空の上と下


 空は青白く、清々しいと感じるはずなのに、時を止めてしまったように、どこかぎこちない。
 空の上から、やんわりと少女は空の下を見下ろした。
 広がる緑の大地に、灰色の王国が視界に飛び込む。空から見下ろせる極一般的な地上の風景。だが、その緑の大地が何か不吉な黒い気配に包まれていた。目に見えない流れが、そこに存在している。

「あれは……本当に魔族?」

 鈴の鳴るような可愛らしい声で、無機質に言葉を紡ぐ。
 少女は視界に入る地上界に僅かな興味を抱く。そして、少女の視線は更に少し離れた場所を映し出した。人間たちに「ラキア」と呼ばれる王国の、過去の戦争の時に作られた砦。王都からは馬を使えば半時もかからずに辿り着けるであろうその場所に、ラキアの避難民と、武装した傭兵が大勢篭城している。
 王都ラキアは落ちた。
 突然襲ってきた闇に潜んでいるはずの一族によって、半日も持たずに城と町を奪われてしまったのだ。
 決して、人間たちの力が及ばなかったからではない。ラキアは世界的にもかなり大きな国で、他国の侵略も跳ね除け続け、ましてや魔族に敗戦した事は今の今までは一度もなかった。魔族は人間よりも遥かに強い力と身体能力、そして魔力を持つ。だが、ラキアは並みの魔族など、簡単に捻り潰せるだけの力と兵器を持っている。それにもかかわらず、ラキアは落ちた。しかも、王城を攻めたのはたった二人の魔族だったと言うのだ。鮮やかな銀色の二人の魔族。それが、信じられない力を使い、次々と国に存在した人々を、文字通り「飛ばした」。
 その中には、王も兵も民もごっちゃ混ぜだった。だが、誰一人として傷つく事はなく、魔族らしからぬ行動の果てに、彼等は城に閉じこもっている。最初は二人きりだった魔族も、今はその眷属である魔獣や悪魔を召喚していた。まるで、城を守るかのように、王城の回りをうろつかせているのだ。その為、ラキアの人々は城に戻る事が出来ずに、仕方なく傭兵を募った。世界でも有数の資源国でもあるラキアは豊かな国で、戦の為の資金に困る事はない。そして、各地から兵達を集め、王城を取り戻そうと言うのだ。
 だが、それでは無理だと、少女は未来を見ていた。
 たとえ何千何万の兵を送り込んだところで、あの城の魔族には叶わない。事実、十万を超える民人たちを、彼等は難なく都から追い出すことが出来ているのだ。それだけの力を、魔族たちは有している。そこらにいる、下級魔族とは訳が違う。もっと、巨大な力を持つ者達が、そこにいるのだ。

「……もしかしたら……」

 少女は深く思考を巡らせて、一つの可能性を思い浮かべる。
 恐ろしいまでの力持つ闇の一族を、少女は知っている。確か、神話として語り継がれる、事実過去の記録にも、その一族の名があったはずだ。暗い暗い闇の奥底、氷の如く冷ややかな水と共に生きる彼の一族。
 ――水魔の一族。
 長き時を生きてきた天上人に、その名を知らぬ者はいない。魔界の中でも最高位の権力と力を持つ、四つの一族の、最も優れた闇人。それが水魔の一族だ。
 彼等ならば、このような非現実的な行いも出来るのかもしれない。
 そして、少女はもう一つ、伝えられた記録を思い出す。

「……水魔の一族は古代神に深く関わっている……」

 その報告は三年前、地上に視察に行った者から聞いたこと。
 少女の目的は三つ。古代神の御子を抹殺する事。亡き古代神の神石を探し出す事。そして、行方の知れない神族を探し出す事。どれかを果たすまでは天へは帰れない。最も、帰りたい訳ではないのだけれど。
 水魔の一族に近づけば、目的が一つ叶うかもしれない。
 結局、少女は上の駒でしかないのだから、言われた事は実行するだけ。
 少女は最後に一度、空を見上げた。透きとおるように深く澄んだ、淡い水色の空。雲一つ浮かばない、自由の象徴。少女はその空を、紅玉のような深紅の瞳でみつめ、やがて踵を返して空の下へと舞い降りていった。
 全てを終わらせるために――。


◆◇◆◇◆


 荘厳な紅の天井に金の装飾、鮮やかな神の象徴が描かれた壁絵。深い闇を落としたその部屋で、一人の少年が可愛らしく小首をかしげて、面白そうに部屋に描かれた絵を眺めていた。部屋の入口は天地創造の時、三人の神々が存在し、まだ世界が楽園と呼ぶに相応しい時代を描いてある。そしてその次には徐々に廃退し、腐れ行く人と神の姿。さらにその先には、凄惨な戦争の絵が描かれていた。創世神話を全て絵に変えた壁紙は、途中で終わっている。平穏とも嵐の前の静けさとも取れる、今この時代。そこで壁画は途切れているのだ。まだ、誰も未来を知らないからこそ、絵は描かれない。
 少年は暗い部屋でくすり、と忍び笑いを零した。
 まだあどけなさの残る幼い少年だった。ようやく十を少し過ぎたくらいの、小柄な子供。それでも、少年がその身に纏わりつかせる雰囲気は、酷く凍てついていた。微笑んでいるにもかかわらず、その深い暗紫の瞳は笑ってなどいない。冷めた視線で、ただ過去の記録を眺めるだけ。

「人間てさー……、本当に馬鹿だよね」

 暗闇の更に奥へと、声をかける。答えは無いと分かっていながら、少年は更に言葉を続けた。

「何度でも、同じ過ちを繰り返すんだから」

 そう言って、少年は鮮やかに微笑んだ。誰一人、生きた人の存在しない王城で、一人で笑う。やがて、静まり返った部屋の奥底で、何かが動く。物音一つたてずに、暗闇の奥底に存在していたものは、ゆっくりと少年の言葉に答えるようにその姿を表した。交じり気の無い漆黒の闇に紛れていたのは、一人の青年だった。薄暗い部屋の、蝋燭の灯火に当てられて、その姿が朧気に浮かび上がる。
 それは、青年と呼ぶには酷く抽象的過ぎる男だった。肌は血の気の通わない生き物のように青白く、背に届くほどに長く伸ばした髪は神秘的にすら映る白銀。柔らかな衣装に包まれ、痩躯のその体はやはり男性としては儚げに見える。そして、淡い炎に照らし出されたその顔は、やはり繊細な人形細工のように整っていた。
 青年は何も言わずに、少年の傍らまでやってきた。その深い血の色の瞳で、優雅に寝椅子に腰掛ける子供を見やると、少年は嬉しそうに笑いかけてきた。

「ねぇ、あれは見つかったの?」

 闇から現れた青年は少年の問に小さく、細い輪郭を左右に振る。少年は残念そうに肩をすくめた。

「おおよその場所は分かってるのに、肝心の物がみつからないんじゃしょうがないよね。……だから、城の人を残して置けばよかったのに。何か知ってたかもしれないんだから」

 不服と言わんばかりに、少年は口を尖らせた。青年は小さく息を吐くと、仕方がなさそうにようやくその薄い唇を開いた。

「奴等は邪魔なだけだ。……仮にもし、人間たちがあれの存在を知っていたら、国は一夜で戦場に変わっていたはずさ」

 奪い合い、殺し合いの血みどろの戦場と化していたに違いない。それほどの物を、この国の人間たちは知らずに保管していた。いや、正確には隠されていた。世界でも探すことが最も困難とされる物が、この国にはあるはずなのだ。それを、この二人は求めてきた。

「……ルシェ様は手緩いよ。もしかしたら、誰かが知っているかもしれないのに……。僕なら難なく聞きだせる自信があるよ。それに、早く見つけないと上からの評価が落ちちゃうかもしれないし」

「それはお前の勝手な考えだろう。元々、任されたのはこのわたしだ。お前はついて来ただけなのだから、大人しく物を探せ。そうでなければ、強制送還させるぞ」

 青年が声色を下げてそう言うと、少年は不服そうに青年を見上げた。何かを言い返そうと口を開くが、言うべき言葉が思いつかずに、半開きの口を一文字にきつく閉じる。
 ほんの僅かな沈黙が流れ、部屋の暗闇が一層増す。蝋燭の灯火が風も無く揺らめいた。

「……はいはい、分かったよ。僕もこんなつまらない城に長くいたくないし、さっさと終わらせるさ」

 そう言って、少年はようやく寛いでいた体を起こし、立ち上がった。ようやくその幼い肢体が光に触れ、浮かび上がる姿は白と黒の二色で構成されたような少年だった。青年と同じ、銀色の短髪を持つ、小柄な少年だった。その声色と変わらない、あどけなさを残している。しかし、身に纏う衣は漆黒のローブで、まるで呪術師のような服装をしている。そして、何よりもその瞳の色合いが普通ではなかった。左は深い暗紫の瞳をしているが、右の瞳は禍々しいほどに鮮やかな月の色。左右の違う冷たい視線。それが、少年のあどけなさを打ち壊していた。

「それじゃあ、ルシェ様。僕は『下』で宝捜しをしてるから、『上』の事はよろしく」

 ひらり、と片手を上げて少年はにこやかに微笑む。そしてその姿はやがて暗闇と共に薄れ行き、飲み込まれていった。残ったのは、深い深い暗闇だけ。
 ルシェ様と、呼ばれた青年は半ば飽きれたように溜息を吐いた。
 そして、ようやく訪れた静寂に心を落ち着ける。

「……上は……足止めすれば良いだけだろう?」

 上も下もどうせつまらない仕事だ。
 ならば、せめて少しくらいは人間たちと楽しもうかと、心の深い場所で思い浮かべるが、その考えはすぐに消えた。勝手な遊びで命を奪うなど、くだらない事。それは青年の望むものではない。
 ただ、見つけるべきものを見つけ、さっさと心地良い闇へと帰るだけ。
 魔界の御子ルシェールは口元に嘲笑じみた笑みを浮かべた。そして、帰るべき場所に思いを馳せ、やがてそのまま闇と同化するように部屋から掻き消えた。
 残ったのは、重苦しい闇と静寂だけ。

 空の上と下が交わり、やがて少しずつ、何かが音を立てて動き出していく。
 まだ、誰もそのことには気付く事は無かった――……。






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