空の上と下


 手を離せば、走り続けた事により疲弊した足がもつれて転び、後から続く馬車の馬達に踏み潰される事間違いないだろうと思われる黒い男は、精一杯の力を込めて手すりを手繰り寄せた。そして、突然現れた存在に驚きの表情を浮かべている二人の少年に怒鳴りつけた。

「そこ退きつっとるやろ」

 はっと我に返り、エフィーとアジェルは見ず知らずの男に言われたとおり、さっとその場から反射的に退いた。
 すると、男は強く大地を蹴り、必死に馬車の中によじ登った。
 しかし、馬車が大きな石でも踏みつけたのか、突然大きく揺れて男はあと少しのところでバランスを崩し、体が外へと傾いた。

「っわ!」

「危なっ――」

 捕まるものも無く、頭から落ちそうになった所を、寸前でエフィーが手を引いて引き戻した。男は肩の関節が抜けるほど強く腕を引かれ、辛うじて落ちる事は免れた。エフィーは強く引きすぎた反動で、男と共に馬車の中に倒れ込む。傍にいたアジェルは、被害を受けないようにと、傍から身を離す。お陰で何の障害も無く、エフィーは馬車の床に頭を打ち、黒い男は無傷でエフィーの上に乗っかる状態となっていた。

「こう言う時は、受け止めるもんだろ?」

 仰向けにひっくり返ったエフィーが、恨めしそうに隣のエルフを睨む。

「まさか。自分から巻き込まれる馬鹿なんて、そうそういる訳ないよ」

「薄情者」

 眉一つ動かさずに紡がれる言葉は、本気でそう思っている証拠だ。エフィーはとりあえず人情のなんたるかを説教してやりたい心地であったが、自身の上に覆い被さるように倒れてきた男の重みで小さくうめく事しか出来ない。

「あの、重いからどいて」

 上に乗っかっていた男はすぐさま顔をあげると「うわっ! だ、だだ大丈夫かっ!?」と、耳に喧しい叫び声を上げて、体を退けてくれた。
 重みから開放され、エフィーはのろのろと上半身を起こし、突然の訪問者を見る。
 それは、二十代半ばと見える、黒い男だった。その髪の色から瞳の色にかけて、全てが光を反射しない漆黒。髪には鴬色の布を巻きつけ、身にまとう装束は異国の服のようで、補色同士の色合いの蔦模様が描かれていた。薄い布を何枚かに分けて纏う服装は、動きやすそうでもあり、男の旅慣れた様子を伺う事が出来る。美しい、とはまた違う堀の深い精悍な表情。そして、一番に目を引かれたのは、陽に焼けたとは言えない褐色の肌と、金の耳飾をつけた長く尖った耳だった。
 エフィーは思わず隣の森の民だと言うアジェルを見た。
 アジェルの耳も、長く尖っている。けれど、肌の色は決して褐色ではない。むしろ白い方だ。森に住まう民は、直射日光に晒される事が少ない為か、その色素は全体的に薄い。だが、今目の前にいるのは、それと全く逆の姿形をしていた。まるで、色調を反転してしまったかのよう。
 エフィーは馬車の中の男達が、しきりにこちらを見ていた理由が分かった気がした。
 恐らく、馬車まで走ってきたこの黒い男が物珍しくて、視線を投げつけていたのだろう。そして、出入り口にいたエフィーとアジェルは、視線を遮る障害でもあったので、彼を見ようとする視線に、どこか悪意を感じてしまったのかもしれない。
 そう考えると、答えはあっさりと出てくるものだ。
 激しい運動をしてきた男は、ようやく息を整え、エフィーを見てからその薄い唇を開いた。

「はー、あんさんのお陰で助かったわ。あんた、名前何て言うん?」

 少々なまりの混じったような言葉使いをする黒い男は、先程とは打って変わり、爽やかな人懐っこい笑みを浮かべてそう言った。

「僕はエフィー」

 素直に名前だけを言うと、黒い男はエフィーの名前を復唱してから「ん、覚えた」と言って次にアジェルの方を見て、名前を尋ねた。

「あんさんは?」

「人に名前を聞くなら、まずは自分から名乗りなよ」

 初対面の人に対してはいささか警戒している感じで、アジェルは突き放したように言い返す。

「そうだったなぁ。オレはリューサ。見ての通り、ダークエルフだ」

「ダークエルフ?」

 アジェルは珍しく、不思議そうな表情でリューサを見てから、疑問に思った一族の名を問い返す。

「何だ。知らんのか? 結構知名度高いと思うてたんだけどな。ダークエルフっちゅうのは、簡単に言えば肌が黒くて、闇の精霊を扱うのが得意な一族の総称だ。あんさん、何処から来たエルフかは知らんけど、まだ若いだろ? 普通エルフだったら、オレ等の事知ってるはずだぜ?」

「……」

 リューサの言葉にアジェルはむっとしたように眉を潜めた。
 どうやら図星だったらしい。
 エルフは人に比べると、かなりの長命種だ。それ故に、彼らは様々な知識を持っている。軽く数千年の時を生きる彼らは生きる知識そのものだ。勿論、何でも知っているわけではないけれど、それでもエフィーの知る限りアジェルは様々な知識を持っている。だが、どうやらダークエルフの事は知らないらしい。もっとも、閉鎖的な大陸で育ったエフィーとアジェルに、異国の種族の事など知るはずも無いのだけれども。

「なんだ? エルフはオレ等のこと毛嫌いして止まないのに、変な奴だな。ま、オレはエルフ嫌いじゃないから安心して大丈夫だぜ」

「何が安心してなんだよ?」

 不機嫌そうに、アジェルはリューサに問い掛ける。
 よく口の回るダークエルフは、にんまりと笑みを浮かべて得意げに話し出した。

「んー、ダークエルフとエルフは仲悪いからな、顔会わせたら血生臭い喧嘩が展開される事が多いのな。ま、ほとんどオレ等から仕掛けるんだけどな。オレ等が嫌われる理由の一つは好戦的っちゅう項目があるからだ。ま、それも個性の一つだから、大切にせんとな」

 無駄に明るく生き生きと喋るリューサに、エフィーとアジェルは口も挟む暇も無かった。
 それを知ってか知らないでか、リューサは聞いてもいないことを更に話し始めた。

「今回も自分で進んで戦いに参加するだ。今ここにいる傭兵どもは金で収集された奴等だけど、オレは好きで来たんだ。魔族をやっつけて、オレの名声も上がるし、国は安泰。一石二鳥じゃないか……!!」

 感慨深げにリューサは自分の言った言葉に酔いしれているようで、周りからの冷めた視線に全く気付かない。もちろん、その中にはアジェルの視線も含まれているのだけれども。
 エフィーはぎこちなく作り笑顔を向けてやるが、リューサの言葉にふと疑問が沸き起こる。
 今、魔族を倒すだの、戦いに参加する傭兵だの言ってはいなかっただろうか?

「リューサ、浸ってる所悪いんだけど、魔族がどうのって何?」

 まだ妄想の世界に入り浸っていたリューサは、現実に戻ると、きょとんとした表情でエフィーを見た。

「何言ってるん? あんたらもラキアで魔族のゲートが開いたっちゅう緊急事態に、金と名声目当てで傭兵隊に入ったんだろ?」

「は?」

「だから、あんたらも魔族討伐に行くんだろ?」

 今一話の飲み込めないエフィーを横目に、アジェルが再び質問した。

「何の話? 俺たちはただラキアに行くからこの馬車に乗っただけだ。魔族なんて聞いてない」

「変だなー。この馬車はラキアの砦に行くんだぜ? ラキアの王城は今、魔族に占拠されとるからな」

 リューサの言葉に、エフィーとアジェルは意識が蒼白になって行くのを感じた。
 つまり、目的地は魔族に乗っ取られ、何も知らないまま乗っていた馬車は、魔族討伐の傭兵を送るためのもの。エフィー達は完全に勘違いをしていたのだ。というよりも、何も知らないままラキアへ向かおうとしていた。確かにルーン大陸へ向かう途中、ラーフォスの話の中に魔族のゲートが開き、大陸中心部が被害を受けていると聞いた気がする。それでも、このような事態になっているなどとは思ってもみなかったのだ。
 面倒事を避けようなんて話ではない。これからどうなるのか、そちらのほうが真剣に考えるべき事柄だ。
 青ざめる二人をしげしげと眺め、リューサは半ばあきれたように言い放つ。

「もしかしてあんたら、何も知らんでこの大陸に来たんか?」

 その台詞に、返す言葉は見つからない。
 そう、何も知らなかった。全部後の祭りではあるけれど、今更帰る場所も無い。ただなるようになれ、と神に祈りながら、エフィーは呆然と揺れる馬車の中で深く溜息を吐いた。
 またもや予期していない厄介事が降り掛かる気がして、ぼんやりと空を仰ぐ。
 青々とした、雲一つ浮かばない透きとおるような空が、何故か今は清々しいとは思えず、逆に憂鬱な気分を煽り立てているよう。

「何でこうなるんだよ……」

 目的地が無ければ旅人は足止めを喰らうだけ。
 だけどもどうしようもない状況に、エフィーとアジェルは決断を下す事が出来なかった。
 この時、迷いなど切り捨てて馬車を降りていれば、後悔する事も無かったのかもしれない。
 それでも、過ぎてしまう時間は取り戻せない。
 しばらく黙り込んだ二人が、口を開きかけた時、決して待ち侘びてなどいない時が来てしまった。緩やかに揺れていた馬車が急に前につんのめるように止まり、恰幅の良い御者の大きな声が、全ての始まりを告げる。
 ――ラキアの砦に着いたと……。






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