軽さで階段を二段飛ばしに一気に駆け上がり、小さなその姿を探して僅かに冷え込む外へと身を躍らせるように飛び出した。
 扉の無い出入り口の先は、予想通り砦の屋上だった。そう高くない建物だった事は知っていたが、屋上がこんなにも広いとは予想していなかった。円形に穴の空いた、丸い屋上。四つの出入り口が同じ幅に設置されていて、その中の一つからリューサは出てきたらしい。石煉瓦を積んだ砦は殺風景な情景ではあるが、見晴らしはそう悪くは無かった。

「あー……見失ったか」

 折角頑張って追ってみたものの、やはり獣の足に適う訳も無く、小さな生き物の姿を見つける事は出来なかった。仕方が無いので帰ろうかと、リューサは最後に辺りを見渡すと、視界の端に映ったものに驚き、踵を返そうとした足は一瞬動きを止め、再び正面を向く。リューサが視界に捕らえたのは、先ほどリューサを力の限り投げ飛ばしてくれた若いエルフだった。
 ぼんやりと、一人きりで砦から何かを見上げている。よく見れば、その広いとは言えない肩の上に、あの緑色のトカゲに似た生き物がいた。どうやらあの生き物の本当の飼い主は無愛想なこの少年らしい。
 彼はまだこちらに気付いていないのか、もしくは気付かない振りをしているのか分からなかったが、こちらを振り返る気配はなさそうだ。不意にリューサは悪戯心が芽生え、足音を立てずに背後から忍び寄ってみる。足音を立てずに獲物に近づくのは、十八番なのだ。あと少し、背後から大きな声でも出して脅してやろうと言う所で、リューサの体は動きを止めた。
 急にあたりの空気が動いた気がした。風が吹いた訳ではないのに、不可解な何かがリューサの肌を気味悪く撫で付けるように通り過ぎる。背筋が凍りつくような気配を感じ、けれど動く事の出来ない呪縛を掛けられたかのように体の自由が効かない。
 目線だけを横のエルフの少年に向けると、彼は上を見上げていた。その表情は感情を抑えた淡白なものだが、微かに怒気が滲み出ている気がした。
 更に少年の視線の先に視線をやると、そこには不自然に白い何かが空に浮いていた。
 深雪のような混じり気の無い白い光を纏った、人の姿。それは背に翼などついてはいなかったけれど、まるで天使のように思えた。月の光に照らし出されて浮かび上がる、白に近い銀糸の長い髪は風に靡き、彫像のように整った面は緩やかな微笑みすら浮かべている。けれど、その深く澄んだ血の色をした朱の瞳だけは、鋭さを失わずに静かに少年を見下ろしていた。綺麗と思う反面、禍々しいまでの雰囲気を持つ何かがそこにいた。
 ふと一気に体中の力が抜け落ち、リューサはふらりと彼らの死角になる壁に背を預けた。肌で感じる空気に軽い電撃を流したような張り詰めた痛みを覚える。言いようの無い息苦しさを感じ、リューサは胸元を抑えた。二人の存在する空間が異質なものだと、直感が危険を告げる。
 離れた方がいい。
 本能が警鐘を鳴らし、好奇心がそれを押さえ込む。
 そっと、音を立てないように再び壁の角から二人を覗き見ると、二人は何か会話しているようだった。決して談話ではない、棘を含んだ言葉の往来。静かに、リューサは聞き耳を立てた。

「――人違いだよ」

 聞き覚えのある静かな声が先に言葉を発し、次に空に浮いている誰からしき声がそれに答えた。

「いや、違わない」

「あんたはレイルと俺を間違えてるんだろうけど、俺は行かないよ」

 リューサに向けた怒りなど可愛らしいものだったと思えるほど、今の少年の声は冷たく響いた。何処か侮蔑の感情を含む凍てついた瞳で、アジェルは宙に浮かぶ存在を睨みつけた。

「今すぐに立ち去らないなら、力ずくでも帰ってもらうよ」

 鋭く言い放ち、ゆっくりと少年は腕を振り上げた。気のせいか、彼の耳に下がっている細長い青玉の耳飾りが仄かな光を纏っているように見えた。少しずつ、あたりの空気が総毛立つ様に冷え込み、不自然な場がより不安定になっていく。
 そこでようやくリューサは先ほどから感じる不気味な気配を理解した。
 いつも心地良かったはずの「外」の空間に、精霊が存在していなかった。空気のある場所ならば、微弱ながら小さな精霊が存在しているはずなのだが、この場所にはそれが当然のように存在していなかった。異様に重たい空気は、この場所の自然バランスが崩れているから。空間と呼べる中は、精霊たちが充満しているはずで、彼らは世界の汚れを浄化しながら均衡を保つ役割を担っている。だからこそ、精霊の存在しない場ほど不安定な場所は無い。
 精霊と共に生きるエルフが精霊を消すなど考えられない。場を崩したのは恐らく、宙に浮いている一人の白い男だろう。見た目はまるで天の御使いのようだが、彼からは魔族に似た何かがある。
 リューサが固唾を飲んで見守っていると、アジェルは一歩前へ歩を進め見上げた青年にもう一度言葉を投げつけた。

「大人しく、魔界に帰れ」

 すると男はおかしそうに口元を歪め、瞳を細めて笑った。
 その様に、アジェルは気分を害したように眉間に皺を寄せる。けれど真っ直ぐに相手を睨みつけたまま、微動だにしない。
 魔族は笑うのを止めると、今度は優しく微笑んだ。

「わたしも暇な身ではないのでね。今回は大人しく帰らせてもらうさ。……君の事もティラに伝えておこう」

「……ティラ」

「今日はほんの挨拶だ。いずれ改めて迎えにこよう」

 男は微笑の仮面を貼り付けたまま、ちらり、とリューサのいる場所を瞳だけで見やった。
 深い夕暮れ色の瞳に見つめられ、リューサは本能的に危険を感じ、さっと身を隠す。
 それにも関わらず、残酷な言葉が投げかけられた。

「どうやら無粋な輩がいたようだな……」

 その言葉に、アジェルははっとしたように振り返る。死角となっているはずの壁は、リューサを守る防護壁にはなってくれず、長い黒髪が壁際から覗く。
 アジェルの背後から、嘲るような術の詠唱が聞こえた。

「リューサ……!?」

 困惑したような声が聞こえ、続いて魔族の紡ぎあげた呪文の最後の一句が静寂に満ちた空に遠く響き渡る。リューサはどうしようもないまま、己も術で身を守ろうとする。けれど、どんなに魔力を練り上げても、精霊が存在しないこの場所で、精霊の力を借りる術しか扱えないリューサは何の力も放つ事が出来なかった。耳に痛いほどに張り詰めた不安定な場の空気が一層冷えた気がして、リューサは次に襲い来るであろう痛みに、腕で顔を守るように突き出す。勿論、気休めでしかないのだけれど、自然に腕がそう動いた。

「運が悪かったな」

 口調としては穏やかなのに、やけに冷たい響きを持つ一言が投げかけられて、辺りの空気は不安定に揺れた。何か、大きな力の塊のような物が近付いてくる気配を感じ、リューサは思わず眼前の腕をどかし、最後にそれを目に焼き付ける。
 言葉にすれば、それは漆黒の炎と呼べるだろう。それが、リューサを飲み込もうと勢いだって空から急降下してくる。
 リューサは呆然とそれを見つめた。

「馬鹿! 避けろ」

「うわっ」

 急に横から突き飛ばされ、リューサは大きく仰け反った。
 我に返ったように振り返るとリューサがいた場所に、白い男と話をしていたはずの少年が立ち、迫り来る黒い炎に向かって手を翳していた。一瞬、水面に波紋が広がるような不自然な歪みが少年の翳した手の先から発せられた気がした。しかし、それは見間違いのようで、リューサが瞬きの後に再びその場所を凝視すると、何も存在していなかった。
 すぐそこまで迫っていたはずの、漆黒に盛る炎も消えていた。

「な、何が……?」

「ルシェール! 被害を出す気なら、今ここで俺が相手になるよ」

 先ほど、悪戯をけしかけたリューサに対する憤りなど非ではないくらいに、怒りを露わにしてアジェルはルシェールと呼んだ男に怒鳴りつけた。その様に、更にリューサは呆然とする。

「好戦的なところは弟君とよく似ている」

「黙れ」

「……騒ぎになるのは遠慮したい。今回は潔く身を引いてやるさ」

 白い男はそれだけ言うと、リューサを一瞥してから一歩空の上で後退した。
 そして最後に口元だけの微笑を浮かべて、夕闇の彼方に溶けるように消えた。






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